ふと、子供の頃読んだ童話を思い出す。
「あの人は、一体何をしているの?」
それは、未来で犯す罪によって罰を受けている男の話だった。
「もしもあの人が、後で罪を犯さなかったらどうするの?」
わたしが抱いたのと同じ疑問を口にした少女に、返ってきた答えは実に明快だった。
「それならば、益々結構な事ではないか」
あの時、それは一つの物語に過ぎなかった。だが―――……
デジタルアンジュ〜電脳天使 Spiral Seam Story〜
第3話 光の子
ラムリュア『―――――アンタが、ネオミック?』
不意に目の前から声が聞こえた。
眼を上げると、部屋の中央に一人の少年……いや、少女が立っていた。
年のころは10代の前半という所だろうか、幼さの残る顔立ちには不釣合いなくらい強い眼差しでこちらを見ている。
ラムリュア『随分と無用心だね、此処。
もっと苦労するかと思ってたのに、拍子抜けしちゃったよ。
入り口のチェックも形だけだし、中にはアンタ以外は一人もいないし』
まぁ、厳しくても力ずくで入ったけどね、そう言いながら少女はわたしを値踏みするように睨み付けてゆっくりと
こちらに歩を進めてきた。
ネオミック「‘中央’というだけあって仕事の量も半端ではなくてね。
わたしのために無駄に人手を使いたくなかったんだ。
それに、むしろ此処はわたしに職務を全うさせるための設備だからな。
外からの来客にはそれで十分なんだ」
自分で言った台詞に苦笑しながら、書類の上を往復し通しだった手を休めて筆を置く。
僅かに間があって、机の前からは幾分距離を置いた所で立ち止まった少女は少し苛立ったような顔で口を開いた。
ラムリュア『で?』
ぶっきらぼうに、突き放すような口調で放たれた言葉はしかし、わたしにとっては何とも要領を得ないものだった。
ネオミック「『で?』とは?」
ラムリュア『だから、最初に聞いただろ。アンタがネオミックなの?』
あぁそういえば、確かに彼女は初めにそう言っていた。
ようやく少女の意図を了解したわたしは、彼女の問いを肯定した。
ネオミック「あぁ、君の言っている人物が此処、‘中央’の管理局局長であるネオミック・クレイドールのことなら、
確かにそれはわたしのことだよ。」
わたしの返答を聞いて、少女の眼差しが僅かにきつくなったようにみえた。
が、今度は何を返すでもなく静かに立ち尽くしている。
眼は確かにこちらを向いているのだが、先ほどまでのような‘強さ’を感じない。何か、別のところに意識を向けている
ような印象だった。
少女のほうにそれ以上の用が無いのであれば、少々溜め込んでしまっている目の前の書類の山脈をどうにかするのに
専念したいところなのだが、この部屋に入ってきてわざわざわたしの名前を確認しているくらいだ。用が無いということも
あるまい。
とはいえ、少女の様子では向こうから話を続けてくれるのは期待できそうに無い。仕方なく、今度はこちらから声をかける
ことにした。
ネオミック「それで、用件は何かな。すまないが見ての通りのありさまでね。手短に済ませてくれると助かるんだが」
ラムリュア『別に大した用が在る訳じゃないよ。それに―――……直ぐ終わる』
こちらを注視していなかったわけではないようで、少女は直ぐに返答を返してくる。
その眼に先ほどの‘強さ’を戻し、穏やかに答えながら少女は一歩、こちらに向けて足を踏み出した。
それは、ひどく自然な動作だった。
何時の間にか右手に握られた何か――刀剣の柄のように見えた――を振り上げると同時に、少女の全身が弾かれたような
勢いで迫って来た。
かすかに見覚えのあったそれが何なのかに思い至るのと、一体どちらが早かっただろう。少女の手に握られた柄から溢れ
出した黒い光――光を‘黒い’と表現するのもおかしな話だが――がわたしの額を目掛けて振り下ろされる。
そして、わたしに‘終わり’を告げるはずだったろう必殺の一撃は―――……
