穏やか
時は流れた。
哀しみが覆い尽くし、絶望が支配する、何に哀しみ何に絶望していたのか、それさえも忘れてしまうほどの永い時が流れた。
「ワタシは忘れないわ……」
天界。
変わらず広大な堕天使の間。そこでソファに身を横たえたままクレアリデルは呟いた。
二人は変わらぬ日々を送っていた。
ただ、時の流れのままに時間は過ぎ、原始地球は緑の惑星となり地上を最初の支配者たちが跋扈するようになっていた。が、これまでと同様彼らが地上の絶対的な支配者として君臨していたのは、確かに他の生命たちからすれば長期間であったかもしれないが、やはり定めのままに滅んでいった。長期間に渡る寒期を経てさらに時は流れ人類の始祖とも言うべき生物が誕生した。知恵を最大の武器とした彼らは瞬く間に大地を覆い尽くし、第二の絶対的支配者として君臨するようになった。幾度繰り返しても同じ道行きを辿る地球生命たちの進化。二人はそれをずっと見ていた。数十億年、飽きることなくかつて人類と呼び、これからもそう呼ぶ者たちが誕生し進化する様を見続けてきた。
定められた時が迫っていた。
時は止まることを知らない。それとも、まばたき程度の僅かな時間は止まったりしないのだろうか?
かつてそうしたように、クレアリデルは双子たちを一足先に地球へと降ろした。二人はそこで『素因』を探して旅をするだろう。そして英貴也と出逢う。おそらくはここでもまた、彼はリアのたった一人の相手では無いけれど、それでも彼女に自分が『聖母』であることを強く認識させる。それでこそリアは運命の相手と出逢い、その相手と穏やかな幸せを得られる。
エインデベルもそこでたった一人の相手と出逢える。
フォルシーニアは貴也とともに。
それでこそ英荘は彼女たちの『聖地』になる。
メルキュールもいる。
ミリネールもいる。
ラムリュアもいる。
ラオールもいる。
ジゼルもいる。
そしてセフィネスも。
楽しいことも、嬉しいことも、悲しいことも、つらいことも、何もかもを分かち合い、時に離れ離れになることがあっても必ず帰ってくる場所。
柔らかな日差しの下、なにもない、特別なことはなにもない、けれでも穏やかに緩やかに流れる日々。
光に満ち満ちた思い出たち。
それらをもう思い出のままにしておきたくは無かった。
現実としてその中で生きてゆきたかった。
それがたったひとつの望みだった。
「そうよ、もうなくしたりしないわ。今度こそ手に入れて見せる」
そして再び始まり、再びここへと辿り着いた。
貴也の告白を受けたその夜、フォルシーニアは一人に統合された。
――会うのは、これで二度目ですね。
闇の中、天空より射しこむ一条の光に包まれて彼女は言った。
「あなたは……、あなたは誰? なぜ、わたしと同じ姿をしているのですか?」
――憶えてはいませんか?
もう一人、同様の光に包まれてフォルシーニアが出現した。
――仕方ありません。あの時あなたは錯乱し、正気ではありませんでしたから。
あらためて、わたしはフォルシーニア・サダクビア・ルクヴァ。フォルシーニアの全てを知る者です。
若草色の瞳をしたフォルが言った。
――わたしはフォルシーニア・サダルメルク・ルクヴァ。第三天使としての『お役目』の執行者です。
次に紅い目のフォルが言った。
それぞれのフォルシーニアがサダルスードに挨拶をする。
「わたしはフォルシーニア・サダルスード・ルクヴァと申します」
最後にサダルスードが言った。
――おかしなものですね。自分で自分に自己紹介するなんて。
――でも、それも今日までです。もうわたしたちが三人でいる必要はなくなりました。
「三人? 三人なのですか? でも、どうして、わたしたちは三人になってしまったのです?」
――本当に、忘れてしまったのですね……。
紅い目のフォルが悲しげに言い、全てをサダルスードに打ち明けた。
――あれはサダルスードが何度目かの『お役目』を行使した時のことです。
あなたはその『お役目』が持つ責務の重さに耐えきれず、かといって第三天使であることも放棄できずに、『お役目』を果たすため、その執行者としてサダルメルクを誕生させ、
――そして、その『お役目』を執行するべきか否かを判断するために、サダクビアを誕生させたのです。
途端に、フラッシュバックのように過去の記憶がよみがえった。授けられた『お役目』のあまりの残酷さに、思い、悩み、苦悩し、そしてついにはその痛みに耐えきれなくなり、心が砕けそうになったフォルシーニアの内面は、心を守るために自分自身を三つに分けて彼女たちを創り出したのだ。
「そう、そうでしたね……。わたしの弱さが、迷いが招いたことなのですね……。
わたしの迷いがサダクビアを生み、わたしの弱さがサダルメルクを生んだのですね」
