夜の終わり

 

 

閑静、を通り越してすでに辺鄙で不便な、峠とも呼べない小高い丘の上。首都圏からぎりぎり離れた地方都市の片田舎のそのまた外れ。交通の不便な、しかし、自然に囲まれた場所にこの(はなぶさ)荘という名の下宿館はある。その三号室、ここの管理人であり、今の所ただ一人の住人である英貴也の部屋。その方面ではかなり名の知れた医者である両親は、『愛のため』と言って夫婦そろって海外医療のボランティアでチームを率いて世界へ旅立って行った。彼が子供の時からこれまで、やはり仕事の関係と、医療派遣のチームを率いるのであったり、メンバーとしての参加であったりで引っ越しと転校を繰り返し、ようやくかつて暮らしていたこの街へと帰って来て、そう宣言した時は驚くよりも、むしろ両親らしいと納得し尊敬もした。で、今回は一人日本に残される彼のために、住居を兼ねる診療所を知り合いの不動産屋に売り払い、この下宿館を購入し、残金を当座の生活費として残して旅立ったのだ。

そして数週間が過ぎた。

買い取ったはいいが、大学をはじめ諸々の手続きに思ったよりも時間を取られ、半ば放置されたまま、なかなか引っ越して来られなかった新しい住居にようやく荷物を運び込み、一人暮しや新しい環境――ずっと昔に住んでいた街だけれど――にもようやく慣れた頃にそれは起こった。

「ただいま」

引っ越してきたばかりでまだ入居者ゼロの英荘に習慣的に声をかけて、管理人室を兼ねる自室へと行き、やはり半ば習慣化した行動でデスクトップマシンの電源を入れる。やや型遅れになりつつあるマシンであり起ち上げには若干時間がかかってしまう。その間にバッグを開け、サブマシンとして使っているノートパソコンと今日の講義をまとめたメディアを取り出す。その中からフロッピーディスクを一枚選びデスクトップの前に陣取ると貴也は顔をしかめた。

「フリーズしてる……?」

モニターはウィンドウ状態で完全に静止している。マウスやらキーボードやらをいじってみるがまるで変化なし。強制停止もできない。

「仕方ないか……」

そう呟きリセットボタンに指を伸ばしたとたん――

モニターに彼女が現れた。

まだ、どこか幼さの残る顔立ちによく似合う、くりくりとよく動く赤みがかった瞳で貴也を見つめて、

「ようやく見つけたわ、『素因』」

満面に嬉しそうな笑みをこぼれさせて彼女は言った。

――あれ? 直ったのかな? リアルタイムみたいだけど……こんな案内役の娘がいるのか? でも、CGでもなさそうだし……、

そんな風に考え込んでいる貴也にかまわず、ファンタジーな衣裳に身を包んだ彼女は自己紹介を始めている。

「あたしのことは、どうぞベルと呼んで下さいね」

モニターの向こうで、ベルと名乗った少女が微笑み、丁寧にお辞儀をした。

にこにこと微笑みをたやさず、こちらに――貴也に視線を返し、話し掛けようと口を開きかけた彼女の袖を、モニターに映らない外側から誰かがひっぱっている手が見える。それに気付いた彼女が、その誰かと何か話しているようだが、聞かれたくなくて音声を切ったのか、それとも彼女以外の声は届かないのか、貴也に会話の内容は届いてはいなかった。ただ、雰囲気から察するとベルと名乗った彼女が、画面の外にいる誰かを引き止めようとしているらしい。が、あまり上手くいっていないようだ。

「えと……それでは、後ほど、そちらに伺いますから……」

「後ほどって、ここの……」

リアクションに困り、呆気に取られる貴也に手短に説明すると、引きつった笑顔で、取って付けたように少女が言いつくろうが、唐突に――

「――これからすぐに行くわ!」

どこからともなく、モニターに映っていた女の子とは違う、やや、舌ったらずな感のある声が聞こえた。「誰だ? どこだ?」そう思った瞬間、凄まじい衝撃が下宿館英荘を揺るがした。

「いったい、何なんだ!?

 そこは異世界だった。

派手な赤と青と黄色(トリコロールカラー)にカラーリングされた、人の形に牡牛を混ぜ込んだようなメカが高い場所から飛び降りたような着地ポーズで屈んでいた。

貴也はその風景に、停止した。

「と〜ちゃ〜く、

――って、逆制動が間に合わなかった……? マ、マズイかも……」

「リア! 衝撃波でこの建物が壊れたらどうするのよ!」

思わず窓に駆け寄り、そこから英荘の庭に出現した信じられない物を見て、呆気に取られている貴也の後ろ、誰もいないはずの部屋から聞こえる女の子の声。

ほとんど反射だけで振り向けば、そこには――

そこも異世界だった。

さっきの女の子が、モニターから上半身を乗り出して生えていた。

「あ」

その非常識な姿を見られ、硬直してしまう。

貴也も半ば停止状態にある。

かっきり、秒針が時計を一周した。

凍りついた時間を先に動かしたのは貴也だった。

「君は……さっきの娘?」

脳は状況を理解せず、反射で言葉だけを吐き出していた。

「は、はい、――え、え〜と、あっはは〜、今、来ちゃいました」

愛想笑いを浮かべつつ、モニターから這い出してくる。

「それでは、しつれいしま〜す」

そのあまりに非常識な連続に、貴也の脳は瞬時に現実逃避モードに切り替わった。

「うぅ、これは夢だ、幻覚なんだ。ここのところ、引越しの手続きや大学のレポートで睡眠不足だったから……、

………………もう寝よ」

「わあ! 寝ちゃダメですよ〜」

しかし、現実から逃避しようにも、ベルと名乗った女の子が服の裾を引っ張る感触は確かに現実だ。逃避状態の意識の片隅でぼんやりとそんなことを思いながら、手を引かれるままに庭まで――さっきのメカが着地した場所まで連れて来られてしまった。

もちろん、その手は暖かかった。

……どうやら、どうでも夢や幻ではないらしい。

「んもう……ベルが三年もムダに時を刻むから、ハッチが狭くなって……」

そのメカの背中を見れば、三重になった乗降ハッチから女の子が出ようと苦労していた。地上へと降りた時からいくぶん背が伸びている。いくら、彼女のそれがベルに比べて遅いと言っても、三年もあれば少しは成長もするのだ。

「ふぅ……やっと出れた」

もぞもぞとおしりから這い出して降りてきたその娘は、ベルとまったく同じ顔をしている。髪型や着ている衣裳、まとっている雰囲気や体型はまるで違うが顔立ちは鏡に写した様にそっくりだ。

「お、同じ顔だ……」

「あ、あたしたちは双子なんです。

あらためまして、あたしはエインデベル・デネボーラ・レグルスと申します。どうか、ベルとお呼び下さい。

そして、あの娘があたしの妹で……」

「は、はじめまして……リアムローダ・アルキオネ・ヒアデスといいます……」

活動的なベルとは対照的に、うつむきかげんで頬を赤らめながらもじもじと話す。

「――ベル、その人が、その……『素因』なの?」

またもおずおずと言ったふうにベルに訊ねている。そんな彼女を見ていると、急速に現実感を貴也は取り戻し、二人を観察する余裕もできていた。注意深く見るまでも無くベルと名乗った少女が活動的なのに比べて、リアムローダは内向的なようだ。それとも人見知りが激しいのだろうか? この貴也の抱いた印象は間違ってはいないが若干違っていたことを彼は後で知ることになる。ただ、対照的なその仕草を見ていると、いくら双子だと言っても別々の人間なのだと言う証に思えた。

「そうよリア、あたしとレオニスがようやく見つけた、完璧に『ベスティア』では無い人間。

――『素因』よ」

「『そいん』? それに君たちは一体……?」

「あたしたちは――」

「――天使なのよ」

まるで示し合わせたかのように二人は答えた。

 

 

天界、堕天使の間。

そのとてつもなく広いリビング、その広大さに比べて、極端に少ない家具が余計に部屋を広く感じさせている。ある物と言えば部屋の中央に置かれたソファとテーブル、観葉植物。空中に浮いているモニター。それにいくつかの小物のみ。しかもそれらは一ヶ所に集中して配置されており、残りの空間には何も無い。さらに一方の壁がガラスのような透明な材質で外の景色が望めるようにになっているため、輪をかけて広く感じられた。そこからは宇宙空間を、そして漆黒に浮かぶ青い星、地球を見渡すことができるようになっている。

「クレアさん! これ、食べて食べて、新作なのよ」

お手製の焼き菓子を盛り付けたお皿を手に、はしゃいでいる女性の声。

「メル……甘いものはワタシあんまり……」

こちらは、それとは対照的に困ったような、それでも決して邪険にはしない女性の声。

メルと呼ばれた女性は、そんな声など聞こえないとでも言わんばかりに、慣れた手つきでお茶の用意している。テーブルの中央にはメルお手製の焼き菓子を始めとする色とりどりのお菓子が、見た目も綺麗に、そして豪華に盛り付けられている。

これまでの数十億年、さらに永きにわたり繰り返されてきた日常、あとほんの少しだけ、これまでの時間に比べたらわずか瞬きにすら等しい時間だけ続けられる日々。あるいは再び繰り返すのだとしても、これらがもう間もなく失われることを二人は知っている。次々に目覚める堕天使たち、メルの妹ミリも二年前に目覚めてここにいる。その日が来ればその全ての者が『お役目』を持って地球へと降り立つのだ。

――『最後の審判』のために。

「ふふ〜ん、そう思って甘さは控えめなのよ。――ミリもいらっしゃ〜い、お三時にするわよ」

料理のために結い上げていた髪をほどきながら、地球が見える場所で座っている女の子に声をかける。

メルの妹のミリ。

聞こえているのかいないのか、ずっと地球を眺めたままでいる。

――あと二年、たった二年しかない。

二年後に来る最後の日に思いを馳せる。

――その日が来れば『最後の審判』が行われ、おそらく人類は天使たちに滅ぼされてしまう。

その日が二年後だということに何の疑念すらも抱いていない。

――それだけは何としても阻止しなきゃ。

「ミーリー! 早く来ないと、クレアさんにお菓子をぜ〜んぶ食べられちゃうわよ!」

ミリの心情など知らないかのように、後ろで何やら文句を言っているクレアの声を無視して、和やかにかけられる声。いつもいつも毎日決まった時間になると、お菓子を焼いて午後のお茶とおしゃべりを楽しんでいる。

――それも敵の天使と!

