始まりの朝

 

 

いつも通りのいつもの時間。には少し早いけれど、英荘の住人は共同リビングに集まってくる。

今日は土曜日。

ベルとリアは学校が休み。ミリとフォルはまだ学校には通っておらず、貴也はアルバイトも講義も今日はどちらもない。クレアとメルがごろごろしていたりしてなかったりはいつものこと。で、今日は日がな一日ダラダラしている。

「ダラダラ、ですか?」

「のんべんだらり、とかも言うよ」

「はあ……」

そう言うわけで、めずらしく英荘の住人がみんなそろっていた。

――もちろん、ラムリュアも。

「アンタ! いったい、どうゆうつもりでアンタまでここにいるのよ!」

共同リビングにミリの声が響く。

『ボクは、『これからよろしく』って、言ったよ』

矛先を向けられているラムはといえば、それをあっさり受け流す。

「それは貴也に、でしょう?」

『『()()』は――貴也の物じゃないの?』

しゃあしゃあと言い返す。その通りなのだからミリには何も言い返せずに、沈黙してしまう。しばし睨み合うが、敵意を剥き出しにするミリとは対照的にラムはごく自然に視線を返す。

「あの……みんなで、お紅茶でもいただきましょうか?」

険悪な雰囲気を察したフォルが、この場を和ませようと提案してくる。

「それだったらフォル、あたしにおまかせ。紅茶を淹れるのは得意なのよ」

すかさずメルが乗ってくる。なんといっても彼女には、いつかの原始地球が誕生した頃にハーブティを淹れるのを失敗して以来、紅茶を美味しく淹れるために十億年にも渡る特訓をしたと言う実績がある。並の腕前ではないのだ。

「メル姉ちゃん!」

楽しそうに、『どのお茶をいれようか?』とか『お菓子は何にしようか?』と、話し合っている姿は、ミリにすれば自分の立場を完全に忘れているのではないかと苛立たせるに十分だった。

「なに? どうしたの、ミリ?」

「アタシたちが、ベスティアリーダーではない者たちと、しかも! よりによって天使なんかと馴れ合ってどうするのよ!」

彼女たちは『お役目』の公正な実行の為に、極力仲間たち以外――特に人との接触を禁じられている。触れ合えば触れ合うほどに感情は判断を鈍らせてしまうからだ。

『じゃあさ、お嬢ちゃんはどうしてここにいるの?』

「お嬢ちゃんじゃない! アンタ、わざと言ってんじゃないでしょうね! アタシたちはね、『天界』から一度降りると、二度と『天界』には帰れないのよ!」

しょうがないじゃない! と、そっぽを向く。

『さあ……? でもね、お嬢ちゃんだって、人を――貴也を守ろうとしたじゃない。

――でしょう?』

本気で、殺すつもりで攻撃したにも関わらず、そんなこと忘れたかのようにミリの痛い所を突く。『最期の審判』を公正に行う為に、その時が来るまでは全ての成り行きを人に任せると決められている。貴也を守ったことも、それ以前に、今、地上に人と共にいることさえ違反なのだ。それは分かっていた、分かってはいたけれど、リアムローダのことを思えばそうせずにはいられなかったのだ。

「そ、それは……だって、リア姉ちゃんが……、

それに、アンタ! アタシのこと『お嬢ちゃん』なんて呼ばないでって何回言ったら分かるのよ!

アタシには、『ミリネール』って言う名前があるんだから!」

『……ユラヌス?』

恐怖とともに刻まれた、忘れたくても忘れられない、あの姿を重ね名前で呼ぶ。

「ユラナス・サブロマリンよっ」

微妙に違うラムの発音をすかさず訂正する。

『ふ〜ん』

ラムは興味津々と言う風に、ミリの全身を眺めている。

「今度アタシを『お嬢ちゃん』なんて呼んだら、エルメスフェネックで――」

続けようとして、思い出した。

ラムの攻撃を受け、フォルが創った結界の中で爆発を続けるエルメスフェネック。

『ごめんねっ』

茶目っ気たっぷりに、それでも素直にラムは謝った。

「アタシのエルメスフェネック……」

今更ながらに、茫然自失となり落ち込んで行く。

「ミリ、アタシが直してあげましょうか?」

何故か、メルキュールを除けばただ一人、ミリになつかれているリアが助け舟を出す。

その言葉を聞き、今の落ち込みようが嘘のように、瞳を輝かせて立ち直り、

「一週間ぐらいかかると思うけど……それでもいい?」

と言うリアに、驚くほど素直な良い返事を返した。

「うん! ありがとう、リア姉ちゃん!」

「この娘って……どうしてリアにだけはこうなワケ?」

「さあ……」

問うクレアに曖昧な返事を返す。

「ん……まあ、でも、馴れ合ってはいないけれど、なついてはいるわよね」

ベーっと、クレアに思いっきり舌を突き出す。

『ユラヌスは、マザコンだからね』

「アタシは、『ユラナス』だって言ってるでしょうが!

――って、何でアタシがマザコンなのよ!」

ふと、クレアの頭に何か閃くものがあった。ラムが何者なのか、思いついたその可能性を確かめようと口を開いた。

「ねえ、ラム――アナタって、いったい何者なの?」

『なあに、『伯母』さん?』

それをきっちりしっかりはぐらかし、まぜっかえす。ただ、クレアリデルがもう少し冷静なら、ラムの言葉からその正体を絞り込めたのだけれど、

「な、な、何ですって!」

すっかり逆上してしまっている。

「クレアさんっ、まあ、抑えて抑えて」

こんな時に、損な役回りを受け持つのがメルの役目だ。なんとかクレアをなだめようとフォローするが……、

ただ、不幸なことにメルもラムの言う『伯母』さんの意味を勘違いしてしまったが。

「ねえ、あのラムだって、二十歳だと言ってたでしょう? 二十歳も二十二歳も、若い子たちに言わせれば、おんなじ『オバさん』なんだからっ」

だから、もちろんフォローにならない。

「メル――フォローになってないわよ」

クレアの声は氷点下を通りこして、絶対零度よりも冷たい。それで自分でも気付いたらしく、慌てて言いつくろう。

「ほらっ、二十一歳のあたしだって、おんなじ『オバさん』だし……」

「メル! 全っ然フォローになってない!!

「あぁ〜ん、ごめんなさ〜いっ」

何をどう言っても、クレアが一番年上であることには変わらないのだ。

「んもう……そんなだから、メル姉ちゃんは()()失格だって言われているのよっ」

ミリはと言えば、自分で掘った墓穴に自分ではまった姉にすっかり呆れている。

「そうなの? あんた以外の九十七人のベスティアリーダーたちは、みんなあたしに従順じゃない。

あたしに反抗しているのは――ミリネール、あんただけでしょう?」

「メル姉ちゃん、それ、違う。みんなはどっちでもいいと思ってるのよ。メル姉ちゃんが族長を名乗るならそれでもいいし、他の誰かが族長でもいいって」

「ああ、そうだったの」

本人に自覚はない。『族長』とはその能力とメルキュール・ティラス・サブロマリンであることをもってある立場なのだ。行動がふさわしくないからと言っても、誰にも代わることなどできはしないのだ。ただ、ミリは情けないメルキュールを見過ぎているのだ。反対に言えばそれほど本心でミリに接しているからなのだけれど、ミリはそれに気付いていないだけなのだ。

が、ミリネールの言うことも真実であり、メルキュール当人が気にも留めないほどに無頓着過ぎるのも確かなのだ。

「ワタシ、今のままじゃ、気持ちがおさまらないっ」

すっかり忘れていた。肩をぶるぶる震わせ、うつむいたまま、低くうめいた。

「クレアさん……あたしが今、おいしい紅茶を淹れてあげるからっ、あっ、それともハーブティにしようか? 気持ちが落ち着くようにレモンパームとか……」

必死でなだめている。もっとも、こうなれば爆発するのは時間の問題だが。

「ハーブティなんかじゃ、私の憤りはおさまらないっ、湯治に行く必要があるわ!!

たぶん、時間が止まった。

『『湯治』って、何?』

静止した時間の中、ラムが一人、ズレた反応を返す。

「んー、……本当の意味はね、『病気や怪我を癒すためにお湯に入ること』なんだけど」

『……あれは違うよね?』

みんなはそろって頷いた。

「クレアさんだけ行っちゃうの?」

すがるような、いや、すがる目付きでメルがにじり寄ってくる。

「みんなで行くに決まっているじゃないっ」

すでに決定済みの事項のとして高らかに宣言する。

「……『決まって』いるのね……」

リアはすでに諦めている。

「どうせ、温泉に入りに行くだけだもの、別にいいじゃな〜い」

ベルのその目は、遊びに行けるのなら理由は関係ない、と如実に語っている。

「みんなって……みんなで行くの!?

「行くわよね?」

とクレアは問うが、貴也に拒否権はない。

が、他のみんな――それはミリネールも含めて、行きたそうにしているのに一人で残る、とは貴也には言えなかった。

なにより、すでにみんなで温泉に行かなければ収まりがつかなくなっていた。

「じゃあ、オレも行くよ」

「それでは、みんなで行きましょう」

かくして、みんなそろって――しかもその日の内に、温泉旅行へ行くことになった。なってしまった。

クレアリデルに逆らえる者などいないのである。

 

『もう……みんな、だらしがないなあ、この程度の山道で……』

そこは、英荘がある場所よりも、さらに辺鄙な山奥だった。

電車を降り、駅から歩くこと、かれこれ……太陽はすでに西に傾き、世界を黄昏色に染め上げ、独特の長い影が大地に横たわっている。目的地の『温泉に入れる民宿』は木の影にちらほらと見え隠れしているような、していないような……、じりじりとしか近付いてこない。

すでに一行は、疲労困憊といった風に、重い足を引きずっている。

ラムと貴也、それに……、

「……そうですよね」

控えめに相槌をうつフォルを除いては。

『な、何で、体力の一番なさそうなフォルが……』

これでもラムは、戦士として幾多の修羅場をくぐり抜けてきたのだ。その体力・運動量は同世代の男性と比べても非常識なまでに高い。

そのラムと同様にフォルも、汗ひとつかかずに、平然としている。

「そうですか?」

小首を傾げ微笑む姿もいつもと変わらない。

「――貴也、許さないわよっ」

クレアがぜーぜーと息をつきながら貴也を睨む。

「オレ、ですか?」

矢面に立たされる貴也を、こちらも肩で息をしているメルが追い討ちをかける。

「貴也が……歩いて二〇分だって言ったんじゃな〜いっ」

「――『約』ですよ、『約』――」

あまり、言い訳になっていない反撃を試みるが、

「『ここ』では……誤差が、元の倍になっても『約』なんですか?」

ついにベルの泣き言が入り、貴也の有罪が確定する。

普段なら、ここでマリアのフォローが入るはずなのだが、この時は、

「ほら、しっかり、ミリ!」

前を歩く貴也たちから、かなり遅れているミリの手を取り、彼女を励ましながら一緒に登っている。

「……ん、ありがとう、リア姉ちゃん」

「あと少しよ、がんばろうっ」

というわけで、貴也たちのやり取りは、当然、聞こえていなかった。

結局、辿り着いたのは日没寸前であった。それで再び貴也が責められたのは言うまでもない。

『こんにちは、お世話になりま〜すっ』

「アタシ……もう、歩けない――」

到着するなりミリは玄関で座り込んでしまったが。

 