唐突に、霧散した。
彼女は呆然として、振り下ろした自分の両手とわたしの顔を見つめている。
それはそうだろう。彼女が使おうとした‘力’がわたしの知っている通りのものだとすれば、アレを防いだり止めたり
する手段など決して在り得ないはずなのだから。
絶対の自信を持って振り下ろした刃が、自らの意思に背いて突然消え去ったのだ。
何が起こったのか、想像も出来ないに違いない。
かつての一時期、幾度となく見ていた光景。
その頃を思い出し、僅かに嘆息しながら当時も繰り返し告げていた言葉を久方振りに口にした。
ネオミック「さっき、君はわたしに言ったね。
護衛も付けず、セキュリティも儀礼的に過ぎる、警備があまりにも穴だらけだと。
これがその理由だよ。
―――……わたしにはあらゆる害意が届かない。わたしに符術を施したスヴェティ=ドゥープ、
聖地エヌベルユの巫女が在る限り」
ラムリュア『な……』
ネオミック「だから、私の‘生’に‘終わり’を与えられる人間は、この世に一人しか居ないんだよ。
私が‘光の子’という‘お役目’を終えるまでは、ね。
もっとも、それが何時になるのか、未だに教えてはもらえないんだが……」
自分の声に幾許か自嘲の色が混じっているのに気付いて、誤魔化すように曖昧な笑みを浮かべた。
しかし、目の前の少女はわたしの言葉にどこまで耳を貸しているのか、‘刀剣の柄’を握り締めた両手を小さく震わせて
いる。
三度目の沈黙の後、少女は後ろに跳躍して距離を取ると、重心を落として構えるような姿勢をとった。
と、蜂の羽音に似た響きがかすかに耳に届く。
少女がこの場を去ろうとしているのだと気付いたわたしは、とっさに声をかけていた。
ネオミック「あぁ、ちょっと待ってくれないか?」
……一瞬、少女の周囲の空間が揺らいだようにみえた。おそらくPsiによる転移を試みていたのだろう。
が、わたしの声はかろうじて間に合ったらしい。
少女の姿はその場に留まってくれていた。
とはいえ、警戒を解くまでには至らず、明らかな不審の目をこちらに向けて様子を窺っている。
その様子に、昔良く構っていた仔猫のさまを思い出して頬が緩みそうになったのを悟られぬよう、臆病な仔猫の喉を撫で
つける時のような細心の注意を払いつつ言葉をつなげた。
ネオミック「もし不都合でなければ、話してもらえないか。
君が何者で、どんな事情があってわたしの所に来たのか」
ラムリュア『………………………………、はぁ!?』
わたしの提案はよほど予想外だったらしく、少女はいっそ面白いくらいに目を丸くした呆れ顔を見せてくれた。
しばらく‘鳩が豆鉄砲を食らったような’顔を披露してくれた少女は、これ見よがしに盛大なため息をついてみせると
擬音が聞こえてきそうなジト目で睨み付けてきた。
ラムリュア『―――本気で言ってるの、それ?』
ネオミック「そのつもりだよ。
誤解なら解いておいたほうがお互いのためだし、理由があるならわたしにはそれを知る義務があると思う。
強制は出来ないが、聞かせてもらえると嬉しいね」
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ネオミック「―――……ふむ」
少女の話は、正直にわかには信じがたいものだった。
とはいえ、作り話として聞くにはあまりにも真に迫り過ぎていたし、何より少女の話は先だってスヴェティに語られた
‘計画’と合致する部分が多すぎた。
ラムリュア『随分冷静だね。
まぁ、スヴェティ・ドゥープから聞かされてるんだろうけど』
ネオミック「まぁね。
教えられたのはつい先日なんだが、‘教え方’が強烈なせいでよく憶えているよ」
ラムリュア『……本当は、アンタが彼女と接触する前に仕掛けるつもりだったんだ、エヌベルユで。
けど、あそこは彼女の影響が強すぎて、隙が見つからなかった。それに、護衛についてたLalkaもいたし』