「おーい、ミリー、ミリネール!」

またも催促の声。

それが我慢の限界だった。

すっくと、立ち上がるとそのまま部屋を出る。お三時にはいつも付き合っているわけじゃないから無理に引き止められたりしない。実際、ミリを見送りながら、メルは少し肩をすくめただけだった。

「天使たちに人類を滅ぼさせやしない! 人類はアタシの手で守って見せる!!

一人、密かに決意を固めると、天界を離れ地球へと降りる。

目指すは、すでに地上へと降りている二人の天使。

――この二人を始末する。

それが堕天使として、人類を守る為の彼女の正義。

 

 

所変わって、英荘共同リビング。

行儀よく正座している双子の天使。隣接するキッチンでは貴也が慣れない手つきでお茶の用意をしようと悪戦苦闘している。

「……あのぅ、貴也さん、あたしお手伝いしましょうか?」

「大丈夫、大丈夫だからそこで座って待ってて」

慣れない手つきを見れば、全然説得力が無い。

待つことしばし、お茶の用意をした貴也が戻って来る。

「うまくはないかもしれないけど……」

苦笑して貴也が用意したお茶を飲んでみる。意外、と言えば失礼だけどそれは思ったよりもずっと美味しかった。

「それじゃ、いろいろ聞かせてくれる? さっき言っていたこととか」

一心地ついた所で、本題を切り出す。聞きたいことは幾つもあるのだ。にこにこしてお茶を飲んでいるベルや、もじもじしてなかなか手をつけられないでいるリアを見ていると、夢か幻覚かと思えてくるけれど、アルデバラムとか言う神機は今も家の外でじっとしているし、目の前では天使だという双子の女の子がお茶を飲んでいる。

どうも全部を現実として受け入れなければならないらしい。

「あたしたちに答えられることでしたら」

「それじゃあ――天使っていうのは?」

「もちろん、あたしたちのことよ」

躊躇無く当然のこととしてベルが答える。

「いや、オレが聞きたかったのはそう言うことじゃなくて……」

どう言うべきか逡巡する。

神の御使い、だろうか?

貴也の思い浮かべる天使と言えば、翼があって頭の上にリングを浮かべて白い衣裳を着ている、そんなイメージがあるけれど、目の前の二人は見た目には普通の女の子と変わりが無い。

言葉を捜すだけの僅かな間。そこでベルが口を開く。

「あたしたちはそういうのとは違いますから」

「え?」

「はい?」

見透かされた?

一瞬貴也はそう思った。しかし、目の前の二人からはそんな素振りは全く見えない。

「それじゃあ、ベスティアって言うのは……?」

気を取りなおして質問を変えてみる。

「強欲で、憎悪を抱き、懐疑的な、暴力を振るう、獣の心を持つ人たちのことです」

「アタシたちの敵――そうゆう人たちのことを、アタシたちはベスティアって呼んでいるのよ」

一転して神妙な面持ちになる。それが何のことか分からない貴也もその雰囲気に引きずられてしまうほどに。多分、ファンタジーでありがちな設定とは遠くかけ離れたものだと、その真剣さだけで思い知れるほどに。

「それに、オレのこと――『そいん』だとか……?」

貴也は次々と抱いた疑問を二人にぶつけた。

「あ、あの……『素因』っていうのは……」

それまで明快に答えていたのに、そこで初めて答えることを躊躇う。口ごもるリアをベルが引き取る。

「完璧にベスティアではない人のこと、そして……始めての人――」

「……初めての人?」

意識とは別の所で、思わず頬が緩みそうになり、訊き返す声のトーンも少し変わってしまう。

「んぅ……と、たぶん、勘違いしていますね。そうじゃなくて――基になる、スタートの人のことです」

「スタートの人? それって、どうゆうこと……? 何の始まりのことなんだい?」

「貴也が気にすることないわ。まだ先のことだもの。ただ貴也はその時まで自分で思うように、自分らしくしていてほしいの」

「……つまり、今のままでいいってことかい? 一体これから何が起きるって言うんだ?」

下唇に人差し指を当てた可愛い仕草で、ベルは中空に視線をさ迷わせ、

「んー、と言うよりは未来や『聖母』のために……」

「ベル、まだ言っちゃダメよ!」

「あ、そうか、ゴメン」

嬉しくて嬉しくしょうがないというふうに、にこにこしているベルと、見つめれば頬を赤らめうつむいてしまい、またおずおずと視線を返すリアの二人の表情から、心の内を読み取ることはできない。

「これ以上詳しいことをあたしから『素因』にお話しすることは、干渉してしまうことになりますからお話しすることはできません。リアにはそれも許されていますけれど……」

「で、でも、アタシは……まだ、その……決めたわけじゃないから……だから、その……」

「ん……まぁ、いいけど、時間はまだあるし」

ちらりとリアを見やると、ため息まじりにベルは言った。

「時間はまだある? 何だかよくわからないな……」

「あたしからは言うべきことじゃないですし、リアもまだ言うつもりは無いみたいですから、でも、どうかあたしたちのことを信用してください」

「あの、ずっと今のままでいてくれたら……『ベスティア』にならずにいてくれたら、そうしたら、いつか、ちゃんと貴也に話すわ。

――それじゃいけない……?」

少し上目遣いに瞳を潤ませて視線を返してくるリア。ずるいな、とは思っても、そんな顔で『お願い』されたらダメとは言えなくなってしまう。

「今、言いたくないのなら無理には訊かないよ。それに、いつか話してくれるんだろう?」

「ありがとう、貴也。――ええ、きっと話すわ」

可愛い女の子の可愛い顔を見るのは悪い気分ではない。

ふと、かすかに感じる気配に視線を向ければ、窓の外では降り注ぐ陽光の下、アルデバラムという名の神機が、今なお、身動き一つせずに屈んでいる。そこだけが何か、非現実的な異世界へと変わってしまったかのように。

「ところで、あの外にいる神機……って言うのは?」

「あの子たちはあたしたちの片割れなんです。あたしたちはそれぞれ『お役目』とそれを果たすための『神機』を授かっているんですよ」

「――誰に……?」

授けられたと言うのなら当然浮かぶ疑問だ。

「超古代――この地球が誕生するより以前から存在する、あたしたちの神である創造主から」

「アタシたちは、リガルード『神』と呼んでいるのよ」

――オレたちの考える神とは違うのだろうか……?

ふと、違和感を覚える。神の存在を語る時にもその表情は変わらない。

「ふ〜ん、それじゃあ、ベルもあれと同じような『神機』を……?」

「はい、あたしの『神機』はレオニスという子です」

「レオニス? あのアルデバラムとか言うのとは……?」

「違いますよ。姿は似ているけど……でも、それだけです」

ふと、その言葉が目の前にいる二人に重なる。

「似ている……だけ?」

「あたしとリアは『お役目』が違いますから」

どことなく、そう言う表情が翳って見える。自嘲的とも言える自分だけに向けられたさみしげな笑み。

 こうして、改めてよく見れば双子とはいえ、ベルとリアは明らかに違う。ベルが顔も身体も女性としての丸みを持っているのに対して、リアはかなり細い。輪郭も身体も未成熟といっていいほどに対照的である。

そんなことを考えている貴也の方を、リアがちらちら窺っているのはさっきからそうだが、ベルまで何かを切り出しにくそうにしている。

「どうかしたの?」と貴也が切り出す前に、ベルが意を決して口を開いた。

「あのぅ、実は、あたしたち……これから行くところが無いんです。それで、あの……貴也さん、あたしたちがここにいたら迷惑ですか?」

「ここって、()()にかい?」

二人してこっくりと頷く。

まるでリアがうつったように恥ずかしげに言うベルが、貴也にはなんだか可笑しかった。行くところが無くて困っている人――天使だけど――を前にして可笑しいと言うのも失礼だと思ったけれど、まだ始めたばかりとはいえここは下宿館なのだ、ここに住もうと言う者を拒む理由は何も無い。