露天風呂――

「いいなあ、フォル姉様は――」

例によって、ベルはフォルにべったり寄り添っている。

「だって……こんなにおキレイなんだもの」

「そうよねえ――」

リアも同じように、うっとりと相槌をうつ。

確かに、抜けるように白くシミひとつなくきめ細かで美しい肌をしている。

だからと言って、双子たちのスタイルがそんなに悪いと言うわけでは無い。ベルは華奢であってもそれは決して痩せぎすなどではなく、余計な贅肉を全て削ぎ落としたすんなりとした肢体をしている。対するリアは、はっきり言えば中性的にまで細い。肩幅はフォルやベルと比べても細く、胸はふくらみかけの偏平で、おしりも肉付きは薄い。へこんだお腹に、引き締まった腰から太腿へ続くライン。真っ直ぐな細い足。未成熟な、輝くばかりの無垢な裸身。

が、当のフォルは双子たちが言うほどに、そんなことを気にしていない。どころか顧みることすらなく、いつも通りの、困ったような表情でマイペースに答える。

「『それ』が、何かの役に立つのでしたら、わたしはうれしく思うんですけれど……」

と、目の前を横切って行くラムの姿が目に入った。

「ラム、お風呂に入る時くらいはそのチョーカーを外したら……、って、どうしたの、その傷痕――」

うなじから背中にかけて、大きな傷痕が走っている。明らかに戦いでついた物だと分かる傷痕だ。しまった、という顔で首の後ろと背中を隠す。そうすると、必然的に豊かなプロポーションをフォルたちにさらすことになるが、それを隠す風でもなく再び温泉につかる。

『いや、これは気に入ってるから、それに防水もしているから濡れても平気なんだよ』

中途半端な話の逸らし方ではベルは視線を外さない。どころか、フォルとリアまでもがラムに視線を注いでいる。その集中砲火にラムは何となくため息をついた。

『えー、ここの温泉ってすごいんだね、有害宇宙線防止用ファウンデーションが流れ落ちちゃったんだ』

適度にはぐらかそうとするが、それもフォルには通用しない。

「ひどい傷痕ですね? もう、痛みませんか?」

言外に望むのなら傷も傷痕も残さずに、消すことができるのだと言うニュアンスが含まれている。実際、本来のフォルシーニアが持つPsi能力をもってすれば人の傷など痕さえも残さず完治してしまえる。

『ん……平気だよ。ボクは『人』だから完全に治らないだけなんだから。

……これは、ね……〈フリーランサー〉のリーダーと戦ってつけられた傷痕なんだよ』

「……〈フリーランサー〉のリーダー?」

初めて会った時にもそう言っていたのをリアは思い出していた。あの時はたしかミリを見て〈フリーランサー〉かと問いただしていた。

――未来では『Lalka』はそう呼ばれているのかしら?

ラムはそっと、首の後ろに手を回して傷に触れる。

『話したっけ? ボクは『()()』に来る前に、しばらく未来世界にいたんだ。その未来世界の銀河系連邦国家元首の直轄機関――『オペレーターシステム』と言うんだけれど、その統率者で、ユラヌスという娘――』

「『ユラヌス』? それって、まさか――」

『そう呼ばれていたからね。

正式に名乗りあったワケじゃないし、実際、手が早くてさ、それどころじゃなかったから、だから、本当は彼女の名前なんか知らないけれど……、

でも、ね……あの娘と戦って、『傷』だけですんだのは本当に奇蹟だったと今でも思ってる……』

あの時の記憶が思い出される。ネオミックとユラヌスの暗殺を企てたあの日、計画は途中まで――ユラヌスの部屋に踏み込むまでは順調だった。ただ、少女の姿をしていた彼女がラムリュアの想像を遥かに凌ぐほどに強大な能力を有していたことを除いては。

戦いですらなかった。

ラムは一方的に打ちのめされ、生きて逃げ延びたことさえ奇蹟であった。

そして彼女の身体には、消えないうなじの傷と機能障害が残った。

「誇らしい『証』なのですね?」

それほどの強敵との戦いにも生き延びることのできたラムへの賞賛を込めて、フォルは言った。

『物事をポジティブに考えるのは、お婆さま譲りなんだ。と言うか、お婆さまの影響なんだ』

「ステキな考え方ですよ」

「ホント、まるでベルみた〜い。ねえ?」

リアが隣のベルに同意を求める。

「え? んぅ……だって、悩んだってくよくよしたって後悔したって、仕方がないもの。

――ただ、自分のしたことについては、責任を持たなくちゃいけないけど――」

どこまでも、ひたすら厳しく真面目なのだ。当然のこととして言いきった。

『そうだよね……』

ベルの姿をまぶしそうに眺めるラムの視線は、どこか懐かしげでさえある。

――もう一度、同じ言葉が聞けるなんて……。

『お婆さまもよくそう言ってた』

「ラムには……お婆さまがいらっしゃるのね……」

人間を羨む気持ちを、ついには隠しきれずに言葉に表れてしまった。

リガルード『神』によって創り出されたとされる、天使たち堕天使たち『Lalka』に人の言うような親は存在しない。言葉の概念を知ってはいても、自らが親になり子孫を残すことは許されていないのだ。

マリアを除いては――

『――ん、正確には『いた』だけれど、ね』

知らず見つめていたベルから視線をはずし、湯に手を遊ばせる。

『それにね、本当のことを言うと、ひいひいひいひいひい……だっけ? お婆さまぐらいなんだけれど、面倒くさいから省略して、ただ、『お婆さま』とだけ呼んでいたんだ。

……でもね、若作りで歳も桁違いにサバを読んでいたし……、

ボクね、人前でお婆さまと一緒にいる時には、『お姉様』って呼ばされていたんだよ。ボクなんかよりももっとずっと年上なのにだよ』

「すっご〜〜い」

それをリアは無責任に感心している。

「……それで、通用するの?」

ベルが当然の疑問を口にする。ラムの、人間のそんな年寄りなら、数百歳を数えるはずなのに、ラムの『お姉様』で通る姿をしているなんて。

――ちょっと信じられない。

『していたみたいだよ』

ラムが、そんなベルの疑問を見透かしたように、苦笑まじりに答える。それに可笑しかった、まさか、当のベル本人からそんな言葉が聞けるとは思わなくて。

「ねえ、ラム――」

フォルが思いつめた口調でラムに訊く。

「……『未来』は、あるんですよね?」

うつむくフォルの表情は髪に隠れて見えない。

ベルとリアはそんなフォルの言葉にはっとして顔を見合わせた。ラムでさえ神妙な顔で視線を外した。

それは、誰もが漠然と感じている不安。

むしろ、ラムリュアが現れてからいっそう不安は募るばかりである。

天使にしろ、堕天使にしろ、この星に住む全ての者たちの未来に関わりがある以上、どれだけ信じていても消すことができない不安。人類は最後の審判を乗り越えて未来へと紡がれて行くのだろうか? それとも、やはり『お役目』に従い人は滅ぼされてしまうのだろうか?

――あるいは。

『ここの……今ここにある、この時間の未来かどうかは知らないよ』

ラムにすれば、なまじ未来を見てきただけに、繰り返された歴史を知っているだけに、きっぱりと肯定することもできず、かといって否定することもできない、ただ、否定的にほのめかすぐらいしかできないのだ。

「フォル姉様、あたしたちはもうここにいるんですもの。それこそ『未来』があることの証になるんじゃない?」

「そう……ですよね」

ラムが言うように、リガルード『人』が超未来から超古代へと彼女たちを送り込んだ存在であるのなら、未来はあることになる。少々逆説的ではあってもベルらしい前向きな考えに、フォルは自分に言い聞かせるように呟く。

「わたしたちは、超古代からいたわけではないんですものね」

『ボクがここに来るまでは、本当にそう信じていたんだね?

……まあ、そっちの方が自分の『存在』や『お役目』に疑いを抱かないだろうけど……』

創られた者への憐れみを込めて、ラムは言う。

「リガルード『神』は、わたしたちにとって、絶対的な存在ですもの――疑うなんて……」

『リガルード『人』がね、本当に『神』だとしたら、あんたたちの存在なんて必要ないはずだよ!』

フォルが言い終わるのも待たずにラムは言った。

ラムにとってそれは絶対的な存在ではない。

リガルード『人』が、真に全知にして全能である絶対的な存在であるのなら、彼女らが存在することもなく、また、ラムリュア自身もここにいることはなかったはずである。

『あ……今の、忘れて……って言っても無理か?』

ついつい彼女たちの前では、口が軽くなってしまう。

「ねえ、ラム、いったいどうゆうこと?」

「アタシたちって?」

『――大きなお風呂っていいよね』

うーん、と手足を伸ばして伸びをする。鍛え上げられてはいるけれど、女性らしいプロポーションが露になるのも気にしない。

『英荘のお風呂だと足も伸ばせないんだから。

――それに、温泉だと湯治もできるんだよね?』

当初の目的を持ち出して――もちろん、それはクレアの建前と言うか口実でしかないけれど――この話題を、すっぱり打ち切った。

だから、フォルたちは、それ以上追及しなかった。未来を知れば、それが、これからの歴史に影響を与えることを理解していたし、何より、ラム自身、それ以上話すつもりも無かったから。

「湯治といえば、クレア姉さんたちってどうしたの?」

だから、リアはあっさりと話題を切り替えた。

「クレア姉さんとメルさんは、貴也さんを呼びに行ってるわよ」

「では、貴也さんもこちらにいらっしゃるのですね」

例によってのんびりとしたフォルの言い様に、ベルたちはそろって顔を見合わせる。

果てしなく嫌な予感がする。しかも外れない類の嫌な予感である。

「あう、貴也……」

フォルと自分の身体を見下ろして、リアはずぶずぶと湯船に沈んでいった。

「えーと……そうそうミリも来ればよかったのに……」

「……そうですね」

とっさに話題を変えるつもりで、ベルはそう口走ったが、それが失敗だと気付いて自分の口をおさえた時にはすでに手遅れだった。

結局、ミリだけが孤立したようになっている。

ミリは「疲れた」と言って、割り当てられた部屋に引きこもっている。

フォルにすれば、自分が避けられているから出てこないのではないかと、そう思えて仕方がなかった。

「あの……ごめんなさい、フォル姉様……」

「いいのよ、ベルのせいでは無いもの……わたしのせいですもの……」

――そう、わたしのせい……。だから、ミリに分かってもらわないと。

 