ここなら確実だと思ったのに、そうひとりごちる声を聞きながら、わたしは少女が仇と呼んだモノについて考えていた。
――人類の中に存在するという‘獣’の因子を排除するための時系列監視システム‘Ligarued’――
その要素は大きく分けて三つ。
全ての因果の帰結を観測する‘未来’
Lalkaを統率しEmberの管理を行う‘現在’
そして、超過去への干渉を試みる‘過去’
超過去への干渉。実際のところ、歴史を‘変える’のでなく‘確定する’というのが正確らしい。
システムと同一の名を冠するかの古代人について、真に正確な知識を有するものは御使いたちのなかでも二人だけ。
そして彼女らがそれを語ることのない以上、彼らが何者であったのか我々には知るすべは無い。
ならば、然るべき要素さえ満たしていれば、何者であったとしても齟齬は生じないのだ。
たとえばその正体が、超未来に構築されたシステム上の仮想人格体であっても。
我々の在る現在に到達する要素を有した存在を超過去に送り、かの古代人たちが‘Ligarued’の‘形代’であったことにする。
そうして歴史を変えること無く人類に‘獣’の因子を抑制する要素を‘潜在’させ、到達しうる未来を変革する。
スヴェティは‘アミダの縦糸を増やして、先で折り返しになる位置をずらす’ようなものだと説明していた。
ただし干渉の弊害として、本来在り得なかった歴史の派生が起こり得る。
歴史の多重化による過剰な時間軸の拡散は、総体としての‘宇宙’そのものの消失を招きかねない。
それゆえ、干渉に際しては多くの‘制約’が必要となる。
これについては、現在という瞬間にしか視点を持たないわたしには正確な理解は出来そうになかったが、おそらく
‘伯母’たちやユラナスから以前聞かされたことのある‘お役目’がその一部ということになるのだろう。
わたしの‘母’にとって、‘ネオミック’を生むことが既知の事実であったように。
かつて基星に在った神話の一つに登場する運命の神は、まさに‘未来’‘現在’‘過去’を司る三姉妹であったという。
最も、その神話が神々自身の戦争による世界の滅亡と浄化、そして再生を語ったものであることを思うと、この相似は
むしろ皮肉というほかはないのかもしれないが。
思ったより長く黙考してしまったわたしは、少女のキツイ視線で我に返った。
こちらから話を願っておいて、その相手を放って考え事に浸っていたのはすまなかった。
話への礼と長考を詫びるためにコーヒーを入れようとしたのだが、少女はそれを実に丁重な一言で辞退すると、先ほどと
同じ呆れ顔でため息をついて見せた。
ラムリュア『アンタって、本当に変わってるね。
―――……なんでアンタは、‘Ember’の‘長’になんかなったんだ?』
皮肉というより、心に浮かんだ疑問をそのまま口に出したような問いだった。
我ながら実に同感だと思いながら、わたしは苦笑するしかなかった。
ネオミック「‘長’、か。そんな大層なものではないのだけれどね―――……
‘Ember’……君はそれがどんな意味か知っているかい?」
ラムリュア『‘母から生まれ出でた者’だろ。もともとは‘地球系異星人’と意味だって聞いてるけど。
それが、どうかした?』
当然のような顔で答える少女。
それもそうだ。今でさえ知る者のほとんどない知識を、まだ生まれてさえいない目の前の少女が知っているはずもない。
わたしは、子供に昔話をする老人のような気持ちで――実際、まさにその通りなのだが――話し始めた。
ネオミック「もうひとつ、意味があるんだ。
かつての、‘聖地’と呼ばれるようになる前のエヌベルユを知っている世代にはね」
ネオミック「基星で最も広く使われていた言語ではね、同じ綴りで‘残り火’を意味するんだ。
自らを生み出した炎を失ってなお、その熱を残す‘熾’。
火の星と呼ばれた地の民が、かつての故郷を焼き尽くした自らを揶揄してそう名乗った。