――何よりも、困っている人を見捨てるなど絶対に貴也はしたくなかった。

「いいよ、この英荘にいても」

だから、貴也にとって、これは当然の答えなのだ。

「ありがとう、貴也さん」

心底嬉しそうにベルがお礼を言ってくる。

「よかったわね、リア」

にこにこ顔のベルが、かるく笑いながらリアに声をかける。

「そんなこと、アタシは……」

後半は空気にとけるように消えてしまう。またしてもうつむいてしまう。

「どうかしたの?」

訝しげに貴也が訊く。

「別に、あの……何でもないですからっ」

リアが慌てて否定してくる。だから貴也もそれ以上は訊かなかった。

「じゃあ、好きな部屋を使っていいから。――と言いたいんだけど、実はオレも越してきたばかりで、他の部屋はまだ準備できてないんだ……」

言いつつ共同リビングから一番近い一号室のドアを開ける。確かに貴也の言うように家具の一つも運び込まれていないのは当然としても、掃除すら中途半端にしかしていない殺風景な室内。女の子にここで過ごせと言うのもかなり酷である。

二人も貴也の下から覗きこんで顔をしかめた。

「あ、あの……他の部屋もこんななんですか?」

「まあ……まだ掃除もできてなかったから……」

二人して黙りこくってしまう。

「とりあえず、今日はオレの部屋を使えばいいから」

突然帰って来るかもしれないと言う両親の言に従って、一応は布団の予備ぐらいならある。

「オレだったらここでいいから」

リビングのソファを指す。

「そんな、あたしたちがお邪魔するんですから悪いです。貴也さんもご自分の部屋を使ってください」

「いや、ホントにオレはいいから、――ってオレも?」

「はい。貴也さんのお部屋ですから。それに寝起きするだけなら三人でも充分ですから」

屈託なくベルは言いきった。リアも別にそうすることに不満があるわけでもないらしい。その表情は変わらない。貴也の頭の中を邪だったり、そうでなかったりする考えがぐるぐる渦巻く。

「ね、貴也、ダメかな……?」

実はリアの『お願い』する顔に弱いのかもしれない。頭のスミでそんなことを考えながら、まあ、いいか。と貴也は頷いた。

 

 

ようやくブラックアウトを抜けたエルメスフェネックが、地球の空を飛んでいた。

「着いちゃった……」

現在、高度を徐々に落とし、太平洋を北進中。

ずっと天界から眺めていた地球。あっけないほど簡単に来ることができたのだ。

だが、代償がある。

「もう天界には戻れない……」

一度、天界を離れればもう戻ることはできない。他の仲間たちにも、姉、メルキュールにももう会うことはできない。

――来たるべき、『最後の審判』までは。

覚悟はしていたが、あらためて言葉にすれば悲しみが迫って来るのが分かる。

たった、二年間だけとはいえ、これまで暮らしてきた天界、大好きな姉、大勢の仲間たち、決して楽しい想い出ばかりではないけれど、『最後の審判』の日まで続くはずの……、もう二度と戻らない日々。

だが、いつまでも悲しみにくれてはいられない。気持ちを切り替えるように頭を一振りして、改めて地上の景色を見渡す。眼下には海洋が広がりエルメスフェネックが押し退けた空気が水面を切り裂き、水飛沫を上げている。水平線の彼方へと沈みゆく太陽の光を反射してきらきらと輝き、目を移せば大陸やどこかの島の影を見て取ることもできた。

「なんだか、可笑しい……」

知らず知らずの内にくすくす笑いがもれていた。可笑しくて、嬉しくて、楽しくて、そして懐かしい……。

――懐かしい……?

笑みが消え眉をきゅっと寄せ考え込む。いつも天界から地球を眺めてはいたけれど、目覚めてから一度でも地球の景色は見たことが無い、それなのに記憶と心の奥底には、この星への畏れと感動が確かに存在し懐かしいと感じている。

「どうしてアタシ……、懐かしい気がするの? おかしい、おかしいよこんなのっ」

自分の心が分からず苛立たしげに呟く、そんなミリの心情を知ってか知らずか、唐突にエルメスフェネックが天使の居場所を示してきた。

「うう……ダメよ、今はあの天使たちを消去する方が先なんだからっ」

気にはなるけど、今は何の為にここへ来たのか、そっちの方が重要だ。思考を切り替え天使のいる方向に視線を巡らす。もちろん、いくら堕天使と獣機の目をもってしても見えるような距離ではない。

「天使たちはあっちね……」

エルメスフェネックが更に詳細なデータを表示する。

「それじゃあ……行きましょうか、エルメスフェネック」

太陽はすでに沈み、今は月が海面を照らしている。

ミリは獣機を更に加速させた。

 

 

「それじゃ、オレ、戸締りとかしてくるから、君たちは先に眠っててもいいよ」

『は〜い、おやすみなさ〜い』

どこからともなくベルが用意したパジャマに着替えた、双子たちの声をそろえた返事に見送られて、貴也は玄関の方へと向かった。

結局、今夜は三人が三号室で――貴也の部屋で眠ることになった。

貴也としても『嬉しくない』と言えば嘘になるけれど、別に特別な何かが起こる訳ではないのだ。何よりベルもリアも男と同じ部屋で眠ることをまるで気にした様子は無い。それに、貴也自身あの双子の姉妹を恋愛の対象というよりも、新しくできた妹のように感じていた。

 

「よかったわねリア、『素因』が見つかって」

自分の布団に寝転がりながらベルは言った。

「優しそうないい人だし、ね」

にこにことした笑みをたやさないベル。だがリアにはなんだかそれが無理をしているように見えた。

「ベル?」

「今日からはね、あの人があたしに代わるのよ」

「ベル、それって……」

「別に何も変わらないわ。ただ、あの人があたしに代わるだけ、それだけのことよ」

――そう、なにも変わらないわ……。

そのはずだった。これまでリアを支え続けていたベル。そして同じようにリアに支えられてきたベル。どんな時でも、何があっても二人でいたからこそここまで来れたのだ。それは分かっている。分かってはいても込み上げてくる寂寥感はどうしようもなく拭えなかった。

「でも……」

「大丈夫よ、あたしとレオニスが選んだ『素因』だもの。きっと、貴也さんはリアのための『素因』よ」

おどけたようにお気楽に言う。だが、リアはそんなに簡単に割り切れない。地球に降りてからずっと二人きりだったのだ。いくら『素因』に逢えたからといっても、そんな風には思えない。

「だって、それじゃあベルは……」

「あたしならいいのよ。だって、それはあたしの『お役目』じゃなくてマリアの『お役目』だもの。だからね、あたしなら気にしないで。ね?

それとも、リアは『素因』を見つけたからって、あたしがどこかへ行っちゃうとでも思うの?」

「ううん、そんなことない――」

「でしょう? だから大丈夫よ。ね?」

「う、うん」

リアはかすかに頷いた。

「それじゃあ、あたし先に眠るわ」

さっさと陣取った、真ん中の布団にもぐりこむ。

「おやすみなさい、リア」

ベルの寝つきはいい。横になったかと思うと、もう小さく可愛らしい寝息をたてていた。

「おやすみなさい、姉さん。――それから、ありがとう」

 

「――『素因』……新未来(ネオミック)の父か……」

貴也が部屋に戻ってきた時、リアは物憂げな表情で開け放った窓枠に腰掛けて、彼方にしか街の灯が見えない夜景を見るとなしに眺めていた。

ベルは、三組並べた布団の真ん中ですでに安らかな寝息をたてている。ただし、寝相は悪い、を通り越してひどい。窓側――リアの布団の方へすでにはみ出している。

「――眠れないのかい?」

「あ、貴也――なんとなくね……」

返す言葉も表情も心なしか沈んで見える。

「どうかしたの? リアムローダ」

「うぅん、別に……なんでも……」

否定する姿が、ひどく頼りない。

「やっぱりなんでもなくない。あ、あの……貴也にお願いがあるの」

それが言い出せなくて物思いにふけっていたのだろうか? 何か違う気がする。でも、今の彼女からは何か決意のようなものが感じられる。

「これからは、アタシのこと『マリア』って、呼んでもらえる?」

「『マリア』? でも、ベルは君のことを……」

『リア』と呼んでいたはずなのに、と続ける前に彼女が言葉を重ねてきた。

「ねぇ、いいでしょう?」

彼女が何を考えてそう言い出したのか貴也には分からなかったが、その真剣な眼差しを見れば、決して思いつきや気まぐれで言い出したのではない、決心してそう望んでいるのだ。それなら、それを拒否して気落ちさせたくなかった。