「これ、うまいな――」

「貴也さんは、こうゆうお料理がお好きなんですか?」

テーブルの上には所狭しと、海の幸から山の幸までふんだんに盛り込んだ料理が並べられている。

「うまい料理なら、何でも好きだけれど」

そう言って、大根の煮物をひとつつまむ。

「あたしはそれだけじゃイヤだわ――」

こうゆう話題――特に料理の話になれば、すかさずメルは乗ってくる。

「見た目も、豪華でなくちゃ、作る気だって起きないもの」

「それでしたら、こうゆうお料理は、わたしが作ることにいたします」

そう言ってフォルは嬉しそうに、食卓に並ぶ料理を見回した。

ついでに、料理ができる二人――フォルとメルの分担もこれで決まった。

「ところで、ミリはどうしたの? ここに着いてからまだ見ていないんだけど」

ここでもやはりミリはみんなと一緒にいない。

「ミリは、もう眠っちゃったみたい、呼びに行ったんだけれど起きてこなくて……」

クレアとメルが顔を見合わせる。

クレアは「しょうがない」と言う風に肩をすくめ、メルはうつむき小さく首を振る。

それを聞き、フォルもまたも長く吐息をたなびかせる。分かっているのだ。ミリがそうやって自分を避けるのは仕方のないことなのだと。半分は彼女が第三天使の『お役目』を正しく理解していないからだとしても、もう半分はフォルにも責のあることなのだ。それがフォルシーニアの本意ではないとしても、どう言ったところでフォルシーニアが授かっているその『お役目』の一つとして、あるいは最後の審判で人を滅ぼす可能性があることは間違いないのだから。

「ミリはどこか具合でも悪いの?」

「別に――放っておけばいいのよっ」

メルが珍しく、ミリのことを突き放して言う。

「今は何を言ったって、あたしたちの言うことを聞くつもりがないんだもの」

無言で席を立つ貴也を遮って、

「貴也、今はそっとしておいて」

ぴしゃりとメルが決めつける。

「そのうちに、あの娘にも分かる時がきっと来るわ。

――それまでは、放っておいた方がいいのよ」

自分自身にも言い聞かせるように、絡みつく何かを振り切るように言う。

「ミリに分かるって、何が――?」

席につきながら、貴也は訊ねた。

「――『ワタシたち自身』のことよ」

答えたのはクレアだった。普段からは想像もつかないくらい、恐ろしく真剣な眼差しで、

『『天使』と『堕天使』が存在する本当の理由を知らないから――』

クレアのセリフを引き継ぐように言いかけたラムの言葉に、みんなの視線がいっせいに彼女へと集まる。

『――もうボク、お腹がいっぱいになっちゃった――』

もちろん、そんなことに動じたりはせず、相変わらずはぐらかしている。

誰もあえてその続きを問おうとはしない。超未来からやって来た彼女の存在はかなり微妙だ。下手に未来のことを訊けばそれがために彼女たち全員の行く末を変えてしまいかねない。

結局、クレアにしろメルにしろ、ラムのことは無理にどうこうしようとはしていない。

お箸とお茶碗を置き、

『……んう、おいしかった――』

「『ごちそうさま』は――ラム?」

リアを挟んだ隣から、ベルが注意する。弾かれたようにラムはベルを見た。

エインデベルは間違いなくここにいる。()()は超未来ではないのに、つい、重なって見えてしまう。

彼女にとってはもういないあの人に。

「お行儀が悪いわっ」

ベルはラムをじっと見ている。

両手を合わせて『ごちそうさま』を言うまで見ているつもりなのだ。

「『ごちそうさま』――」

さらに促す。

こころなしか、眉根が寄ってくる。

ラムもかつてはこうやって育ってきた。お行儀に厳しくて小さい頃からたくさんのことを教えられてきた。そのことは少しもイヤじゃなかった。何故なら、その全てがラムリュアのためだけに注がれてきた愛情の結果なのだから、それほどまでに愛されてきたことの証なのだから……。

()()であの時と同じ言葉を聞いている。

()()にあの時と同じ時間を重ねている。

『――ごちそうさまでしたっ』

ことさらゆっくり言う。久しぶりに口にしたその言葉はなつかしい響きを持っていた。

「はい――」

ようやく、ベルの許しが出た。

「……ベルちゃんって、しつけに厳しいわね?」

メルが誰にともなく訊いた。

「ベルは、面倒見がいいですから」

「まあ……あの娘の『お役目』みたいなものだし、ね」

「あたしは別にそんなこと気にしないわよ?」

『じゃあ、ボクは部屋に戻って――』

すっくと立ち上がり、

『獣機を壊しちゃったお詫びに、あの娘にいいことを教えてあげてこようかな』

たぶん、重要なことのはずなのに、今のラムの言い様ではとびっきりのいたずらを思いついて、それを試したがっている子供のようだ。

さっさと出て行こうとするラムの背中に、貴也は問いかけた。

「ラム、それってさっきの……」

『『素因』には――あ・と・で・ねっ』

その貴也に最後まで言わせず、色っぽいウィンクを送って行ってしまった。

 

『ユラヌスは――いったい、どうしたいの?』

月明かりを背に、ラムが窓から部屋へと入ってくる。

『いったい、どうなればいいと思っているのかな?』

布団にもぐり込んではいても、やはり、眠ってはいなかったミリに、挑発するように言い放つ。

「ちょっと、勝手に入ってこないでよっ。それに、アタシは『ユラナス』だって何回言えば分かるのよ!」

『『お嬢ちゃん』とか?』

とりあえず、茶化しておいて、しかし、心ではまるで違うことを考えていた。

――それでも、あんたは『ユラヌス』だもの……。

ラムはミリの抗議など、すっぱりきっぱり右から左に聞き流し、

『――教えてあげようか? 二年後に何が起こるのかを、――『最後の審判』がどう下されるのかを……』

浴衣の裾が割れ素足があらわになるのも気にせず、足を組みかえ試すように、

『それとも、もう察しているかな?

――だって、ボクが、今ここにいるんだから』

言った。

「それじゃあ、アタシたちが――ベスティアリーダーたちが天使たちに勝ったのね?」

それこそが彼女の信じる――全てのベスティアリーダーたちの『お役目』なのだ。

ベルが定める最後の審判の日に、天使たちを打ち倒し、人類を破滅から救う。

リガルード『神』よりその使命を授かり、ただ、そうするために生まれ生きてきたのだ。

今、目の前には、これからやって来る『最後の審判』よりも、さらに未来からやって来た人間がいる。

人類が生き長らえた証。その存在こそが、ベスティアリーダーたちの勝利を示していると言えた。

――しかし、

『天使たちと堕天使たち――ベスティアリーダーたちって、どちらも『Ember』のために造られた『Lalka』でしょう?

――あんたたちには、勝ちも負けも関係ないじゃない』

「そんな……」

超未来人である彼女の言葉は、ミリの願いを全面的に肯定するものではなかった。

天使たちから人類を守るために創られた堕天使。

だが、その天使たちも人類のために存在しているのなら、何のために『お役目』を授かったのか? 何のために『最後の審判』を行うのか?

――なぜ、『天使』と『堕天使』の両者が存在しなければならなかったのか。

これまで信じてきた全てに裏切られた気がした。自分自身が存在する理由そのものを否定された気がした。

ミリにはすでに分からなくなっていた。

――真実が何なのかを――

『でも、結局『基星』――地球は――ボクたち『Ember』が崩壊させてしまったけれど……』

ミリの思いをかえりみることなくラムは語り続ける。

『だから、ボクたちは何世紀もの間ずっと、リガルード『人』から弾劾を受け、監理されているんだけど、ね』

「でも――第三天使が地球を崩壊させたって……」

あの時、ラム自身がそう言ったのだ。

――アナタが、基星を――この地球を崩壊させたことのある……あの『Lalka』なのか?

「そうよ! アンタが言ったんじゃない! 第三天使が地球を崩壊させたって! だから、アタシたちはそうならないようにって……!」

だが、第三天使ではなく、自分たちが守るはずの人類が地球を崩壊させたのでは何のために天使から人類を守っているのか。

『でもね、結局、地球は崩壊するんだ、最後の審判でフォルシーニアが崩壊させるか、人類がその手で崩壊させてしまうか……結局は崩壊してしまうんだよ』

何の脈絡もなく、ミリは突然理解した。

未来で、あるいは超未来では、人類の為にいた者たちから、生き延びるためにラムと、たぶん、その仲間たちは戦っているのだということを。

『そう、でも、そのおかげで、フォルがそうしてくれたおかげで、ボクは、今ここにいられるんだよ』

「それっていったい……?」

第三天使が地球を崩壊させたのなら人類の歴史は終わっているはず、そして超未来人であるラムは生まれることすらないはず。が、超未来人であるラムがいるということは、地球は崩壊することなく人類が生き延びたということ。それなのに、ラムは第三天使が地球を崩壊させたからこそ自分の存在があると言う。

『フォルはね――』

ミリに答えず、信じ難いくらい女性らしく優しい表情で、

『ボクたち『Ember』全ての聖母だから』

「……どうゆうこと?」

問いはしても、本当は、うすうす感づいていた。

『人を守りたい』――そう思うからこそ、無意識に避けていたのかもしれない。

あのクレアリデルが『お役目』として担っているのは、

――『再生』と『新生』。

『そうゆうことだよ。

だから――第三天使、フォルと仲良くしてあげたら?』

「そんなこと……」

うつむいてラムから視線をそらす。

ゆっくりとラムに向き直り、

「ねえ……アンタって、いったい何者?」

『それは、また別の機会にしようね』

笑って簡単にはぐらかしてしまう。

「……貴也を殺すの?」

『たった一人の『素因』だよ。説明すると長くなるけど、ボクの為すべき為す。それだけだよ』

「為すべき……、『お役目』のこと?」

『そうじゃないよ。『お役目』じゃなくて、お嬢ちゃんがしようとしていることだよ』

「アタシの……?」

『そうだよ。じゃあ、おやすみ』

部屋へ来た時と同様、窓から姿を消した。

 

――第三天使が『Ember』全ての聖母だって――

何となく分かってしまった。本当にその通りなのだと。

――人類のために聖母になったのだと――

「それじゃ、やっぱりクレアリデルが……」

短くため息をつき、目を閉じる。ラムの言葉がぐるぐると頭の中を渦巻いている。

――アタシの『お役目』……、アタシのしたいこと……。か……。

と、誰かが部屋の中に入ってきた。

「ミリ……あの、おにぎりを作ってきたんですけれど……」

ミリは……返事をしない。

「あ……もう眠ってしまったようですね」

おにぎりとお茶を載せたお盆を枕元に置き、

「わたし……自分だって『わたし』のことが嫌いなんですもの、ミリに嫌われてもしかたありませんよね……」

眠ってしまっている。その安心感から自分の苦しみに満ちた『お役目』に対する秘めた思いを吐露する。最初の一言が出てしまえば、後は止めようが無かった。フォルの声が湿り気を帯びる。それでもミリは返事をしない。