別の言語では‘人’を意味したから、今ではそちらの読みで呼ばれるようになっているが」
‘あの日’、あの惑星で見た黄昏。全てが朱に染まった地平。消えて逝く輝き。
けれどあの時、わたしは信じることが出来た。朝に昇る旭の新たな輝きを。
ネオミック「わたしは、基星という‘火’を失った‘熾’に、もう一度‘光’を与えたかった。
消え逝くだけの残滓でもない、別の何かを焼き尽くす炎でもない。
わたしたちは星々の海を照らし未来を導く‘灯’になれると、そう信じたからだよ」
だからこそわたしはあの日、スヴェティの誓いを受け入れた。
そして、そのために今も生きている。
今も、まだ…………
わたしの埒も無い昔語りを聞き終えた少女は、苦渋の色をにじませて問うた。
ラムリュア『……結局さ、アンタはその望みを果たすまでは絶対に生き終わらないってこと?』
ネオミック「いや、君の意志が刹那でも優れば、あるいはそれを果たすことも可能だろう。
彼女がいかに十全に近くとも、決して十全そのものではないのだから」
間を置かないわたしの返答に、少女は眉をひそめた。
ラムリュア『アンタは、生き終わりたいの?』
ネオミック「自分の終わりを願えるほど、無責任にはなれないよ。
ひとり安らぎを求めるには、余りに多くの想いを背負いすぎたからね」
そう、此処に至るまでたくさんの、本当にたくさんのことがあった。
それはあの日、わたしが選んで始めたことの結果なのだ。それをわたしの都合で投げ出すわけにはいかない。
ネオミック「それに、終わるわけにいかなくなったよ。君の話を聞いてしまった以上はね。
君の言う未来の惨状がわたしの責任だと言うのなら、わたしはそれに対して果たすべき義務がある。」
わたしという‘犠牲’によって未来が良いほうに変わるというのなら、それも一つの選択肢なのかもしれない。
けれど、‘命’を引き換えにして得られるものなど何も無い、それは他人より多少長く生きて得た教訓の一つだった。
何かを為し得るのは生きる者のみだし、‘命’を引き換えにする者はただ何かを負うだけだ。
ネオミック「君がわたしを生き終わらせることを最善だと思うのであれば、わたしはそれを否定しない。
けれど、全力で抵抗させてもらうよ。
わたしは、生きて為すべき事をするのが責任の取り方だと思うからね」
わたしはあらためて姿勢を正し、少女の眼を、今も強い意志を宿してわたしを見据えているその眼を見つめた。
これは誓いだ。
あの日、スヴェティがわたしにしてくれたものには程遠い、けれど、今のわたしの偽りの無い‘想い’。
ネオミック「わたしは、君が来たと言う未来が現実とならぬように力を尽くそう。
スヴェティの‘システム’が必要とされなくなるように。
―――……君の未来が変わるように。
絶対、とは約束できない。
わたしは十全には程遠いし、これという‘力’があるわけでもないのだから。
けれど、最善は尽くす。それだけは信じて欲しい」
ラムリュア『良く分かったよ。
アンタって―――……ホンットに、ヤな奴だね』
そう言って、少女は微笑んだ。
それは少女がこの部屋に現れてから初めて見せた、なんの含みもない、年相応にみえる笑みだった。
ラムリュア『ボクはアンタを生き終らせる―――……必ず、ね。
それが、ボクから‘お祖母さま’を奪ったリガルード‘人’の受けるべき報いだから。
……けど、アンタが‘そういう奴’だったって事は憶えとくよ。
じゃあまた、ね。新しい未来』
フッ、と軽く後方に跳んだ少女の姿は、その足が再び床に届く前に空間に溶けて消え去った。
つい今しがたまで少女が立っていた空間を見ながら、わたしは自分がまた一つ背負い込んでしまった大荷物を想って、
苦笑混じりにため息をついた。
ネオミック「新しい未来、か―――……
一体何時になるのだろうな。わたしがそれを、‘託す’ことが許されるのは」