「いいよ、『マリア』」

「ありがとう、えへへ、うれしいな」

そう名を呼ぶだけで、きっと、大切な意味があるのだと貴也が思うくらいに嬉しそうな笑みを浮かべている。

「ねえ、『マリア』って……?」

「アタシの本当の名前なの。マリアローダ・アルキオネ・ヒアデス。だから『マリア』」

「それじゃあ、『リア』っていうのは?」

「アタシの幼名。リアムローダ・アルキオネ・ヒアデス。で『リア』というわけなの」

 にこにこと嬉しそうに、微笑みをたやさずに自分の名前を説明する。

「それじゃあ、マリアはもう幼名を名乗らないんだ?」

「うぅん、まだダメ……。本当はね、まだダメなの。アタシが『マリアローダ』を名乗れるのは、本当はアタシが『お役目』を果たしてからなの」

どことも知れず、どう進んで行くのかのかも分からない未来に、不安を抱きながら告白を続ける。

――貴也がその意味に気付くのは、ずっと先のことだと思いながら。

「それなのに、オレが『マリア』なんて呼んでもいいの?」

「だって、アタシ……」

この人なら、貴也なら『ベスティア』にはならずに、ずっと『素因』でいてくれる。そんな予感めいたものを確信しながら告白をする。

「貴也からは『マリア』って呼ばれたいんだもの」

いるかどうかも分からない、たった一人の運命の相手、それが貴也だと信じながら。

なんとなく、見つめ合ってしまう。もう、視線はそらさない。

ごろん、と、またベルが寝返りをうった。もう、マリアの布団を半分近く持っていってしまっている。

期せずして、同時にベルへと視線を落とし、再び見つめ合う。

「ねえ、こっちとそっちで話しているとベルが起きちゃうよ。

――ねえ、アタシ、そっちに行ってもいい?」

そう言って、貴也の布団を指差す。

まさか、同じ布団で眠りたいって言うんじゃないだろうな、とは思ったけど、すでに同じ部屋で無防備に熟睡しているベルを見ていると、それ意外の意味が思いつかない。

「ねえ、いいでしょう」

一人っ子の貴也には分からないけれど、妹がいるというのはこんな感じだろうかと、それほど深く考えていなかった。

「いいよ」

「わあい! うれしいな!」

腰掛けるために開けていた窓を閉めると、眠っているベルを起こさないように貴也の側にやって来る。

「アタシ、たぶんこっちの方がよく眠れると思うの」

嬉々として貴也の布団にもぐりこんでくる。

「わあ、あったか〜い」

「寒かったの?」

「ううん、そんなことないけど……」

他人を感じられることの喜びと安心感、それが言葉になって出ただけなのに、そんなことにも気遣ってくれる貴也の心が嬉しかった。

「それじゃあ、おやすみ、マリア」

「ん、おやすみなさい」

仲のいい兄妹が、添い寝をしているようにしか見えない光景、実際にその通りだし、貴也もマリアもそのつもりなのだ。しかし、マリアの願いは更に向こうにある。貴也がこのままでい続けられたら、いつか話す時が来るかもしれない願い。

ただ、マリアは貴也であればいいのにと思っていた。

「――人がみんな、貴也みたいだといいのに……」

みんな、それを願っている……。

「そうしたら……そうしたら、アタシ、アタシたちだって自分の『お役目』を果たすことだって苦じゃないのに……」

伏せた睫毛が切なく、あまりにいじらしい。

「マリアの『お役目』って?」

天使が創造主により授けられた『お役目』。ただ、純粋に知りたかった。

「教えな〜い」

まじまじと貴也を見つめ返し、くすくす笑いで簡単にはぐらかす。

「それじゃあ、ベルの『お役目』は?」

「それは……アタシ、教えられないの」

今度はうって変わって、枕の上でそっと目を伏せる。

ベルの『お役目』。その日が来るまで人類には誰にも話せない、やはり、人類全体の存続に関わる『お役目』がある。

「――教えてもらえないことばかりなんだね」

そんなつもりはなくても、つい、意地悪な言い方になってしまった自分の言葉に、貴也はかすかな後悔を覚える。

「そんなこと言わないでよ、貴也のためにそうしたいのに……」

「……ごめん」

見つめ返すマリアの瞳に曇りは無い。しかし憂いを帯びている。本当に自分のことを思っていてくれることが、貴也にはよく分かった。

「オレのためにって、どうゆうこと?」

「アタシたちのために、生きて欲しくないから」

あまりに切なく、いじらしい告白だった。すでに自分の為だけに生きることのできない者へ、共に生きることを望み、それでも生き続けることへの足枷になりたくないと言う。

「だから、教えない」

笑顔の言葉さえ、気丈なものに思えてしまう。好奇心もすでに無い。

「どうしてもって言うのなら、アタシの『お役目』だけなら……貴也に教えてあげてもいいけど……」

「聞いたら、オレ……『ベスティア』になっちゃう?」

「うぅん」

否定する、でも、もしかすると少しだけ近付いてしまうかもしれない。『ベスティア』に、では無く、それとも、本当に何も変わらないかもしれない。

神でない者に未来など分かるはずもなかった。

「それじゃあ、教えてくれる」

どれだけ迷っても、躊躇っても、だから、訊きたかった。それ以上に知らなければならない。そう思えたから。

「あたしの『お役目』は、ね」

まるで、別人のように慈愛に溢れる声で語りだす。

「『新未来(ネオミック)』を誕生させることなの」

「『ネオミック』?」

「『新未来(ネオミック)』よ。新しい未来……」

うっとりと囁くその表情は見惚れるほどに綺麗だった。実際貴也は見つめるマリアから視線をそらすことができなかった。

「いいお名前でしょう?」

が、すぐに女の子の顔に戻ってしまう。

「あ……子供のこと?」

聞いてはいけないことを聞いたような、気後れと気恥ずかしさを感じてしまう。

「そうよ」

微笑みに貴也への想いを込めながら、貴也が意外に思うくらいあっさりと肯定する。

「アタシの『お役目』は、『新未来(ネオミック)』を……『光の子』を生むこと……」

「『光の子』って? その子はいったい……?」

「『光の子』よ。それで『新未来(ネオミック)』。その子が何をするかは、その子の『お役目』だもの」

当然のこととして答える。

紡がれる未来、その為には人類には越えなければならない試練がある。

その先にこそ『光の子』の『お役目』が果たされる世界がある。

「アタシの『お役目』についてはもう教えたわよ。だから、もうおしまい」

今一つ、釈然としないが、これ以上は訊けない。

「ん……仕方ない、それじゃ、おやすみ、マリア」

「ん、おやすみなさい」

だが、貴也には一つだけ――いや、他にもあるけれど、強烈に『何故?』と思えることがあった。

――どうしてオレなんだ?

 

 

ただ、あなたのためにできること

 

 

「眠れないわよ、今夜は」

高台にある英荘は、麓の街に比べて空気が澄んでいる。街中に比べ、夜空に見える星の数はずっと多い。そんな降るような星空の下、南の空から、

堕天使降臨。

約束の日を待たずして、ベスティアリーダーが地上へと降り立ってしまった。

あるいはその為に、定められた運命が変わってしまったのかもしれない。

――それとも、これさえも運命なのだろうか?

「天使たち、出てらっしゃい! そこにいるのはわかってるのよ!」

拡声された声が英荘に響き渡る。それは当然三号室で眠っている貴也と天使たちの耳に届いた。

まだ、庭でじっとしていたマリアの神機アルデバラムよりは幾分か細身で、見る者に華奢な印象を与える。色もアルデバラムのように派手ではなく、落ち着いた夜の色でまとめられている獣機。その背部の乗降ハッチが開き、小さな女の子――ミリネールが姿を見せる。

「あの娘、マリアの知り合いなのかい?」

三号室の窓から身を乗り出した貴也が、すぐ隣で同じように上半身を乗り出しているマリアに訊ねる。

「ううん、違うわ……、あの娘はアタシたちとは違うわ……」

「アンタがマリア……? あの第二天使?」

「誰よ、あなたは?」

ハッチから出ると、器用に獣機の肩に登り、そこにちょこんと腰掛けた。微風にアクマ帽子を揺られながら、月をバックに背負っている。その姿がひどく絵になっている。

「くす……訊くまでもないと思うけど、ね。アタシは、九十八番目のベスティアリーダー、ミリネール・ユラナス・サブロマリン。アンタを、アンタたちを消しに来たのよ」

「…………どうして……」

リアは絶句した。

『ベスティアリーダー』――そう呼ばれる堕天使たちは、全部で九十九人存在する。天使たちとは対をなす者たちであり、最後の審判においてはその能力により人類の本性を曝け出す者たちである。そして最後まで人類の側に立ち天使と戦う者たちでもある。その能力は順番に比例している。ラストナンバーである九十九番目は堕天使の統率者、『リーダー・オブ・リーダーズ』を名乗り最強の能力を有するが、統率者として君臨する者なので、九十八番目を名乗る彼女が、最も強力な堕天使だとも言える。

「それこそ訊くまでも無いじゃない。さあ、もう一人も、ベスティアを審理する、あの第一天使もそこにいるんでしょう!」

ここまで、本気で熟睡していたベルも、自分の名前が出ればようやく起きだしてきた。

「こんな夜更けにどうしたの〜?」

室内にいるベルの位置からでは、空を見上げる貴也とマリアの後ろ姿しか見えない。

「『素因』と二人して〜、『星狩り』でもしているの〜」

まだ半分寝ているらしい。含み笑いのまま二人の隣から外を見上げる。

「げ、獣機!? ベスティアリーダーが……? ベスティアリーダーがどうしてここに!?

誰もベルの問いには答えないけれど、からかい口調も眠気も、獣機を見て完全に吹き飛んでいた。

そして――リアのために為すべきこと、それを決心もしていた。

「まだ、ダメよ……早すぎるもの……」

しかし、リアは蒼ざめている。

「まだ、起きちゃダメよ、姉さん……!!