「……たしかに、わたしがリガルード『神』から授かった『お役目』というのは――この地球を、崩壊させてしまうことです。

でも、それは『Ember』が――人類が、ベルの定めた『最後の審判』の日に――強欲で、憎悪を抱き、暴力を振るう、懐疑的な、獣の心を持つ『ベスティア』であった場合だけなんですよ。

ですが、人類が『ベスティア』では無いのなら、たとえどのようなことからでも――惑星破壊や恒星の終末からでも、人類を守る『お役目』を授かっております。それこそがわたしの本来の『お役目』なのです」

何の反応もない。ただ、フォルシーニアの声だけが流れている。

「……信じては、いただけませんか? 『最後の審判』がどう下されるかは――人類次第なんですよ」

キチンと揃えた浴衣の膝に水の染みが、一つ、また一つとできる。

さらに一つ。

フォルの瞳から輝く雫が、零れ落ちる。

「わたしには……どうすることもできないんですっ」

誰にも口のしたことの無い――そこに居合わせてしまった、クレアリデルとメルキュール以外は知ることも無い秘められた感情。苦しみが、つらさが、悲しみが、フォルシーニアを責めたてる全ての思いが言葉となって吐き出される。それは普段のフォルシーニアの姿ではない。そこにいるのは自分自身に課せられた運命の重さに必死で耐える、一人の女性の姿があるだけだ。

「わたしだって……、わたし……だって……」

あとは――言葉にならなかった。

押し殺された――ひたすらの嗚咽。

「ねえ――」

ミリはゆっくりと起き上がる。

自分よりも、ずっと深い苦悩を抱えている第三天使。どうしてこの人を嫌っていたのだろう? どうしてこの人をこんなにも避けていたのだろう? こんなにもいい人なのに。彼女を嫌う気持ちが消え、代わりに罪悪感が無数に湧き上がって来るのが手に取るように分かった。

でも――その前に一つだけ、訊いておかなければならないことがある。

――そのために、彼女に嫌われたとしても。

胸がズキリと痛んだ。その時、その痛みに、その苦しみにミリは初めて気付いた。人を嫌いになること、人から嫌われること、それがこんなにもつらいのだと、こんなにも哀しいのだと、ようやく気付き、今はこの人から嫌われたくない。

――心の底からそう思っていた。

「あ、はい――何ですか、ミリ?」

強いて見せるその笑顔が今のミリには痛い。

「っ…………! 『サダクビア』って――『サダルメルク』って何? いったい誰のことなのよ? 『アンタ』とは違うんでしょう?」

フォルは言い淀み、落ち着かなく視線を宙にさ迷わせている。その瞳が澄んだすみれ色から落ち着いた若草色へと変わる。

「……『わたし』をお呼びですか? 可愛いミリネール」

「……アンタ、誰?」

さっきまでのフォルシーニアとはまるで雰囲気が違う。彼女が持つ独特のやわらかさが感じられない。フォルシーニアの姿をしていても、中身はまるで違う別の存在。ほとんど直感でミリはそれを感じ取った。

「以前、お会いした『サダクビア』ですよ、可愛い――」

『ミリネール』と続けようとするのを遮って、

「ちょっと待って、『可愛い』っていちいち言うのは止めてくれる?」

「あら? だって、可愛いミリネールは本当に可愛いのですよ。ですから、つい、『可愛い』って言いたくなってしまうんです。あ……それとも、『可愛い』と言われるのはお嫌いですか?」

「だから、『可愛い』って連呼しないでよ!

…………その……恥ずかしいじゃない……」

頬を赤らめ、その視線から逃れるようにうつむき、消え入るように呟く。

――本当に可愛い。

口に出さずそう思うだけにとどめて、フォルシーニア――サダクビアは、微笑みミリの言う通りにした。

「それで……アンタは誰、第三天使じゃないの?」

照れ隠しからか、ミリはいきなり本題から切り出した。まだ、頬は少し赤い。

「第三天使ですよ――『サダルスード』ではありませんけれど」

「それって、どうゆうこと?」

感情を忘れてしまった、白皙の頬を持つ蝋人形のように、彼女は淡々と語った。

「『わたし』は『わたし』自身を含む『わたし』たち全ての『フォルシーニア』を知る者――いわば『記録者』なのです。

ん、でも……『サダルスード』には拒まれておりますけれど」

「……何よ、それ、アンタはフォルシーニアでしょ? そうじゃないの?」

何か、得体の知れない本能的な恐怖に怯える声で、ミリはかろうじて訊き返した。

「……今の言葉を、『サダルスード』に聞かせたかったですね。あなたが初めて名前を呼んで下さったんですもの」

「もう、いったい何のことを言ってるのよっ、アンタはフォルシーニアじゃない!」

「そう……本当に、そうですね」

ミリのその言葉が心から嬉しい。本来のフォルシーニアから分かれ、ただ、『お役目』の実行を決めるだけの自分をフォルシーニアだと言ってくれる。サダルスードになることも、本来のフォルシーニアになることもできない、第三天使(フォルシーニア)の一部でしかない、まがいもののような自分をフォルシーニアだと決めつけてくれる。そんなことを言ってくれるミリネールに会えただけでも、『お役目』の執行を取り決める為だけに存在しているのだとしても、ここにいることができてよかったと思える。

しかし、

「でも、この『わたし』は、いわば『フォルシーニア(サダルスード)』の交代自我なんです。『サダルメルク』はラムが来た時に名乗りませんでしたか?」

名乗っていた。

確かに名乗っていた。あの時のフォルシーニアは紅い瞳をしていた。

そう――まるで、中身だけが入れ替わった別人のようだった。

――今、ここにいるフォルシーニアのように。

「『サダルスード』は自分の『お役目』の責務に耐え切れずに、『わたしたち』を誕生させたのです」

「『お役目』の責務に耐え切れない?」

ミリには分からない感覚だった。天使も堕天使も『お役目』を果たす、ただ、その為だけに創られたのだ。にも関わらず、『お役目』の責務に耐えられないとは……。

そんなミリの困惑を見透かしいて、彼女は言った。

「……あなたなら耐えられますか? 一瞬のうちに――地球を崩壊させてしまうことが『お役目』なんですよ。

そんなことをしたら――全ての生命が、生き終ってしまいますもの」

「そんなの――当たり前じゃないっ」

『お役目』に忠実な者として言い切った。

言ってから気付いた。

もし、自分がその『お役目』を担っていたのなら、自らの手で人類を、遍く生命を滅ぼし尽くす行いを為さねばならないとしたらどうだろうか、と……。

耐えられない。

耐えられなどしない。

いや、そんなことに耐えたくなかった。

みるみる、ミリの顔から血の気が失せてゆく。

「……まさか、だって、全ての生命を生き終らせることが――人類を滅亡させることがアンタの授かっている『お役目』じゃないの?」

「違います」

サダクビアはきっぱりと言い切った。

「『わたしたち』の『お役目』は地球を崩壊させること。ただ、それだけ……。生命を滅ぼし尽くすことではないのです」

「そんな……」

「『彼女』には……耐えられませんでした。

……だから、その『お役目』を果たすための『サダルメルク』と、全てを知り、その上で、その『お役目』を果たすことが、適切であるかどうかを私情をまじえず、公正に判断するために『わたし』が生まれました。

――だって……『サダルスード』は、反対するに決まっておりますもの」

気まずい沈黙。それに耐えられずに、たいして考えもせずに、つい口をついて言葉が出た。

「……ねえ、どうして、あなたは、その……サダルスードから拒まれているの?」

「あなたと同じですよ、ミリネール。

『わたし』たちの『お役目』……人類を滅ぼすのではなく、サダルスードは人が大好きですから」

「……だから、『フォルシーニア』は――バラバラになっちゃったの……」

ほとんど反射だけで、ミリは呟いていた。

――フォルシーニアはバラバラ――

……たぶん『わたし』は――あなたが嫌っているフォルシーニア――

確かにあの時、サダルメルクは悲しみに満ち満ちた瞳でそう言った。

「……はい」

サダクビアが静かに頷いた。

「そんな……そんなのってないよ……!!

思わずミリは絶叫していた。フォルシーニアの為に。それではあまりに悲しすぎる。人を好きな心のまま人を滅ぼせないから、自分を三つに分けてしまうなんて、あまりにひどすぎる。そんな、苦しみに満ち満ちたミリの声が消えれば、最後の砂まで落ち切った砂時計のような、虚ろな沈黙が降りた。

自覚していなければ、時間さえも流れてはいないのではないかと、

そう、思えるほどの沈黙。

サダクビアが先に口を開いた。

「本当に、いいわね、『サダルスード』は……こんなにも心配してくださる方々がいて。

ね、ミリネール、これからは、あまり『サダルスード』をいじめないでくださいな」

「え……あ、う……ん――」

「ありがとう、可愛いミリネール」

「もう、いちいち『可愛い』って言うのは、止めてと言ったでしょう?」

そうは言ってみたものの、その声はどこか甘えるような響きがあった。

「そうでしたね」

微笑みサダクビアは姿を消した。

「わたし、いったい……?」

サダルスードはあの二人の存在を知らない。

――ミリにおにぎりを持ってきて……それから……、

ミリと話していた途中からが、どうしても思い出せない。

ふと、そのミリと目が合った。

「ご、ごめんなさい、わたし、お邪魔ですよね」

あたふたと出て行こうとする彼女の背中に、

「あ、あの、第三天使……じゃない、

ええと……その、おやすみなさい、フォルシーニア――」

わたわたと顔を真っ赤にしてミリは言った。

フォルシーニアは立ち止まり、うれしさでこみ上げて来る涙をおさえながら、

「おやすみなさい、ミリ」

そう言った声はとても温かだった。

 

『ねえねえ、貴也、起きてる?』

声の方を見ればラムがいた。

『ベルの寝相が悪くて、ボク、眠れないんだけれど……この部屋で寝てもいい?』

ベルの寝相が悪いのは知っているし、ラムの言い様は冗談めかしてはいるけれど、それとは裏腹に真剣な眼差しをしている。

だから貴也は、わずかの逡巡のあと言った。

「……いいよ」

マリアに知れるとどうしようか、とも思ったが断りきれなかった。

――それほど思いつめていたから。

「ちょっと待って、今布団を出すから」

『ここにあるじゃな〜い』

貴也が何か言う前に、貴也の布団にもぐりこんでくる。

同い年の、二十歳の男性として、意識していないのだろうかと思い、そう、言ってやろうかとも思ったが、どっちの返事が返ってきてもなんだか情けないことになりそうなのでなんとか思い止まった。