唇を噛み締め、絞り出すような声。
「ごめんなさい……。あなたたちにはつらいことを押しつけてしまって……」
――いいえ、でも、そのことをわたしたちは感謝もしているのです。
――だって、おかげで、可愛いミリネールと逢えたのですから。
今度こそ、フォルシーニアは涙した。ただ、そんな風に言ってくれる二人にすまないような、哀しいようなそんな心に捕われて。
――泣かないで、サダルスード……。
「でも、わたし……、わたしだけが……、お二人はわたしのつらさを引き受けてくれているのに、それなのに……」
――泣かないで。だからわたしたちは再び一つになるのですから。
――そう、サダルスードは自分のそんな弱さを見つめ、それを認めた上で乗り越えることができたのですから。
――全ては彼のおかげです。
今日消えてしまわねばならないのに、二人の口調は喜びに満ち満ちている。だが、それは当然のこと、ようやく一人のフォルシーニアへと還れるのだから。
それはたった一人の人間がなしたこと。
「……貴也さんのことですか?」
懸命に涙を押し留めようとするが、そんなフォルシーニアの意志とは無関係に、後から後から涙は溢れ出す。
――そう、彼はサダルスードの全てを支え、サダルスードは彼の全てを支えることができます。
――それでこそ、わたしたちはかつてそうであった、完全なフォルシーニアへと戻れます。
二人の姿がかき消える。が、気配だけはまだ残っている。
――ありがとう。わたしたちのために泣いてくれて。
――これでお別れではありませんが、
――もう、わたしたちが現れることもありません。ですから……、
――どうか、ミリネールに『ありがとう』と『さようなら』を伝えて……、
姿の見えない二人をサダルスードは、しっかりと抱きしめた。
「ええ、必ず伝えておきますよ。『わたしたち』の大好きなミリネールに……」
腕の中の気配が急速に薄れてゆく。だが、サダルスードは動じたりはしない。二人は消えてしまう訳ではない。かつていた場所へと帰ってくるだけだ。もう、二人の存在は感じられない。どこを探してもここにいるのはフォルシーニア・サダルスード・ルクヴァただ一人だけである。
しかし、心の内が以前にもまして満たされているのが分かる。
サダルメルクもサダクビアも、間違いなくここにいるのだ。
――ただいま。
――帰ってきましたよ、わたし。
「おかえりなさい。ようやく、わたしたちは戻れたのですね」
完全なフォルシーニア。
貴也だけを愛し、貴也だけから愛される。
完全な聖母となった、フォルシーニア・サダルスード・ルクヴァ。
破滅の淵にあったフォルシーニアにもたらされた救い。
それは数え切れない時の果て、
時の概念すら越えた、
永い、
それほどまでに永い時間の果てであった。
「お母さん、ちょっと……あたしを診て欲しいんだけど……」
いつの頃からか、ベルは貴也の母――英美也を『お母さん』と呼んで慕っていた。
天使である彼女に親は存在しない。人を羨む気持ちを隠し切れずに、憧れと尊敬を持ってそう呼んでいるのだ。
貴也の母だけあって彼女は優しい女性だ。だが、貴也のように誰にでも優しいのではなく、言うべきことはきちんとわきまえた強さも持っている。
「どこか具合でも悪いの?」
「え、えと……そうじゃないんです。あの、ちょっと……その……」
普段の振る舞いはどこへやら、しどろもどろに言うだけでちっとも要領を得ない。ついには耳まで真っ赤にして、もじもじと彼女に耳打ちをした。
なるほどね。と、興味深げにベルを眺めたかと思うと、診察室のドアと窓にカギを掛けカーテンを全て閉めてから、インターホンに向かってしばらく誰も部屋に来ないようにと言った。
「とりあえず、診てみましょう。そこのベッドに下着を脱いで足を開いて横になって」
「えっと……脱いで足開かなきゃダメ……?」
「脱がなきゃ触れないし、足開かなきゃ見えないわよ」
さらに真っ赤になって、逃げ道でも探すようにきょろきょろとするが、当然ながらそんな物は無い。それどころか美也の手によって完全に戸締りはされているのだ。
「先に言っておくけど、こんな前線の野戦病院に日本の産婦人科の設備は無いわよ」
あっさり彼女は宣言する。
「さあさ、ラオールには毎晩見せてるし触らせてるんでしょ」
まんまセクハラ親父の言い様でベルに追い討ちをかけ、空いたベッドへ背中を押す。
「毎晩じゃないですよう……、ラオールも忙しいから……」
ぼそぼそと一応は抗議をいれながら、言われたようにベルは横になった。
診てもらっている間中、ベルはずっと緊張しっぱなしだった。
「ふうん……天使でも私たちと同じ形をしているのね」
緊張を紛らわすつもりで、股間を覗き込みながら彼女は言ったが、ベルはますます顔を紅くし、身体を強ばらせた。