 

 

天界。

まるで棺のようなフォルシーニアの睡眠学習カプセル。

数十億年を越える永きに渡り、天使の体を保存し続け、外へ出ることを頑なに拒否し続けたその蓋がついに開く。

これはクレアリデルでさえも予想しえなかった事態。施された封印により最後の審判が行われるその日までフォルシーニアが目覚めることは無かったはずなのだが、地球にベスティアリーダーが降り立ってしまえば、『お役目』を果たす為に彼女は目覚めてしまう。もはや、こうなれば止めることはできないのだ。

開かれた棺の中は羊水で満たされ、均整の取れた豊かなプロポーションもあの時から全く変わらぬ、『眠り姫』がたゆたっている。羊水が緊急排水され覚醒プログラムが彼女を揺り起こす。

その美しい肢体が棺から上半身を起こし、藍色の長い髪が羊水に濡れ光る一糸もまとわぬその身を覆い隠す。

「ベスティアリーダーが、ハルマゲドンへ降り立ってしまった……。ついに始まってしまうのですね……」

瞳を閉ざしたまま、震える声で自分自身へ語りかけるように言葉を紡ぐ。

第三天使(わたしたち)の『お役目』、果たせる?」

その口調が、感情をこめない、機械のようなものへと変わった。

かすかに、否定というにはあまりに弱々しく首を振る。

「でも……果たさなくては」

開かれた瞳は真紅。その表情も、その口調も迷いを断ち切った決意したものだった。

 

 

「どうしよう……ベル」

リアのそれはベスティアリーダーがここにいるということともう一つ、その為にあの方が目醒めてしまうと二重の意味で言ったのだが、ベルはそれを前者でだけ取っていた。

「大丈夫。あたしに、お・ま・か・せ」

困惑しきったリアとは対照的に、ベルには余裕さえ感じられる。

すっ、と、目を閉じ、胸の前で手を組むお祈りポーズでレオニスを呼ぶ。

「我ら御使いが、主より賜りし鳳駕、我を守護する獅子座の神機」

かっ、と目を開き、その瞬間、パジャマも第一天使の正装に変わる。

「出でよ! レオニス!」

ベルの呼びかけに応え、地球静止軌道、英荘の直上に固定した、遮蔽シールドで姿を隠したステーションで待機していたレオニスが、レヴィテイション――いわゆる瞬間移動だ――して来る。窓から飛び出すとレオニスに取りつき、背中のハッチを開いて急いで乗り……こもうとしたが……、

「う、ハッチが狭くなってる〜」

正しくは時を刻み始めたが為にベルが年相応に成長したのだが、年頃の女の子にそれは言ってはならない。善意に言えば、女性らしいプロポーションに成長したという。

「もうそんなこと、気にしなくてもいいようにしてあげるわよ」

ミリネールも獣機に乗り込む。こちらはハッチで引っ掛かったりしない。

「起きてよ、エルメスフェネック」

獣機を再起動する。エルメスフェネックが見ているレオニスの姿が正面のモニターに映される。大きさ的にはアルデバラムとさして変わらないが、全身を包む重装甲がさらに巨大に見せていた。比較がエルメスフェネックでは二回り以上違う。赤と黒に彩られた何か禍々しさを全身から醸し出す、その外見から読めるだけのデータが表示される。が、不明な部分が多い。

「第一天使。アンタの一〇八つの鐘、アタシ一人で鳴らせてみせる!」

一〇八つの鐘。それこそが第一天使がベスティアを審理するという『お役目』に必要なものである。が、逆に言えば、その全てを使い切れば第一天使は『お役目』を果たすことができない。

それこそが人類を救う道だと、彼女は信じて疑わない。

堕天使もまた、天使と同じように『お役目』を授かっている。それは、最後の審判が行われた後、その結果によらず、一人でもいいから人類を生き延びさせること。人類を決して滅ぼさせはしないという。これこそが、堕天使に与えられた唯一の『お役目』にして、存在理由なのだ。

レオニスのコクピットでも、同じようにエルメスフェネックのデータをモニターに表示している。しかし、ベルはそれを見ずに、サブモニターに呼び出したリアを見つめている。

「リア、あたしたちのリア……あなたはあたしたちが必ず守って見せるわ」

いとおしげに見つめ、そっとモニターのリアを撫ですさる。

 

「どうして来たのよ……ここに来るのはまだ先のはずじゃない」

「あれがマリアたちの敵なのかい?」

いくら『素因』だと言われても、一般人でしかない貴也はマリアに訊ねた。

「ううん、そうじゃないの、でも……あの娘はアタシたちを敵だと思っているわ」

「なんとか、戦いを止めさせられないのかな?」

二人とも、レオニスとエルメスフェネックから目をそらさない。

「アタシ、できない……それにあの娘は戦うために来たみたいだもの……」

あらためて、何もできない事を貴也は思い知らされた。

しかし、それでも、

「マリアは、オレが守る」

「ありがとう、頼りにしてる」

貴也が『素因』だということが、あらためて認識できたことがマリアは、場違いにも嬉しかった。

 

「せっかく、『素因』を見つけたんだもの、リアが『素因』と出逢えたんだもの。あたし、遠慮はしないわ!」

九十八番目のベスティアリーダーを名乗る最高クラスの堕天使とその獣機。少女の姿をしていても、その秘めたる力は生半可な物ではない。もとより手加減などできる相手ではないことがベルには分かっていた。だから、リアとやっと見つけた『素因』を守る為にも、取り決めに背くことを覚悟の上で鐘も制限なしに鳴らすつもりでいた。

「ひとぉーつ!」

その巨体からは想像もできない俊敏さで、レオニスから仕かけた。

両肩のジョイントが外れ、重力バリアが砲を形成する。弾は亜光速弾ではなく重力共鳴砲にセットする。最終的に擬似ブラックホールを形成しその運動エネルギーと超重力を破壊力とする亜光速弾では、直撃させても周囲への被害が大きすぎる。狙いをつけ発射タイミングを微妙にずらし、近距離拡散モードで原子分解光波を撃つ!

が、そのレオニスを凌駕する反応でもって、エルメスフェネックはレオニスの背後にレヴィテイションで回り込み、高周波振動ブレードで切りつけた。重装甲が裂け、中枢部が傷つく。すでに放たれた真っ黒なビームがその射撃範囲にある全てを原始へと還元しながら、虚空へと空しく消える。

「キャアァッ」

地面へと投げ出されるレオニス。

自己修復機能が損傷部を一時的に隔離、予備回路へと繋ぎ、隔離した破損部分を原子分解し再構築を開始するが、今の一撃は修復が完了するまでに一時的に繋いだ予備回路では補えないほどのダメージをレオニスに与えていた。若干の機能障害が引き起こり、回避する為の動きがベルの反応に比べて遅い。トドメを刺すべく迫るエルメスフェネックの攻撃範囲から逃れられない。

「だったら!」

エルメスフェネックが近付く瞬間を狙い、こちらへのダメージ覚悟の相討ちを狙うが、しかし、その両者の間にレヴィ・アウトして立ち塞がる者がある。その姿にエルメスフェネックが思わず動きを止めた。

「え、ネガレイファントル……? メル姉ちゃん?」

ミリネールの姉、九十九番目のベスティアリーダーにして、堕天使たちの統率者、リーダー・オブ・リーダーズである、メルキュール・ティラス・サブロマリンが駆る最高位の獣機、ネガレイファントル。

「待ちなさい! ミリ!」

「どいてよ! どいてったら! 今、その第一天使にトドメを刺すところなんだから!」

ネガレイファントルを押し退けて行こうとするエルメスフェネックを、新たに降臨した神機が背後から殴り倒す。

「『待ちなさい』って言ってるでしょ!」

ミリネールの可愛い悲鳴と共に、もんどりうって倒れるエルメスフェネック。

「アンタ! いきなりなにするのよ!」

抗議する。もっとも、相手は聞いてはいないが。

「グラフィアス! クレア姉さん!」

マリアが、信じられないと言う風に声をあげる。

「知ってるの?」

「うん……アタシたちの一番上の姉さんなの」

そのグラフィアスは、倒れているエルメスフェネックを無視してレオニスを抱き起こす。

「ベル、大丈夫かい、ベル?」

「ん……うん、大丈夫よ……。

ん、もう、クレア姉さん! どうして邪魔をするのよ! クレア姉さんが邪魔をしなければ、あの獣機に重力崩壊基を撃ち込んでやったのに」

重力崩壊基とはベルの持つ重力兵器の一種であり、物質の持つ重力波に干渉して、その物体を破壊する兵器のことである。理論上、質量のある物体なら大きさや組成などに関わらず破壊することができる。また、この応用として、物質を繋ぎとめる分子間引力を消し去り、対象物を液状に還元することもできるのだ。

ベルはこの重力崩壊を、(フィールド)という形で自在に引き起こすことができるのだ。

「アナタがそうする前に止められて本当によかったわ」

ほっ、と安堵のため息をもらす。

「そうでなければ……」

暗い海底に潜むように、後に続く言葉は発せられなかった。

クレアリデルはメルキュールを見やる。あの想いを、あの悲しみを、あの痛みを繰り返すわけにはいかないのだ。

「ん、もう、メル姉ちゃん! どうしてアタシの邪魔をするのよ!」

一方、こちらでは、ミリネールが姉に文句を並べていた。

「どうして()()の、あたしの断りも無く勝手なことをするの!」

メルキュールは本気でミリネールを叱責していた。だが、彼女の言葉には焦燥、不安、苛立ち。様々な感情が入り混じり混沌としていた。一つは妹の死をこんなにも早く見なければならなかったかもしれないということ。もう一つ。ベスティアリーダーが地上へ降りれば何が起こるのか、彼女は知っているのだ。結果、あるいは取り返しのつかない事態に陥るかもしれないことまで。