『んー、『Ember』と眠るのは久しぶりだなあ。――あったか〜い』

「寒かったの?」

『ううん、そんなことないけど』

「……ん? マリアともこんなことがあったな……」

『リアと……? ふ〜ん、そう、なんだ……』

なるべく、何でもなさそうにラムは言った。

それっきり、どちらも言葉を発しない。

静寂が我が物顔で部屋に居座っている。

『……ね、せっかくだし、少し話さない?』

静寂はラムに打ち破られた。

「……それなら、オレも少し訊いていいかい?」

『ボクに話せることなら……』

「それじゃあ、いろいろ訊きたかったんだけど、――まず、『エムベル』って何? 『ラルカ』とかも言ってたよね?」

『『Ember』と言うのは、母から生まれ出た者――『Lalka』は、ワザによって生まれ出た者』

貴也の発音を微妙に訂正しながら、

『つまり、ボクたちは『人類』で、天使や堕天使たちは造られた『擬似生命体』だよ。『聖母』になれば、『Lalka』でも子孫を残すことができるけれど』

伏し目がちに淡々と語る。ふと、その視線が貴也と絡まり合った。

完璧にベスティアではない人――『素因』。

『あ、あの……、ボクは『Ember』だから、『聖母』にならなくても子供を産めるんだよっ。

……って、いや、あの……ちちちちちがうんだ、いや、違わないんだけど……って、ボクったら、もう……いったい、何を言ってるんだっ』

ともすれば、誘っているとも取られかねない――と言うか、誘っているとしか取れない、自分の言ったセリフの恥ずかしさに、思わず突っ伏してしまう。

「その……『聖母』って? マリアもそう言っていたけれど……」

そのラムの言い様に内心の動揺を隠し、なるべく平静を装って貴也は訊いた。

『ボクが言っても笑わない?』

枕の間からくぐもった声で訊く。

髪の隙間から貴也が、しっかりと頷くのを確認してからラムは顔を上げ、

『愛すること――そして、愛されること……特定の、ただ一人の誰かを――ただ一人の誰かから』

誰かの言葉を借りるような、持って回った言い方だが、それはつまり、

「それって……相思相愛ってこと? そんな簡単なことか……」

『……簡単? ねえ、本当に簡単なこと? 相手からも愛されるって?』

「そう訊かれると……」

自信なく、後半が途切れる。

『天使や堕天使たちって、いつも誰かを――人類全てを愛しいと思っているけれど、誰からも、愛されることも、何も求めていないんだよ。それを求めることが『聖母』になるということなんだ』

かつて、未来で知ったそのままを、貴也に話して聞かせる。

再び、静寂が現れる。

「本当にキミって――超未来から来たの?」

疑っている――と言うよりは、確認のために、話題を探すように貴也は言った。

『……ん……ボクのいた世界が、貴也のいるこの世界の未来とは限らないけれど……』

「……その、超未来って……」

『ボクのいた世界は、ね』

貴也の言葉を遮り、ごろん、と仰向けになる。目に入る板張りの天井、ここに来るまではラムが一度も見たことのない物。

『昔――と言っても、貴也にとっては未来になってしまうんだね』

その言い様に、体温を感じるほど近くにいるこの女性が、時を超えることのできるタイムトラベラーなのだとあらためて思う。

『もう過去へも未来へも行けないけどね』

天井を見つめていた視線を貴也に向け、微笑む。

『それで、そう二度目の『最後の審判』を無事に乗り越えることができたというのに……『Ember』は、無益なだけの戦争を繰り返して宇宙を汚染し、ついには地球そのものを再び崩壊させてしまって……』

「……二度目の? 人類が地球を再び崩壊させた?」

途中で口を挟む貴也の問いかけにも答えず、淡々と言葉を紡ぐ。

『それで……リガルード『人』は危険な因子、人類が滅亡へと向かう可能性が取り除かれるまで『Lalka』に『Ember』を監理させているんだ。

――それがもう何世紀も何世代も続いている』

危険因子が全て消え去り、『Lalka』が真に人類の為にある日まで。

――あるいはこの行き詰まった現状が打破されるまで。

「それじゃあ、ラムって……」

『ボクはねレジスタントのメンバーなんだ。

ボクたちの暮らしていた世界を――超未来を、リガルード『人』の監理から解放するために戦っている。――と言っても、リガルード『人』にすればボクはただ抵抗しているに過ぎないんだろうけどね』

疲れた笑みを張り付け、

『だから、ここに来る前――未来世界へ行って、リガルード『人』が発生する原因になる銀河連邦国家の元首を消去しようとして、そこでも失敗して……』

じっと、天井を眺めている。

何の為にここにいるのか思い出してしまった。

『それでボクは()()()()しかなかったんだよ……』

 自らに使命を課して戦いを始めた。一人で、時には仲間たちと。

大人びたラムの横顔をそっと盗み見る。

「それで、そのリガルード『人』……、いや、リガルード『神』なのかな、フォルたちはそう呼んでたけど、結局は何者? ラムの敵なんだろう」

『んー、リガルード『神』というのはリガルード『人』が、天使たち堕天使たちが『お役目』を遂行できるように、一緒に過去へ送り込んだ端末なんだよ』

「端末……。あ、それでマリアたちはリガルード『神』の話をした時も態度が変わらなかったのかな」

『そうかもね。で、リガルード『人』が実際にどんな存在なのかは、実はボクも知らないんだ。超感覚的超知覚的主体だとも言われてる。『Lalka』の瞳のフィルターを通せば見えるとも言うし、最初の『Lalka』だとも言われてる』

淡々と、何の感情も込めずに言う。

『そうゆう噂だけどね。

――ボクたちは、誰も見たことが無いんだ』

「見たことが無い?」

怪訝そうに聞き返す貴也に、ラムは恥ずかしそうに目を伏せた。

『うん――リガルード『人』は『Lalka』たちを使って『Ember』を監理させている。でも、ボクたちはそのリガルード『人』の居場所さえ掴めていないんだ。どこからか、姿を見せること無く、それこそ神のように……』

静かな憎悪を見せ、そこにリガルード『人』がいるかのように鋭い目つきで天井を睨んでいる。

『ボクたちが知っているのはリガルード『人』の発生だけ。――アレは、聖地エヌベルユ――ここで火星と呼んでいる惑星の巫女、スヴェティ・ドゥープがネオミックの為に未来に誕生させたモノなんだ』

「『新未来(ネオミック)』?」

『ネオミックだよ』

貴也の発音を訂正する。

顔を見合わせ、何となく押し黙る。

貴也の脳裏に浮かんだのは、以前にマリアが話してくれた、いずれマリアが生むことになる子供の名前。

三度の静寂。

砂が落ちるように緩やかに流れる時間。

「『素因』を――オレを、消去しに来たんだろう?」

それを、貴也は破った。

「でも、その『素因』というのはいったい……?」

『『聖母』と結ばれる男性のことだよ。もちろん、それが全てじゃないけれど、ボクだって『素因』について全てを知ってるわけじゃない。でも……、

――『素因』がいなければリガルード『人』は存在しない。

――リガルード『人』さえ存在しなければ、きっと超未来を――ボクたちの世界を取り戻せるはずなんだっ』

すぐ隣にいる貴也の浴衣を掴み迫る。

「……それで、オレを――?」

吐息のような肯定。

『でも、ボクがここに来た時には貴也はもう『Lalka』たちと一緒にいたし……ボクがここに来ることさえ、ひょっとしたら、リガルード『人』の思惑通りなのかもしれないけれど……、

……でも、リガルード『人』だって十全じゃない――『神』なんかじゃないんだっ。

――『神』なら迷ったりしないはずだもの! ダメなら『ダメ』――だったらそれだけでいいじゃない! 天使たちも堕天使たちも必要なかったんだから!』

貴也は、じっと耳を傾けている。

『リガルード『人』は、限り無く十全に近いというだけなのに、ボクたち『Ember』は監理なんかされたくない、飼い殺しになんかされたくないよ!』

貴也をぐっと引き寄せ、

『だから、ボクは……』

「『素因』の――オレの生命を……」

『――いけないかい! 超未来では、ここでのブロイラーと同じような扱いを受けているんだ!

『神』でもない、リガルード『人』から『人類』が――』

さらに貴也を引き寄せ、その胸に顔をうずめ、

『そんなことを――どうして、そのままにしておけるって言うのよ!』

ついに、声も口調も、女性としてのラムリュアに戻り、胸のうちにずっと秘められていた、誰に打ち明けるはずも無かった激しいモノを吐露する。

「ラム……」

『だから、アタシはレジスタンスの戦士になったのよ! 『女』として生きることを諦めてまで! 見てよ、アタシの身体。こんなにも傷だらけなのよ!』

浴衣をはだけ、全身の傷をひとつひとつ貴也に見せて行く。手足は言うに及ばず、目立つ物だけでも何処かしらに傷痕があった。そして、最後に首に巻かれたチョーカーを外し、無防備な喉元を貴也にさらす。

うっすらと、首を一周する線があった。

「これ、まさか……」

貴也とて、将来を有望視される医者の卵である。信じ難いほどにきれいだが、その線の意味するところを一目見て覚った。

『そうよ。アタシは一度死んだのよ。脊髄を砕かれ瀕死の重傷だったアタシの治療のために、一度首を切り落として、砕けた組織を復元し繋ぎ直した。でも、完全には元には戻らなくて……、

気付いていた? アタシの声、聞こえ方が少し変でしょう?

アタシはこの目では何も見ていないし、この耳で聞くこともなければ、この口で何も話してはいないのよ。すべて、Psiで見て、聞いて、話しているのよっ』

ラムの身体機能は著しく損なわれている。クレヴォヤンスを目の代わりに、テレパシーとダイレクトヴォイスで会話を、そしてサイコキノで肉体の維持を。

『これが戦いの代償なのよ!

――でも、アタシのことなんてかまわないわ! 『Ember』のためだのも!

生き終わらない限り――アタシは戦うわ!』

「君は、そうまでして――」

その強すぎる自己犠牲に貴也は何を言うべきか言葉も見つからず、そっと、ラムの肩にそっと手をかける。

ここのまま、抱き寄せたら『同情なんて!』と怒るだろうか?

――それとも……それとも、全てを許してくれるのだろうか?

だが、貴也にはそうすることはできない。

強く、厳しく、真っ直ぐなラムリュアに貴也がしてあげたいことは一つなのだから。

「じゃあ、ラム……オレ、いいよ」

『いいって、どうゆうこと?

――まさか……』

反射的に顔を上げそうになるのを堪えながら、貴也の言いたいことが分かってしまった。

「それで、人類を救えるんだろう?