「どうですか……?」
彼女は視線も表情も動かさず言った。
「そうね、ちょっと薄いわね。でも、色素の沈着も無いし、それに……」
「わあ! あたしが訊いたのはそうじゃなくてですね! だいたいそれじゃただのセクハラですよ」
「冗談よ」
と、彼女は言うが、顔は大真面目である。それはともかくとして診察は終わった。
「おめでとうベル、あなたとラオールの子ね?」
「え、それじゃあ……」
その表情が喜びへと変わる。
「今、二ヶ月くらいよ。このまま順調に行けば、予定日は来年の七月か八月くらいね。
――どうするの?」
訊くまでも無い。
「もちろん、産みます。でも、できれば日本で産みたいんです」
「英荘?」
「はい。――帰るって約束していますから、いい機会だと思うんです」
下着を着け、服を直しながらベルは言う。
「そっか。――貴成が残念がるわね」
遠征に出て、ここしばらくは本部を留守にしている夫の顔を思い浮かべた。ラオールもジゼルも一緒に帰るに決まっているのだ。
「有能な助手が来てくれたって喜んでたんだけど。
――ま、仕方ないか。あ、でも、帰るのは少し待ってよ。ジゼルの目のこともあるから、――そうね、早くても年が明けてから、それまでは待ってね」
だが、ジゼルの目の治療が予想外に長引き、ベルたちが帰国するのは、当初の予定から四ヶ月以上も過ぎてからだった。
彼女は真にマリアとなった。
大切な、とてもとても大切な『光の子』を胸に抱いて、マリアは英荘へと帰ってきた。
英荘は変わらぬたたずまいを見せ、そこにあった。
胸をつく郷愁――
懐かしい日々。
変わらぬ人々。
貴也、フォル、クレア、メル、ミリ、セフィ、ラム。ベルたちと会えなかったことが残念だったけれど、
また、すぐに会える。そんな予感を抱きながら――
「ただいま」
マリアは言った。
一九九九年七月――
エインデベル、ラオール、ジゼルは帰ってきた。
ジゼルの目は完全に癒されていた。
ラオールは父親に、
ベルは母親に、
三人はそれぞれ違う者へと変わり帰ってきた。
そして――
未来へ続く。
新世紀へ、みんなの想いを乗せて。
世界の果て
彼女が世界に降り立った時、宇宙は終焉を迎えていた。
これより先は何者も存在しえない果ての果て。
時さえもここを越えて流れ行くことは無い。
ここで再び出逢った。
『やっと、やっと逢えた……』
ここで願いは果たされた。
時間も世界も宇宙も、全てが終局を迎え、潰え去ったここで。
『無』も存在しない。
『ここには、やっぱり何も無いのね……』
『ええ、そうね……』
二人は手を取り合った。無も無く、時間も世界も宇宙も、空間さえも無く、存在すら存在しないここで。
『じゃあ、始めましょう。世界がいつまでも幸せに包まれているように』
『そして、あのかけがえのない日々のために。待っているわ。あなたと、あなたとあたしたちの大好きなみんなと一緒に、あなたにまた逢える日まで』
そして創造主は宇宙を創り出した。自らが『基』となることで。
全能神は再び、この宇宙でも彼女を求めるだろう。
再び誕生するまで、この宇宙を見守るだろう。
見守り続ける。
待ち続ける。
両者がその力を行使すれば、全宇宙、全時間、全次元が二人の思うがままにしかならない。しかし、それは望まなかった。
自分たちの世界をどうするかは自分たちで決めねばならない。見守り続けることも、そこを住処と定めることも、かき乱すことも、戦いの場とすることも、全てはそこに生きる者たちの権利なのだ。
『世界はそこに生きる者たちのために……』
『たくさんの幸せのために……』
全ては時が知らしめすままに。
穏やかな日々が始まる。
全てはここから始まった。
そして再び始まった。
ここからここを目指して。
ここから
一番身近な都会まで電車で三十分以上もかかる、片田舎の地方都市のそのまたはずれ。峠とも呼べない小高い丘の上に英荘と言う名の下宿館はある。
変わらずそこにある。
住人たちは大きく変わってしまった。
季節は過ぎ去って行った。
それでも英荘はある。
窓から見上げる空は高く、どこまでも青く、どこまでも続いている。空の広がりは果てしない。ここから始まり、いずれ、ここへとつながっている。一瞬も同じ空は無い。
昨日も今日も明日も、変わらぬ日々がかけがえの無いものであるように。
ラムは約束通り英荘で待ち続けている。
みんなに『おかえり』を言うために。
みんなの『ただいま』を聞くために。
新世紀。『聖地』にて……
遠くで、声がした。
みんないる。
懐かしい顔。
懐かしい日々。
幻などでは無く、現実として。
――よかったね。
誰かがそう言った。
――ただいま。
――おかえり。
遠い声は、今、ここに。