「こんなことをして……」

彼女としてはこうなれば、最悪の事態だけは避けたかった。

しかし、メルキュールの危惧は現実となり降臨する。

最初に気付いたのはベルだった。

天空で瞬く星の煌きとは違う、明らかに被造物と見て取れる発光体が、英荘を目指して降りてくる。

第三天使、フォルシーニア・サダルスード・ルクヴァが片割れ、美しい乙女のような姿をした水瓶座の神機、アクエリュース。

「第三天使……来ちゃったのね、フォルシーニア」

翳りを帯びた絶望感を、もはや隠そうともしないメルキュール。

「ちょうどいいじゃない、天使がみんな揃ったんだから、まとめて始末しちゃえば」

そんな姉の不自然さに気付かず、一四歳の女の子に不似合いな言葉を返す。

「もう……あんたは何も分かっていないんだから、まだ、ダメなの!」

ついに声を荒げてしまう。いっそ、全てを話してしまおうかとも思ってしまう、そうすれば、いつか必ずミリにも分かってくれると。

だが、それはできないのだ。それで、板挟みの葛藤に苛まれてしまう。

第三天使降臨。

静かに地上へと降り立ち、英荘の庭を見渡す。姉と妹たち、堕天使とその族長、神機たちと獣機、そして『素因』。獣機の反応がずいぶんと少ないが、みんな揃っている。

――あとは、わたしたちの『お役目』を果たすだけ。

「うわぁ、やっぱり、何度見てもステキだなぁ、フォル姉様のアクエリュース」

夜の暗さに沈むこと無く、自らが光を放つように、スノーホワイトとスカイブルーに彩られた神機アクエリュース。さっきまでの緊張も戦闘も立場も忘れて、場違いにもつい見惚れてしまう。それほどまでに、

――美しい。

「アナタは何をノンキに見惚れているのよ! アナタが『鐘』を鳴らしたせいでフォルが目覚めちゃったんじゃない」

「クレアリデル、いけないのはエインデベルではなく、地上に降りてしまったミリネールの方よ」

「んぅ、確かにそれはそうだけど……、『鐘』を鳴らしたエインデベルも悪い!」

どんな事情であれ、『鐘』を鳴らした以上、叱責は免れないのだ。同様に、堕天使でありながら、最後の審判を待たずして地上へと降りたミリネールにも非はある。

「だって、それは、あのベスティアリーダーが……」

「『鐘』は一つで終わりですか、エインデベル?」

言い訳しようとしたベルを遮って、フォルシーニアが『お役目』を訊ねてくる。

行き掛かり上『鐘』を鳴らしてしまったけれど、本当にそれをすべき時まで、まだ訪れていない。どう答えるべきか返答に困ってしまう。

「では、人類はベスティアではないのですね?」

ベルの返答が無いのを、フォルシーニアは『お役目』として受け取ってしまっている。ずっと眠り続けて時を知る術を持たず、『お役目』を果たしに来た彼女には、今がまだベルが定めた『最後の審判の日』でないことも分からないのだ。

「フォル姉さんっ」

リアがパジャマのままで、アクエリュースの足元へ駆けて行く。それをモニターで捉えたフォルシーニアは、乗降ハッチを使わず、直接マリアの元へレヴィテイションする。

「マリアローダ?」

「えっ? なに? 今、第三天使はどこから現れたの?」

ミリネールにとってそれは信じられない光景だった。つい、さっきまで戦っていた立場も忘れ、近くにいたベルに訊いてしまう。

「フォル姉様はね、神機の中からでもレヴィテイションできるのよ」

ベルが誇らしく自慢げに、ミリネールに解説している。

通常、神機や獣機は、他からの干渉を防ぐために常にシールドされている。たとえそれは自分の神機や獣機であっても例外ではなく、レヴィテイションなどで越えることはできない。ましてや他人の機体など、より高位の能力を以ってしても易々と突破できるものではない、それほど堅固な物なのだ。

「フォル姉様のPsi能力って、凄いんだから!」

そうやってベルがミリを相手に見得を切っている向こうでは、リアがフォルに今の状況を説明していた。いつのまにか、パジャマも第二天使の正装に変わっていた。

「フォル姉さん、あの、あのね……アタシまだ『マリア』じゃないの」

少し離れた所で、見守っている貴也に視線を返しながら、

「ここにいる貴也には、そう呼んでもらっているけど」

「『マリア』ではない?」

困惑と落胆と安堵が混じりあった、複雑なフォルシーニアの声。

「そうよ」

それとは対照的にリアの肯定は力強い。

「なぜ?」と問うフォルシーニアの声には先の感情に加え、疑念まで入り混じっている。それでは何故、ベスティアリーダーが地上へ降りたのか? 何故、ベルの『鐘』が鳴ったのか? 何故……目覚めてしまったのか……?

「だって、まだ『素因』を見つけたばかりなんだもの……それに、ね、フォル姉さん……」

フォルの内心の葛藤をよそにリアは続ける。

「まだその時じゃないの。まだ、アタシたちが『お役目』を果たす時じゃないの。だから、アタシ……まだ『リア』よ」

「まだ『お役目』を果たす時ではないのですね?」

今度は明らかに安堵のための確認。

「そうよ、フォル姉さん」

その言葉で、このフォルシーニアは納得した。「よかった」と安堵のため息をもらした時には、紅い瞳もすみれ色に戻り、口調も表情も普段の柔らかいものへと戻っていた。

「……リア?」

このフォルシーニアが名を呼ぶ。

「久しぶりですね」

あらためて、彼女は英荘の庭を見渡す。クレアリデルと双子たち、ベスティアリーダーとリーダー・オブ・リーダーズ、神機たちと獣機たち、見知らぬ人間がひどく気になるけれど……。

「それに、みんなも、元気そうで何よりだわ。本当に……」

ふっ、と、緊張の糸が切れたかのように倒れこむ。

「フォル!」

慌ててクレアが駆けつけ、天使の正装が汚れるのもかまわず地面に膝をつき、抱き起こし膝枕する。ベルとマリア、メルキュールとミリネールも集まってくる。もちろん、貴也も。

「彼女、いったい、どうしたんだ!?

「大丈夫、目が覚めたばかりだから、きっと疲れたのよ」

膝枕をしているクレアが、優しくフォルを撫でている。

ベルとリアは当然としても、そこに堕天使の族長であるはずの、メルキュールまでが心配そうに覗き込んでいる。

本当はそうではない。メルキュールに視線を走らせれば彼女は目を伏せてしまった。クレアリデルの言い様は嘘ではないけれど、正確という訳ではなかったことを彼女だけは見抜いていた。本来ならフォルシーニアはベルが定める約束の日まで眠り続けて目覚めないはずなのだ。――より、正確に言えば、本来のフォルシーニアは目覚めることさえないのだ。ここへと来たのはサダルスードではない者の意志によって。それを、何故そうなのかを知られない為に巧みに思考をシールドしてはいてもメルキュールには分かってしまう。彼女もまた、フォルシーニアの秘密を知っているのだから。

そう、メルキュールの心配は、ベルやリアのようにフォルシーニアに向けられているものではなく、フォルシーニアの身を案じるクレアリデルに向けられているものなのだ。

「ありがとう、心配してくれて」

だから、この言葉は『素因』英貴也と、心優しきメルキュールへの言葉なのだ。

「それで、これからどうしようか? クレアさん。これであたしたちはもう、みんな天界へは帰れなくなったわけだし」

あまり困っていると言う口ぶりではない。後の判断をクレアに任せた、そういった宣言だった。

「メル姉ちゃん! メル姉ちゃんはアタシたちベスティアリーダーの族長のくせに、どうしてこんな天使なんかと馴れ合うのよ!」

「ミリ……あたしたちと天使たちはね……、別にお互い恨み合っているわけじゃないのよ。ただ、お互いの『お役目』が異なるだけ――それだけなのよ」

憂いを帯びたその表情、いつか、この娘にも分かる時が来る。

知らねばならない日が来る。

しかし、その日までこのことを悟られないようにしなければならない。

「それにね、あたしとクレアさんは昔からの幼なじみだもの」

全てを隠し、おどけて言う。

彼女の表情はくるくるとよく変わる。

「何言ってるのよ、ワタシたち二人だけが、昔のことを憶えているだけでしょう?」

「ひっど〜い、あたしは、クレアさんの為だけに尽くしているじゃな〜い」

心外だ、と言わんばかりに、メルがクレアに反論する。

「下心があるからじゃない」

「あの、断言されると、ちょっと……」

「ないの?」

「あります」

軽く睨みつけるクレアの言葉に、あっさりと頷く。

何の話だか、と、貴也は思ったがプライベートな内容らしかったので、口出ししたりはしない。

今はそれより――

「それより、こんな所で寝かせとくわけにもいかないから、この娘、家の中へ運ぶよ」

「ん、そうね、お願いするわ」

 

「この娘って、すっごく、重かったんだけど……」

いくら正装をしているからといっても、貴也が部屋まで運んだフォルシーニアは二人分くらいの重量があった。

「ま、女性に向かって失礼ね」

「貴也さん、フォル姉様は重くないですよ」

聞き逃さなかったメルキュールとエインデベルが、すかさず共同で抗議してくる。特にエインデベルは顔は笑っていても、なんとなくプレッシャーを発している。

「貴也、あ、あの……フォル姉さんの衣裳にはアーマーが付いてるし、だから……」

矢面に立たされた貴也の為に、マリアがフォローする。

「そんな重い物をこの娘が着ているの?」

双子たちが、やや躊躇いながらも肯定する。

確かに、彼女の衣装には赤・青・緑と三色の大きな宝玉が埋め込まれた、アーマーらしき物が幾つも取り付けられてある。それらを全部合わせれば結構な重量になりそうだ。

――この娘って、凄い力持ちなんじゃあ……?