それに――もうこれ以上、ラムが傷つく必要がなくなるんだから」

『犠牲になっても……アタシに殺されても、かまわないって言うの?』

ラムには分かってしまった、貴也が間違いなく『素因』だということが。

「なんだか、それって、すごくイヤな言葉だけれど……意味はおんなじかな。

だって、オレの代わりに――オレだけで他の大勢を救えることを知ってしまったんだから。

だから……いいよ。ラム」

貴也の声は優しい。

死への恐れはある。が、それよりも強い、誰かのために生きることが当然とでも言うような……言うなれば『想い』を感じる。

『自己犠牲が過ぎるのよ、貴也は……』

「それは、ラムだって同じさ」

自分一人だけよりも、他の全てを選べる貴也。

たった独りでも立ち向かうことを選んだラム。

ラムリュアは迷っていた。

貴也が、リガルード『人』の『素因』かどうかは分からない。が、間違いなく、彼か、彼の子供が、これからの世界に関わり――おそらくは、重要な『お役目』を持つのだということが。

――未来か超未来か、あるいは、もう、どこかで出会っているのかもしれない。

そうなる前に『素因・英貴也』を消去すべきなのだ。

『消去』――貴也を、殺す。

胸が、痛んだ。

そして、気付いた。貴也に惹かれ始めていることに。

貴也を殺せば、未来を変えられるかもしれない。

変わらないかもしれない。

堂々巡りになってしまう。

ただ、確実なことが一つ。

――アタシには貴也を殺せない。

「どうしたの、ラム?」

その声で、現実に引き戻された。

貴也はいる。でも、どうすればいいのか分からない。

『自惚れないで』

答えも出ないままに、勝手に言葉を紡いでしまう。

『自惚れないでよ。リガルード『人』の『素因』は貴也だけじゃないんだからっ』

負け惜しみのように、無理矢理にそう言っている。

貴也にもラムにも、それは分かっていたから、

『貴也が、もし……本当に、その……『素因』だと分かった時には、遠慮しないでそうさせてもらうわよ』

「ありがとう」

不器用なまでの優しさと好意の伝え方に、だから、そう貴也は返した。

沈黙が、また降りた。

それをラムが破り、

『それじゃあ、ボク、もう眠るね』

すっかり、戻った口調でそう言うと、何か思いついたように、貴也の顔を見上げ何事かを練習するように口の中で何度か呟くと、

かすかに口を開き、

「……お、お――……やすみ――な、なさいっ」

かすれた、しわがれ声で、言った。

「……ラム?」

『Psiじゃなくて、自分の口で『おやすみ』って言ってみたかったんだけど、ね……。うまく言えなかったよ。

――だから、おやすみ貴也。

いい夢が、やがて現実となりますように――貴也とともに』

そう言って顔をうずめた貴也の胸は、とても温かかった。

 

 

絆のゆくすえ

 

 

「んー、極楽極楽――」

朝風呂でリラックスしきっているクレアに、『あんたは年寄りか!』と、メルはツッコミを入れたかったが、そもそも、ラムの『伯母』さん発言を『オバ』さんと取り違えたことからこの温泉旅行に来ることになったのだから、これ以上年齢のことでこじれさせてややこしくしないためにも、喉まで出かかったその言葉をぎりぎり飲み込んだ。

「それじゃあ――お邪魔しま〜す」

つま先から湯に入り――かけて、慌てて足を引いた。

クレアリデルを、信じられないモノでも見るかのように見る。

「ど〜うして、クレアさんはこんな熱湯の中にいても平気なのぉ」

「それが温泉というものだからよ」

湯にとっぷりとつかり悠々と湯船に身体を伸ばし、クレアはあまり答えになっていない答えを、足を引き上げ両方のこぶしを胸元によせて硬直しているメルに返した。

メルは、重い重いため息をつくと、

「……あたし、猫肌なのに……」

「すぐに慣れるわよ」

恨みがましい視線をクレアに送りながら、情けない顔で――すっかり観念して、なるべくもがかないように――湯に入った。

「『素因』か……」

熱湯から大量ダメージを受け、ひきつった笑顔を浮かべるメルとは対照的に、涼しい顔でクレアは言った。

完璧にベスティアではない人。

新未来(ネオミック)』の父親。

そして、リガルード『人』が存在する――たぶん――最初の原因。

『素因』はただ一人を指すわけではない。英貴也はただ可能性が高いとゆうだけで、彼が何者であるかは、クレアリデルをもってしても見極められないのだ。

「どうしたの、急に?」

雪のように白い肌を赤く染め、メルは必死で熱湯に耐えている。

「……別に――」

唐突な呟きに意味など無かったように、軽くかわす。

「――ただ……ワタシたちは別にループしているわけじゃないって思っただけよ」

「そう――ね……、繰り返されてはいるけど、あたしたちにとってはループじゃないのよね。あたしとクレアさんとあのリガルード『神』は覚えている。これまでの記憶も経験もあるものね……」

「メル!」

クレアが言ったように慣れてきたのか、メルはお湯の中で足を組み替え胸の前で腕を組む。

「あの娘たちはみんな全てを忘れ、繰り返すたび、新たに目覚めるたびに、これから始まるのだと思うわ。それでも、それまでの経験は無意識の内に蓄えられ、新たに始めるたびにより良い行動を取ろうとする」

それ故に、ミリネールは天使に対して敵意を抱く。

それ故に、エインデベルは時に容赦が無い。

「――誰が、リガルード『人』そう決めたにしろ、クレアさんもあたしもそれを拒まなかった。いいえ、それどころかそうするべきなのだと思ったくらいだわ。つらかったことは全部忘れて、あの娘たちみんなの幸せが欲しかったのだから。

ただ、あたしたちが時間の永さとつらさに耐えればいい、それだけだから……」

「失敗して、リセットして、やり直して……何度も何度も繰り返してきて……ワタシは本当は後悔しているのかもしれない……」

メルの視線から逃れるように、クレアは稜線からすっかり姿を見せた太陽を見上げた。流れ去った時間は計り知れない。この太陽も本来ならとっくの昔に赤色巨星と化し、この星系とともにその生命を終えているはずなのだ。

永い、あまりにも永い道程。それなのにいまだに答を出せず、今までとは違う同じ時を繰り返している。

行く限り帰る道は無く、その道程は果てしない。

重い重いため息を吐く二人の頭上が、突然影に覆われた。

獣機、であった。

明らかに二人を――と、言うよりもメルキュールを目指している。

「獣機ね。――メルはいいわね。いいヒマ潰しができそうじゃない?」

もちろん皮肉と呆れである。

降りて来る獣機が何者であれ、メルキュールは()()としての責務を果たさなければならない。

「しょうがない……あたしはここよ――」

すっくと立ち上がると、とっとと湯船から上がり仁王立ちになる。朝日に映える裸身が凛々しい。

「おいで、ネガレイファントル!」

その声に応じ、ネガレイファントルはメルのすぐ側に現れた。

すぐ側。つまり湯船の中に。

「あ」

と、メルキュールが思った時にはすでに手遅れだった。ネガレイファントルは湯船の中に実体化し、結果、クレアとメルは、瞬間的に押し退けられた湯を頭からかぶり、溢れたお湯に流され、湯船から押し出された。

「何やってるのよ! メル! 獣機を呼び出すのなら、湯船の外にしなさいよね!」

「ああ〜ん、ごめんなさ〜い」

クレアに怒鳴られ、二人して無様に石灯籠につかまっている。

あまりの醜態にクレアは大仰にため息をつくと、気を取りなおし上空の獣機をビシイッ! と擬音までつけて指差し、

「まったく……、アクトレス・メル。さあ、行ってらっしゃい!」

無責任に煽り立てた。

愛するクレアリデルの応援である。メルキュールは俄然色めき立った。

「あたし、ちょっとだけ、本気になっちゃいそう」

クレアの励まし――と言うか、本質は無意味な煽動――に、メルはすっかりその気になった。ネガレイファントルを先に上がらせる。

微笑みをたたえ、その後を追うように足を踏み出す。

闇色の正装がその身をまとう。

二歩目で軽く地面を蹴って、そのまま、ネガレイファントルのコクピットにレヴィテイションする。

で、一人残ったクレアはといえば、

「さ・て・と、それじゃあワタシは隣の露天風呂に行って入りなおそうかしら」

何事もなかったかのように振る舞って、隣の露天風呂へとレヴィテイションして行った。

 

民宿上空。

「来ましたね、ネガレイファントル」

降りて来る獣機のコクピットで、その女性はモニターに映った、自分に向かってくる獣機を認めデータ照合をする。間違いなくネガレイファントル。

「メルキュールが獣機でやって来ます。接触に備えてください、アンティータァ」

 

時間は少し遡る。

 

「いやあああぁぁぁぁぁぁっ!!

叫びと共に、セフィネス・プルゥド・サブロマリンは跳ね起きた。荒い息も整えようとせず、身体中あちこちを撫で回す。

「よかった……アタシ、生きてます……」

ほうっ、とため息を吐き汗に汚れた夜着を脱ぎ捨て、室内に据えられたシャワールームへ行く。正面の姿見に映るセフィネスは憔悴したひどい顔色をしていた。

「ゆめ……、ゆめ、ですよね……?」

頬のあたりをそろそろと撫でまわす。鏡の向こうにいる彼女も同じようにぎこちない手つきで顔を撫でている。呟きに合わせ、唇も引きつるように歪む。

「そう、でしょう……?」

向こうの彼女は答えない。

「いやな、ゆめ……」

のろのろと頭を振り、全身を降り注ぐ湯にさらす。

わけも無く、涙が零れた。

 

「フレーイ! 待って!」

「ユーナ? どうしたの、そんなに息を切らして」

ユーナ・サブロマリンは、膝に手をつき息を整え、切れ切れに言った。

「ちょっと、話があるんだけど、いい?」

「はい、いいわよ」

二人は外壁に近い通路へ移動し、そこに並んで背を預けた。

「それで、話というのは?」

「うん……、セフィのことなんだけど……」

それでフレイは納得した。セフィは二人にとって大切な友達だ。どんなにつらくても、どんなに哀しくても、いつも笑顔を絶やさない彼女は、二人のとっては『聖地』のような存在だった。彼女の側にいるだけで、心安らぎ、穏やかな気分になれる。そんな彼女を二人は大好きだった。

「泣いて、いたの……?」

ユーナは顔を伏せるように頷く。

フレイはそれとは逆に、淡い光を放つ発光材の天井を見上げた。

彼女が笑顔の裏で泣いているのを二人は知っている。だが、二人はそれを誰にも口にしない。必死で気付かれまいとするセフィを知っているから。

そろって天井を見上げた。

天界は今日も静かだった。

()()使()たちは次々に目覚めている。あと一年もせずに、睡眠学習機からみんな目覚めるだろう。

約束の日は間近に迫っている。

「メルキュールは、今日もいないのね……」

「ええ、地上に降りたきり帰ってきません。いえ、帰って来られないのですけれど」

天界は静かだった。天使たちは、みんな地上に降り、目覚めている堕天使はほとんどの者が、ただ、約束の時を待っている。メルキュールをはじめ、堕天使の中では彼女たちの方が比較的異端なのだ。

知らず二人の口からため息が漏れた。

――メルキュールがいればな……。

そんな取り止めのないことが思い浮かぶ。彼女がいればどうにかできると言うこともないのだけれど、あれでも彼女はリーダー・オブ・リーダーズなのだ。話を聞いてもらうくらいのことはできる。

「あんな族長でも、いなければ、いて欲しいと思ってしまうのですね……」

「そう、ね……。

――あたしは、セフィが族長ならよかったのに……」

「本当に、そうね……」

と、ユーナの顔が、魔が刺した昏い翳りを帯びる。

「ねえ、セフィを族長にできないかしら……?」

「セフィを? でも、どうやって」

フレイは天井を見上げたまま、ユーナの様子が変わってしまったことにも気付かない。瞳に狂気の色をたたえ、口の端を吊り上げて笑みを浮かべる。

「簡単よ。メルキュールを倒すのよ」

「ユーナ?」

ようやく、何かがおかしいと彼女はユーナを振り返り、恐怖を浮かべた。それはいつもの彼女ではない。快活で友達思いのユーナではない。妄執に支配されつつある一人の女の姿があった。

「セフィこそが幸せになるべきなのよ。あんなに優しいのに、いつも泣いてて……、それなのに! メルキュールはいつも勝手して、それで族長を名乗って……」

フレイは無意識に一歩身を引いた。

――わたしったら何を……。

本能的にユーナを恐怖したことを恥じ、彼女に詰め寄った。

「しっかりして、ユーナ! あなた、自分が何を言っているのか分かってるの!?