「天使には重く感じないのよ」

「あ、そうなのか」

クレアリデルの言葉に、貴也はあっさり納得した。

「……単純ねえ……」

ミリネールがこっそり呟いていたが。

「ところで今、頭の中にツッコミませんでした?」

「そう?」

英荘三号室。

着替えさせるから、と言われ追い出されていた自分の部屋に戻ってきた時には、すでに敷かれている三組の布団の一つに、いったいどこから用意するのか、双子たちと揃いの淡い空色のパジャマに着替えてフォルは寝かされていた。

結局、天使も堕天使も、みんな、この部屋に集まってフォルの看病をしている。さすがにミリネールは、少し離れた所からフォルの様子を窺っているだけだが。ただ、その表情は、彼女を心配してここにいる、と言うものではなく、決意や使命感でここにいるのだと全身で主張している。

「どうですか? 彼女の様子は」

「大丈夫、今はもう落ち着いて普通に眠っているわ」

この部屋に運び込んだ時には、夢すらも見ていないような、生きているのかどうかさえも疑わせる、そんな昏倒した状態だったのだけれど、今は安らかな寝息を立てて眠っている。

「よかった」

そう安心したように言って、フォルの顔を覗きこんでから、クレアリデルに向き直り、思い出したように貴也は言った。

「――ところで、えっと……名前をまだ伺ってないんですけど」

クレア、フォル、メルと順々に視線を移し、最後にミリに視線を移す。

「な、なによ。アタシは名乗ったじゃない!」

「ごめん……いきなりだったからよく覚えて無くて……」

「……アタシは、九十八番目のベスティアリーダー。ミリネール・ユラナス・サブロマリンよ。今度忘れたら承知しないんだから!」

「う、うん」

「まったく、人って面倒ね……」

そんな二人のやり取りをため息まじりに見やりながら、クレアリデルは切れ長の目で貴也を見つめ返す。

「ま、いいわ。ワタシは、クレアリデル・ヴァナント・シャウラ。クレアでいいわよ。

この娘は、フォルシーニア・サダルスード・ルクヴァ。ワタシの妹でそこの双子たちの姉よ」

「フォル姉様のお名前は、『幸運の中の最も幸運なもの』と言う意味なんですよ」

ベルがすかさず解説する。こうして嬉しそうににこにこしている顔を見ると、フォルシーニアを尊敬し好きなのだということがよく分かる。

「あたしは、メルキュール・ティラス・サブロマリン。ミリの姉よ。

――メルって呼んでね」

「オレは……」

言いかけた貴也を遮って、

「アナタが、英貴也って言うんでしょ。もう知ってるわよ」

「どうして」と訊いても、謎めいた微笑みを浮かべるだけで、クレアは答えない。貴也の戸惑う反応を存分に楽しもうとしているのだ。

しかし、その目論みはあっさり打ち破られる。

「アタシたち、人の考えていることがわかるの」

「正確には、意識・前意識の領域にあるもの、よ。

――だから意識してくれないと、いくらあたしたちでも分からないんですよ」

ベルとマリアが説明してくれる。

なるほどと、試しに何か考えてみようかと思ったけれど、下手な事を考えれば、双子たち、だけではなく、ここにいるみんなに伝わってしまう。それは遠慮したかったので何も考えないでおくことにした。もちろん、そう考えていることも伝わっているのだ。

そんな内心を感じとって、メルがくすりと笑う。

「つまり、ワタシたちが天使姉妹で、あっちが堕天使姉妹と言うワケ」

気を取りなおしたクレアが、言いつつ順番に指差していく。

「堕天使って……?」

「あたしたち、ベスティアリーダーのこと、あたしたちは、『人』に最も近い天使なのよ」

喉の奥で笑いながら、メルが誇らしげに答える。

()()使()たちは気まぐれの『お役目』を言いつかっているだけじゃない」

クレアの口調には、どこか咎めるような響きがある。

「それでも、堕天使たちの大切な『お役目』だもの」

あまり、大袈裟にならないため息とジト目でもって、クレアは答えた。

「アナタは……好き勝手にやっているだけでしょう?」

ベルがどこからともなく用意したパジャマはクレアにもぴったりだった。淡い朱色のそれはゆったりとしたデザインであり、身体の線をある程度隠してくれる。その襟元をなんとなく直す。

「そうよ、だって、好きなものは好きだし、イヤなものはイヤだもの」

「まったく、単純ね……。――ま、それも少し羨ましいけど」

「んふふ、ありがと、クレアさん。――ところで……」

ベルの方をちらりと見やり、

「ベルちゃんにも、その傾向はあるみたいだけど?」

指摘されるとベルは、可愛い仕草で首をちょこんとかしげ、考え込む。

――なんとなく、思い当たる点がないでもない。

「あたしたちが、『近い』存在だという証よね?」

ベルの反応に気を良くして、満足げにクレアに同意を求める。

「さぁ、どうだか――」

あっさりはぐらかすクレアに、メルは困ったように、しかし、どこか真剣さをたたえた面持ちで、

「クレアリデル……。

――天使たちは、ただ、そう言えないだけでしょう?」

だから、とは続けられなかった。クレアが、まだ彼女のことを気にしていることが分かりすぎるほどに分かっていたから。

「ワタシたちはね、メルキュール――そんなことは、言いたくもないの」

きっぱり言ってのけるその姿は、どこか、認めたくが無いために、あえて言ったようでさえあった。

「言えないから、フォルだって……」

閉ざした扉が少しだけ開いた。

恐怖の記憶が少しだけ甦った。

かつての光景が脳裏をよぎる――

あの時の悲しみ、あれほど、深く絶望的な悲しみ、あれ以来、時間さえも形骸と化すような果てしない時の中で、メルはクレアを慰めるためにずっと側に居続けた。

にもかかわらず、いまだに、あの時の悲しみに捕われている。

「クレア姉さん、フォル姉様がどうかしたの?」

フォルの名前に反応して、ベルが視線を投げかけてくる。

あのことを悟られないように、なるべく不自然にならないように、やんわりと受け流す。

「『こんなこと』に、なっちゃったって言いたかったのよ」

そっと、フォルの髪をかきわけ撫でる。

「『そう』よ、ね……」

メルは、重くため息をついた。

彼女も知っているのだ。いや、彼女とクレアリデル、それにフォルシーニアを統括するサダクビアしか知らないのだ。フォルシーニアがどうなってしまったかを知るのは。

だから、誰にも、クレアにも聞こえないようにこっそり呟いた。

――可哀想に――、と。

 

貴也には、いったい何の話かさっぱり分からず、すっかり会話に置いていかれていた。だが、クレアもメルも、自分の妹たちに対して、隠し事があるのだということだけは何となく感じ取れた。

また、それとは別に貴也には疑問に思うことがある。

「ベル、ベルはクレアさんのことを『姉さん』て呼ぶのかい?」

ベルは長女のクレアを『姉さん』と呼び、次女のフォルを『姉様』と呼んでいる。マリアはどちらも『姉さん』と呼んでいたのだ。礼儀正しそうなベルが何か意図が無ければ、そう呼ばないのではないかと貴也には思えた。

あっ、と口に手を当てて、初めてそう指摘されたように考え込む。

「んぅ――だって、フォル姉様って、綺麗だし、スタイルいいし、いい薫りがするし、優しいし、繊細だし、思いやりがあるし、誠意があって、誠実だし……」

両手を胸の前で組み合わせ、フォルシーニアの美点を並べ立てる。クレアが苦笑まじりに口を挟まなければ、ボキャブラリーが尽きるまで続くかと思われた。

「はいはい……ワタシとは全然違うわね」

「……あたしの『お役目』だってかなりツライけれど……、

フォル姉様は――もっともっと、ツライ『お役目』を仰せつかっているんだもの。

……だから……」

それ以上、何も続けられなくて目を伏せてしまう。が、組み合わされたままの両手がかすかに震えていた。

長女であるクレアリデルよりも、次女であるフォルシーニアをより尊敬している。ベルは、自分がひどく間違った考えに捕われているのではないかと思えて不安になった。

――それでも、自分の心は偽れなかった。

「いいのよ……本当にその通りなんだから」

クレアはベルの思いに気付いている。だから、微笑み肯定した。

「さて! それじゃあ、そろそろ休みましょうか」

両手をぱん! と打ち鳴らすと、うって変わって明るい声で提案する。

「そうしましょう! あたし、もう疲れちゃったわ」

すかさず、メルが乗ってくる。

「アナタは何にもしてないじゃない」

「でも……お布団は三組しかないの?」

聞いてない。

「……ないです」

「ふぅ〜ん」

バストを強調するようにネタとして腕を組みつつ、申し訳なさそうに答える貴也に、意味ありげな視線を走らせる。

「あたしは、別にいいけれど」

『絶対ダメ!』

すかさずベルとマリアが声をそろえて、力いっぱい否定する。

「あ、あのさ、布団に寝なくても寒くないし、オレはいいから」

眠っているフォルもいることだし、と貴也が遠慮する。

「いい子ね、貴也は……。

――本当に『素因』なのね」

さすがに見逃したりしない。

「ごめんね、貴也、おやすみなさい」

三度目の『おやすみなさい』

「おやすみ」

そう、マリアに返して、貴也は毛布を抱えて廊下へ出ていった。

 

で、結局、眠ったままのフォルを挟んで布団を川の字に並べて、ベルとリア、クレアとメルがそれぞれ一緒の布団に眠っている。あとの二人、女性を追い出す訳にはいかないと言った貴也は、毛布を持って部屋の外へ行った。ミリは天使なんかとは一緒にいられないと言って、さっさとエルメスフェネックに引き上げていった。

「ベル、リア……まだ、起きてる?」

「どうしたの? クレア姉さん……」

「なあに……」

「ひさしぶりね……」

彼女たちにとっては、三年ぶりの再会となる。

三年前――

『みんなが幸せになれるためのたった一つのよい方法』のために、クレアリデルは双子たちを目覚めさせ『素因』を探す為に、地球へと降ろしたのだ。

リアが『素因』と出逢い、マリアとしての『お役目』を果たせるように願って。

その目論みは成功しつつある。リアは『素因』英貴也と出逢い、今ここにいる。問題なのは貴也の『心』次第、これだけは誰にもどうすることはできない。たとえ、リアがどれだけ貴也のことを想っていても恋は一人では叶えることはできない。なにより、マリアと『素因』が愛し愛されなければ、彼女の『お役目』は果たせないのだ。

機会を作ったあとは何もできることは無い。それがクレアリデルには、はがゆくもありもどかしかったが、今なら、少なくとも側で見守ることができる。

「二人とも元気そうでよかったわ」

「クレア姉さんも……」

「あいかわらず、メルと一緒なのね」

双子たちの記憶にあるクレアの側には、何をするにもいつもメルがべったりくっついていた。

「ワタシは、ね――

――『お役目』があるからしょうがないし、でも、嫌いじゃないけど、ね」

「あたしも、お菓子の趣味なら合うけど……」

消極的なベルの同意。

「アタシ、メル以外のベスティアリーダーって、初めて見たわ」

「二年前だもの。ベスティアリーダー(あのこ)たちが目覚めはじめたのは」

双子たちが地上へと降りた後、一人、また一人と堕天使が目覚めている。

「今、天界はすごいわよ、ベスティアリーダーたちがわらわらといて」

クレアの口調には、どこか楽しむような響きがある。

「アタシたちとは違って、全員で九十九人もいるんでしょう?」

「そうよ――まだ全員が目覚めたわけじゃないけど……」

なにか、この話題に不穏当なものを感じた。

「とにかく、また、アナタたちに会えてよかったわ」

「フォル姉様ににも会えたし」

含み笑いしているベルは、どこまでもフォルを慕っている。

「そうね、また、姉妹で仲良くやっていきましょう」

「『仲良く』?」

「『仲良く』、ねえ――?」

「――アナタたち、()()に放り出すわよ」

微妙なニュアンスとささやかな軽口。

「『仲良く』――ねっ」

「『仲良く』でしょう?」

そんな些細なやり取りがたまらなく懐かしく、うれしい。

「おやすみ、双子たち」

 

その頃――

ミリは一人獣機の中で拗ねていた。

人間はともかく、天使と同じ部屋で眠れるはずも無く、かといって行くあての無い以上英荘にとどまったのだが、姉メルキュールはさっさと天使と打ち解けて、しかもクレアリデルと同じ布団で眠っている。

釈然としないまま、ここにこもって姉のことを思い出していると、ふと、ある疑問が脳裏をかすめる。

――それに、あたしとクレアさんは昔からの幼なじみだもの――

メルキュールは確かにそう言った。しかし、二年前に出会うまで、ミリはクレアの存在さえ知らなかった。

――ワタシたち二人だけが、昔のことを憶えているだけでしょう――

言いかえれば、天使も堕天使もあの二人以外は、誰も過去の記憶を持っていないことになる。

「どうして? どうして、メル姉ちゃんとクレアには『昔』があるの!?

ミリに昔の記憶は無い。

今、一四歳なのに、彼女の記憶は二年前から始まり、それ以前は何も存在しない。

――どうして?

自分の心に問いかけても何も返ってはこない。

あるのはこの二年間、メルキュールとクレアリデルとの記憶だけ。

――どうして?

繰り返し問いかけても、答えはどこにも無かった。

――どうして?

 

目を覚ましたフォルシーニアが部屋を後にする。そのまま玄関へと向かいかけた足を止め、ふと、共同リビングへと視線を巡らす。リビングを覗き込めば、そのソファで貴也が不自然な格好で横になっている。

フォルシーニアは、その若草色の瞳で貴也を覗き込むと、かすかに頬を赤らめ優しく頬を撫でると毛布を掛け直した。

「やさしそうな方……。

――『素因』?」

ついつい、時を忘れて見惚れてしまう。

「戻りましたら、なにか美味しいものを作ります。

今は――おやすみなさい」

 

「夜明けね――

なんて、美しいのかしら?」

夜は徐々に後退し、東の彼方から太陽がその姿を現しつつある。

全てを照らす輝く光。フォルシーニアの髪よりも、なお濃い藍色の夜がその輝きを一層際立たせていた。

――美しい――

ただ、純粋にそう感じられる太陽の光を、フォルシーニアは一身に浴びていた。

「ステキなところね、――この地上は」

呟くその姿は既製品のパジャマにサンダル。そんな出で立ちにもかかわらず、結局眠れずにいたミリネールが見ても美しく神々しささえ感じられた。

「フォルシーニア・サダクビア・ルクヴァが命ずる。

――おいで、アクエリュース」

その呼び声に反応し、すぐ横に出現するアクエリュース。

胸の前でそっと、手を組み合わせるフォルシーニア。

「我ら御使いが、主より賜りし鳳駕、我を守護する水瓶座の神機――アクエリュース。

我が心と融合せよ、我が心と一つとなりて、汝のワザを我の命ずるままに行使せよ」

「何をするつもりよ! 第三天使!」

ミリはとっさにエルメスフェネックを再起動させた。

第三天使がそのワザを使えば、人類は滅んでしまう。それだけはなんとしても阻止しなければならない。

その為に彼女は、決まりを破ってまで地上へと降りたのだ。

「エルメスフェネック! 第三天使を!」

しかし、遅い。

「ダメッ! 間に合わない!」

瞬間!

アクエリュースから凄まじい光が奔流となって広がっていった。

ミリは両目を硬く閉じ、両手を目の前で交差させて硬直した。

死を覚悟した。しかし、どれだけ待っても、

――何も起きない?

おそるおそる目を開けて辺りを見渡せば、

――何も変わってはいない?

「何が起こったの……いったい……?」

山の上にある古ぼけた英荘、周囲の景色、昇りつつある太陽、後退する夜。

そして――フォルシーニアとアクエリュース。

「いい娘ね、アクエリュース。『わたし』の言うことをきいてくれて」

いとおしげに頬を寄せる。

――『わたし』はあの娘ではないのにね。

アクエリュースは何も答えない。心へと話し掛けてくることもしない。

それでも、彼女はアクエリュースに頬を寄せることを止めはしなかった。

ミリは獣機から飛び降りると、アクエリュースを見上げるフォルシーニアの元へと駆けより、

「どうゆうつもりよ! 第三天使の神機のワザを今使うなんて!

――でも……いったい何をしたの?」

もし、使ったのなら、地球は完全に消滅しているはずだ。それなのに何も変わってはいない。

優しくミリに微笑みを返し、

「ここから半径二〇キロメートルの地域内を操作したのですよ、可愛いミリネール。

――『わたしたち』がこれからここで暮らしていけるように」

つまり、この範囲内において、彼女たちが普通に暮らせるように全ての情報を、彼女たちにとって都合の良いように書き換えたのだ。とはいえ、この能力も万能という訳ではなく、『そう』しておける範囲は能力の限界により決まっており、フォルシーニアが操作できたのは英荘を中心に半径二〇キロメートル以内であり、それを越えればなにかしらの不都合が生じてしまうのだ。

「……第三天使がそんなことのために神機を……?」

信じられなかった。

人を滅ぼす第三天使が、ここで、人に混じって暮らす、ただそれだけのために神機のワザを使う。

目の前で微笑んでいるフォルシーニアは、晴れ晴れとして、うきうきと楽しそうでさえある。

いったい、どれが本当の第三天使なのだろう、滅びをもたらすのか、それとも、微笑むこの姿こそがそうなのか、ミリには分からなくなり始めていた。

「『わたし』の名前は――」

フォルシーニアの方が背が高い。視線の高さを合わせて覗き込む。

「フォルシーニア・サダクビア・ルクヴァ、『秘められた場所の幸運の星』という意味」

一途で素直、意地っ張りで純粋で姉と人間想いの可愛い堕天使。ただの気まぐれかもしれないけれど、いつか消えてしまうのだとしても、この娘には自分の存在を覚えていて欲しかった。

ミリは戸惑いを隠せないでいた。貴也に紹介していた時とは、ミドルネームが違うような気がする。あの時ベルはその意味をなんと言っていたのだろう?

そんな戸惑いをよそに、

「『わたし』の名前を憶えていてくださるとうれしいわ」

「し、知らない!」

「いい娘ね、可愛いミリネール」

柔らかく、優しく微笑み、ミリの頭を撫でている。

ミリは赤らむ顔を見られないように、ぷん、とそっぽを向いた。

 

 


 

 

ラム『殺した。

殺して殺して殺して殺した。

人も、『Lalka』も、立ち塞がる全てを無へと還してきた。

躊躇も後悔も罪の意識も、今はもう無い。

帰る場所も無く、

待っている人もいない。

ただ、目的を果たそうとしている。

こんなボクはもう生きる価値も無いのかもしれない。

 

次回、螺旋の限り、『真昼に見る夢』ご期待下さい』

 

 


 

 

「第3話」へ進む    戻る