「ええ、分かっているわ。セフィに幸せを……」

うっとりとした表情で、胸の前で腕を組み合わせている。

――セフィネスに安らぎと幸せを。

心からそれを願っているのだ。二人とも、セフィからはかけがえのないものをたくさん貰っている。その感謝を少しでも返したかった。その為にならどんなことできた。

すでに正気を失いつつあった。

「フレイ、ユーナ」

唐突にかけられた声に、二人は跳び上がらんばかりに驚いた。その声の主が誰であるかを理解した瞬間、ユーナはそれだけで正気に返った。

「セフィ、いつからそこに……?」

「さっきからです。アタシ、途中からでしたけど、聞いちゃいました」

二人が何か言おうと口を開くのを遮って、セフィは続ける。

「アタシのこと、心配してくれて、とても嬉しいです。

――でも、ユーナ。族長を倒しに行くのは止めて下さい」

「どうしてっ」

「アタシが行きますから」

「セフィ……?」

「フレイとユーナはアタシが族長になれると思いますか?」

「……分かりません、でも、セフィは一番目のベスティアリーダーですもの。もしかしたら……」

「メルキュールは、自分が九十九番目のベスティアリーダーだからって、ただ、族長だと名乗っているだけじゃない。

――だったら、セフィにだってそうできるわよ!」

「そうですか。二人がそう言ってくれるのでしたら行ってきます。アタシだって、一番目のベスティアリーダーですもの。もしかしたら、もしかするかもしれませんもの」

笑顔で彼女は地上へと降りた。

いずれにしろ自分自身の行く末はすでに定まっているのである。

ならば、あるいは、リーダー・オブ・リーダーズになれるかもしれない可能性に。

――でしたら、それも悪くはないですねぇ……。

 

「ねえ、アンティータァ、アタシだって一番目なんですから、ひょっとしたらそうかもしれませんよねえ」

モニターに目を転じ、そこに映るのは、辺鄙な山奥。

「では、アンティータァ、戦闘態勢お願いしますね。それじゃあ、手加減無しで行きましょう」

もとより、メルキュールに勝ることなど、彼女たち、ベスティアリーダーにできることではないのだが。不幸にも、メルキュールとクレアリデルしかそれを知りえなかった。

「あの獣機は、アンティータァ――セフィネスね?」

降りて来た獣機を確認し、メルは不敵に笑った。

「セフィ、一桁台のベスティアリーダーが、いったい何をしに来たのかしら?」

何をしに来たのだとしても無事には済ませない。と言うニュアンスをたっぷりと詰め込み、再び笑った。

 

「メル姉ちゃん……」

ミリは、ネガレイファントルとアンティータァを見上げながら、自分の不安が的中したことを悔いていた。

「もう、こんなことになるから心配していたのよ……」

「ミリ! ミリったら、こっちこっち!」

と、下からミリを呼ぶ、脳天気な声。そちらを見れば、クレアが手を振り、

「ミリ、いい気持ちよ、一緒に入らな〜い」

お風呂に誘っている。

事態も立場もわきまえないあまりの非常識さに、ミリは思わず凍りついてしまった。

「クレアリデル! アンタは天使でしょう? ベスティアリーダーが獣機で降りて来たっていうのに……なにをのんびりお風呂に入っているのよ!」

かと思えば瞬時に沸騰し、眼下のクレアリデルに怒鳴り返した。

「何言ってるの、アナタもベスティアリーダーでしょう? そんなことぐらいで、いちいち慌てていられないわよ」

「だって、メル姉ちゃんが――」

クレアリデルのあまりのお気楽さに不安げに、ネガレイファントルを見つめている。

「アナタはメルキュールのことを信じてはいないの? ワタシは信じているわよ。ベスティアリーダーになんか絶対におくれはとらないって。だから、手出しはしないわ」

ズキリと胸が痛んだ。

複雑だった。姉のことを、誰よりも信用しているのが天使なのだ。それなのに自分は信じて見ていることもできない。

「メルキュールなら、大丈夫よ」

クレアは落ち着き払っている。ミリが苛立たしいほどに。

その顔はメルキュールを心から信じているから。

「九十九番目の堕天使――族長だもの。

獣機のパワー、それに、意志の強さだって、メルに勝るベスティアリーダーなんて存在しないわ」

「意志の強さ? そんなの、メル姉ちゃんにあったかな?」

二年間、ミリの見てきたメルはクレアの側で、ずーっとお茶とお菓子とおしゃべりを量産し続けていた。

少なくとも、ミリは意志の強さを見たことがない。

クレアは、ありったけの親愛を込めて、言った。

「あるわよ。メルは、ね、ワタシと同じ立場だから」

それってどうゆうこと? そう、言いたかったのだろうが、ミリが口を開くより早く、

「そんなことよりも、ミリ――今なら、私の背中を流させてあげるわよ」

「な、な、何で、このアタシが、アンタなんかの背中を流さなくちゃいけないのよ!」

くるりと踵を返すと、部屋の中へ戻って行った。着替えて、メルキュールの加勢に行くために。

 

戦いは終わった。

ミもフタも無ければ、何の盛り上がりも無く終わった。

いや、戦いですらなかった。

「捕まえちゃった」

アンティータァはネガレイファントルによる時間停止に捕らえられ、身動きできないでいる。Psi能力を使ったわけではない。事象の結果だけを直接引き起こしたのである。これが存在の決定的な違いなのだ。それを戦闘能力に限定して見ただけでもネガレイファントルに勝る獣機は存在しない。実際、ネガレイファントルは持てる能力の那由多分の一も使ってはいない。

「もう、逃げられないから、観念なさいね――セフィ」

「あらっ? え、そんな……う、動けないの? どうして? ちょっと、ねえ、アンティータァ……、ネガレイファントルに近付いただけなんでしょう?」

情けない声で獣機に呼びかけるが、もちろん、返事はしない。

「さて、セフィネス、どうして欲しいかしら? このまま、少しずつ加熱して焼き尽くしてあげましょうか? それとも獣機のコクピットごと、一センチずつ圧縮してあげようかしら?」

わざとらしくも考え、サディスティックな笑みを浮かべる。もちろんセフィに選択権など無い。

「そうね、獣機を焼き尽くすまで加熱したりすれば、まわりの気温まで上昇して暑くなっちゃうから潰してあげるわ。

もちろん、一センチずつ、ね」

ことさら説明的なメルキュールの言葉が終わると同時に、アンティータァの周囲の空間が閉鎖され、極少の一点へゆっくりと縮小されてゆく。ギシギシと悲鳴をあげながらコクピットにはレッドランプが一つずつ点っていく。

「立場をわきまえられない、おまぬけさんは」

「ヤダッ! やめてくださ〜い」

コクピットのメルは、酷薄な笑みを浮かべ、

「あたしがやめると思うの?」

「お願いします。もう、族長の座を狙ったりしませんから」

懇願した。

聞き届けられるはずもないが。

それどころか、メルは心底意外そうに言った。

「あらっ、そうゆうつもりだったの? 

――んぅ、あたしはてっきり、天界から逃亡でもするのかと思ったわ」

「逃亡って……あの、それで、こんなことされちゃうんですか?」

世にも情けない声で、セフィが訊き返す。

逃亡を企てるだけで嬲り殺されるのならば、反逆はいったいどんな末路なのだろうか。

今更ながら後悔がよぎる。

「だって、そうしないと他のベスティアリーダーたちに、示しがつかないのでしょう?」

当然のこととして言うメルは、どこか楽しげでさえある。

「後悔しても、もう遅いけれど」

ふと、いいことを思いついた。

いずれにしろ消えてしまうのであれば、族長の座を狙ったと言うこの愚かなセフィネスに、族長が何なのか教えて、絶望を与えるのも面白いと。

「ねえセフィ、いいことを教えてあげるわ。あんたはさっき『族長の座を狙った』と言ったけれど、あんたたちベスティアリーダーたちは、どう足掻いてもあたしの代わりにはなれないのよ。

いいえ、それどころか、あなたではあたしはもちろん、他の、どのベスティアリーダーにも勝てないのよ」

「は? あの……それって、いったいどうゆうことなんですか?」

初耳である。同じ目的、同じ『お役目』を持って創られたはずのベスティアリーダーにそんな違いがあるなど、セフィは考えたことすらなかった。

いや、他のどのベスティアリーダーたちも、考えもしなかったことなのである。

「それはね、ベスティアリーダーの能力は創られた順番に比例しているもの。だから、最初に創られたあなたは最も弱いのよ。分かるでしょう? 最初のベスティアリーダーではあたしに勝てないのよ。うぅん、それどころかベスティアリーダーではあたしには勝てないのよ」

すでにセフィには言葉すらない。ただ、絶望と後悔があるだけである。それでも、メルキュールは彼女が――おそらくはベスティアリーダーの全てが絶望するであろう言葉を続ける。

「それにね、もうひとつ、あたしには、ベスティアリーダーたちとは違う『お役目』があるから『族長』なのよ。

『あたし』は、ね。たとえベスティアリーダーが全滅しようと、堕天使としての『お役目』をたった一人でも果たせるの。

それに、『あたし』には天使とおんなじワザも使えるのよ。

『最後の審判』の日を定め、一〇八つの鐘でベスティアを審理し、

聖母として『素因』と結ばれ、『光の子』を産み、

そして、あるいは人類がベスティアならば、この星を崩壊させる。

そう、クレアリデル以外のワザなら、ね」

メルの言葉を整理し、慎重に言葉を選びながら、セフィは言った。

「それって、アタシたち、九十八人いるベスティアリーダーたち全員と、それに天使たち三人を合わせた全員とが、メルキュール一人と同じだということ……ですよね?」

「そうゆうこと」

無慈悲に、メルキュールは肯定した。

死にすら似た恐怖がセフィを支配した。

「でもね、セフィ。もし、あなたが『リーダー()オブ()リーダーズ()』だけの『お役目』を果たせると言うのなら助けてもあげるし、本当に族長の座を代わってもいいわよ。

――どう?」

勢い込んで頷くセフィを確認してから、メルキュールは厳かに口を開いた。

「あたしの、あたしだけの『お役目』はね……」

獣機が軋む音の中、聞き取りにくいメルキュールの言葉を神妙に聞くセフィの顔色がみるみる変わっていく。

「……なのよ。どう? セフィネスにはそれができる? できるならたった今からあなたが『リーダー・オブ・リーダーズ』よ。でも、できなければ……わかってるわね」

違う。

存在の大きさが、あまりにも違いすぎる。

ベスティアリーダーの一人でしかない自分と、この宇宙における絶対者にさえ匹敵するメルキュールとでは。

絶望が後悔を伴なってよぎる。

喉がカラカラに渇いている、背中を――いや、全身を冷たい汗が虫のように這い下りていく。

熱病にでも冒されたみたいに、ぼうっと、焦点の定まらない目をしている。

唐突に、我に返ると、

「――そんな! できません! アタシには、アタシたちには無理です!」

「そう……じゃあ、あなたはこれでお終いよ」

獣機の軋みがさらに大きくなった。

セフィは、数分後に迫った自分の死を覚悟した。

世紀末の夢にうなされ、『最後の審判』で消滅するしかないのだから、今ここで死んだとしても同じかもしれない。

――フレイ、ユーナ、ごめんなさい、やっぱりアタシにはダメでした……。

思い浮かぶのは、二人の顔。そして天界で過ごした日々……。

だが、そんな覚悟の一方で死にたくないと思う自分がいた。まだ死にたくない。もっともっと生きていたいのだと、たとえ運命が決まっていても、その日まではもっと精一杯に生きたいのだと。覚悟していたはずの死から逃れたいのだと。そう、訴えかける自分がいた。

――助けて!

祈った。

――助けて!!

精一杯祈った。

「メル姉ちゃん! もう、やめて」

祈りの声は届いた。

いつのまにか、正装に身を包んだミリが、ネガレイファントルの外装に取りついている。

「……ミリネール?」

メルキュールの顔に焦りが浮かぶ。今の話を聞かれはしなかったろうか? こんな自分を見られはしなかったろうか? と、動揺する。

「アタシ……メル姉ちゃんに、加勢するつもり来たけれど、

――あ、あの、ビックリしちゃった、メル姉ちゃんがそんなに強いなんて知らなかったから……」

「ミリ……」

「ねえ、お願い。セフィネスを許してあげて。アタシたちは仲間同士じゃない!

アタシたちの創造主から――リガルード『神』からおんなじ『お役目』を担っているんだもん!

それに、アタシたちの敵は天使たちなんでしょう? アタシたちは一緒に戦って、『人類』を天使たちから救わなくっちゃ!」

あまりと言えばあまりの言い様に、メルキュールは気が遠くなった。

九十八人いるベスティアリーダーたちは、みな、そう教えられている。それこそが堕天使の『お役目』だと。

あの時、クレアリデルは言った。

リセットした後に記憶の再インストールを行う睡眠学習機を、『Lalka』としての『お役目』遂行するための『洗脳機』だと。

その通りなのだ。

ミリネールはラムリュアから、一部とはいえ真実と未来を聞かされというのに天使を敵だと言った。フォルシーニアがどうなってしまったか、なぜ、そうなってしまったかを知ったにも関わらず、天使から人類を救わねばならないと言う。

「……ミリ、あんたは、あんたは本当にそれでいいの……?」

「うん……。フォルシーニアとはこれからはもっと仲良くしたい。でも、アタシの『お役目』は捨てられないもの。

――だから、アタシはこれでいいの」

「ミリ……、あなたは……」

――ごめん、強いわね、ミリネール。

そっと、メルキュールは呟き、アンティータァを突き飛ばした。

セフィは、年齢と容姿に似合わない、可愛い悲鳴をあげると、空中で体勢を立て直し、

ようやく気付いた。

助かったことに。

「いいこと、セフィネス! 今度、あたしに背いたら、本当に容赦しないわよ」

「はい……すみませんでした。

……ところで、あの……アタシは、これからどうしたらいいんでしょうか?」

「知らないわよ、そんなこと――

戻りましょ、ミリ」

ネガレイファントルが、掴まっているミリを気遣って、ゆっくりと降下して行く。

「あぁん、待ってください、アタシもご一緒しますぅ」

それに続いて、アンティータァも降下する。

「まあ、貴也だったら、あんたも英荘にいさせてくれると思うけど、ね」

メルは、ある意味、諦めている。

事実、そうなった。

 

一方、露天風呂では――

「……クレア姉さん、もう、お背中を流すの……おしまいにしてもいいでしょう……?」

ミリを捕まえ損ねたクレアが、フォルたちと揃ってやって来たベルに背中を流させていた。

「まだ、ダメ――」

ベルはやたらと重いため息をつくと、そろそろ赤くなってきたクレアの背中を、諦めて再び流し始めた。

「あ、やっと獣機たちが降りて来ますよ」

リアと二人して上空を見上げたまま、フォルは言った。

「お迎えに行ったまま、なかなか降りてこないんですもの。心配してしまいました。

――きっと、よほど、お仲間との再会が懐かしかったんですね」

「それ……違うと思うなぁ」

リアのささやかなツッコミ。

クレアは誰にも見られないように小さく息をつくと、メルも無事だったし、と心の中だけで呟いて、

「じゃあ、ベル――そろそろ許してあげてもいいわよ」

「あたし……なんにも、悪いことしていないのに……」

泣きそうな顔でベルは言った。

体質なのか運命なのか、ベルは常に不幸な星のもとにあった。

「英荘の住人が一人増えますね」

他の三人は驚いたが、フォルは疑ってもいなかった。

 

で、天使たちと入れ替わりに、露天風呂には堕天使たちがいる。

「お客さま、どこか、具合の悪いところはございませんか?」

「特にありませ〜ん」

メルがミリの髪を洗って、美容室ごっこをしていた。

「ねえ、セフィネス――」

返事がない。

さっきまで、『温泉っていいものですねえ〜』とか暢気に言って湯船でとろけていたはずなのに。

「セフィはどうしたの?」

メルに髪を洗ってもらっているから動けないミリは、視線だけでセフィを探しながら背後のメルに訊ねる。

「クレアさんに捕まってる」

「クレアリデルに? なんで?」

意外そうにミリが訊き返す。

「クレアさんに、英荘でのルールを仕込まれているわ」

ミリは心から同情した。

きっと、偏った、ろくでもないことを、教え込まれているに違いないのだ。

「気付いていた、ミリ?」

「何を? メル姉ちゃん」

「セフィと接触していた時、ね……クレアさん、ずうっと見守っていてくれたのよ」

「ウソ――」

信じられなかった。しかし、反射的にそう言ってから思い出した、クレアリデルが何と言っていたかを、

――アナタはメルキュールのことを信じてはいないの? ワタシはしているわよ。ベスティアリーダーになんか絶対におくれはとらないって。だから、手出しはしないわ。

信じて、待っていた。

苛立ったり、慌てたり、疑ったりせず、ただ、メルキュールを信じて待っていた。

ミリはといえば、苛立ち加勢に行き、しかも何の役にも立てず、それが情けなかった。

――クレアのように、待っていることもできなかった。

――なら、そうまでできるクレアリデルは何者?

「ねえ、メル姉ちゃん――」

「なあに、ミリ」

「アタシたちの本当の敵って何なの? 天使なんでしょう?」

ミリはただ、メルキュールの口から肯定の言葉が欲しかった。これまで信じてきたものが、自分の天使たちへの思い――敵意が間違ったものではない、そのことの証が欲しかった。自分自身の正しさを証明するために、族長が認める言葉が欲しかった。

「あたしたちの敵――」

メルの表情は、ミリには見えない。

「ミリは、フォルを敵だと思えるの? ベルちゃんやリアちゃんを敵にできるの?」

ぷるぷると泡が飛び散るのも構わず、ミリは首を左右に振る。

「できないよ、そんなの……、でもアタシだけが『お役目』から逃げられないもの……。

リア姉ちゃんやベル姉ちゃんもがんばってる。それにフォルシーニアは……」

「そう、偉いわね、ミリネール――」

わしゃわしゃとミリの頭をかき混ぜる。それにくすぐったそうに目を細めている。

「あたしたちの敵――そんなの本当はいないのよ」

ミリはゆっくり振り向いた。

シャンプーの泡がメルキュールの豊かなバストに飛び散って、白いまだらを作っている。

「強いて言うなら……『ベスティア』である人類かな。

……そうでなければ――」

「……そうでなければ?」

頬についた泡を、くいっと手の甲で拭い、

「あたしたち『Lalka』は――天使も堕天使も、生み出されなかったはずだもの。『お役目』なんて授からなかったはずだもの」

ミリには、なぜ、哀しい瞳でそう言うのか分からなかった。

分からなかったが、

「……メル姉ちゃん、天使たちとアタシたちって――」

「天使はね……知ろうとしているの――」

――人類の姿を――

「そして――堕天使は導こうとしているの」

――未来へと――

「天使と堕天使の目的は対なのよ」

「だから、クレアは自分とメル姉ちゃんが同じ立場だって言ったのかしら?」

「クレアさんが、そんなことを……?」

嬉しかった。

嬉しくて、そして悲しい……。

最愛のクレアリデルと同じでいられる。

こんなに嬉しいことはない。

でも、それは、妹たちが先に逝く様を見なければならないということ――

「ミリ――」

ミリネールを背中から抱きしめる。

「メ、メル姉ちゃん、苦しいよ、そんなに強く抱きついたら――」

――大好きなのに――

――こんなに大好きなのに――

別れは生まれた時からの運命である。避けることのできない道である。

人も、創られた者であることも関係ない。ただ、生まれ、生きる者としてそのことを悲しみ、更なる未来へと続くためにあるのだ。誰も避けては通れない。たしかに別れは悲しみを残す。しかし、その人が伝えたかった想いもまた、共に残るのだ。

その人の持つ強さ。

その人の感じた喜び。

その人が見せた優しさ。

その人がくれた思いやり。

想いはそれを受け取る人へと伝わり、更なる未来へと受け継がれてゆくのだ。

涙が零れた。

だから、メルはそれを不覚だとは思わなかった。

 

 


 

 

フォル「物語は少しの間だけお休みします。その間にわたしたちの小さな物語をごらんください。

わたしたちの『聖地』で起こった、わたしたち自身のお話です。

    

ひとつめは、『幸福の住処』です。どうぞ、楽しみにしていてくださいね」

 

 


 

 

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