『素因』
「オーライ、オーライ、ストーップ!」
貴也が指示する方向にクレーンは動き、その腕に掴む資材を大地に横たえた。
ここは、貴也がアルバイトをする建設現場。西暦二〇〇一年一月一日、日付と年が変わった瞬間を狙う新世紀オープンという遠大な計画を持つ、総合レジャービルの建造予定地である。
英荘は貴也がアルバイトをしなければならないほどの財政難ではない。はっきり言えば裕福と言ってさえよい。両親が診療所を売り払い英荘を購入し、生活費として残したお金は、大学の授業料を払い、英荘の住人が貴也一人から九人に増え、その彼女たち一人一人のために小遣いや学費として使っても、――もちろん、日々の生活費として消費されても、かなりの額が貴也の口座には残っている。ただ、両親が残してくれたお金を無駄に浪費したくなかったから、自分で使うお金ぐらいは自分で稼いだお金にしておきたかったからなのだ。
ここを選んだのは、大学からも英荘からも近く、適度な収入が望めるからだ。
「おーい! はなぶさーっ! それが終わったらメシにしていいぞー!」
そして、ここの来る者の人当たりの良さを気に入ったから。
現場監督に返事を返して、目の前の仕事を片付け、荷物を置いてあるプレハブへと向かった。
少し、遅い昼休みである。貴也以外に部屋へとやって来たのは、立場上、真っ先に休憩に入らない現場監督と貴也と同年代くらいの外国人の青年だけだった。
貴也と現場監督が持ってきた弁当をほどく間、その青年は何をするでもなく、――昼食も取らずに、ただ、部屋の隅で寝転がっていた。
「あの、君はお昼を食べないの? よかったらおにぎりを一つどう?」
おせっかいだと分かってはいても、つい、貴也はそう言った。
しかし、
「いらねえよ」
青年は一瞥するだけで拒絶した。
彼は他人の厚意を信じない。
いや、信じられない。
手ひどい裏切りを受けた彼にとって、それは欺瞞でしかなかった。
貴也も、事情を知るわけではないが、だから、それ以上は無理に勧めはしなかった。人には人の思うところがある。たとえ、善意からそうしたのだとしてもそれが常に受け入れられるとは限らないのだ。
ただ、これほど簡単に突っぱねられるとは思わなかったが。
「なんだ、二人は知り合いじゃなかったのか」
意外そうな声で、その青年を「仕方ない」と言う風に見やりながら、現場監督が話しかけてきた。
「あいつ――、ラオール・レマ・ナイアデスは、お前と同じ第二聖城学園の大学部に交換留学生として通っているはずだぞ」
「え? でも、オレは彼とは初対面ですし、この建設現場でも彼を見かけたことはありませんよ」
「ここで仕事中に違う工区の知り合いに出くわすのは難しいと思うがな、まあ、こっちの現場へ来たのは今日が初めてだからな。そら、昨日までは反対側のAブロックにいたからな」
そう言って現場監督は自分の後ろを親指で指す。貴也も現場監督もそちらを見るが、もちろん見えるわけはない。反対側といってもここからゆうに四キロぐらいは離れているのだ。
そのラオールはすっかり昼寝を決めこんで、隣の部屋へと引っ込んで行った。
心から同情する顔を隠そうともせず、閉まりきっていない戸から見えるラオールをちらりと見やり続けた。
「ひどい話でなあ……日本でのホームステイ先は立派な会社の社長の家だったらしいが、ある時、あいつらを残して夜逃げをしちまったんだ」
「あいつら?」
貴也が視線を移した先には、一人寝転がっているラオールの足が見える。
「ああ、妹が一緒なんだ。……なんとか……角膜だかなんだがの、要は目の手術を受けるんだったんだが、その手術代も持ち逃げされたんだとよ。
――あいつが無愛想なのも分かるよなあ……」
貴也に視線を移し、同意を求めようとした現場監督は続く言葉を失った。
彼はラオールに同情した。
しかし、貴也は彼らに何もできない自分を責めていた。彼らのお金を持ち逃げした心無い者に怒っていた。
――そういや、こいつはこうゆうヤツだったな。
ここへ来てまだほんの数ヶ月だが、『完全に良い意味でいいやつ』として貴也は打ち解けていた。
皮肉なことにラオールだけがそれを知らないのだ。現場監督もそれは知っているから、苦笑まじりに言った。
「そんなツラすんなよ、あの二人には、奥にあるプレハブの二階を使わしてやっているからよ」
「奥って……物置に使っているやつですか? あ、あれ? でもあそこって二階ありました?」
「ああ、お前はいないんだっけか、先週、造ったんだ」
「そうだったんですか」
「そうさ、だから、お前もそんなに心配すんなよ、な?」
この話題はこれまでとでも言わんばかりに、それまでとは打って変わって明るい声で、
「それより、愛妻弁当を平らげなくてもいいのか? いつも、この現場の前を通る双子の女子高生の、リアちゃんの手作りんだろ?」
からかい半分、プライドにかけても羨ましいと思う感情は隠されている。
「いえ、これは、マリアじゃなくてフォルが作ってくれたんです」
「おいおい、リアちゃんを泣かすなよ」
「フォルは、双子たちの姉ですから」
事実ではあっても、そもそも、マリアには料理ができないなどとは言わなかった。
「くしゅん」
英荘の台所で、リズミカルにネギを刻む手を止めて、フォルは可愛らしくくしゃみをした。
『フォル、風邪でもひいたの?』
床に直に座り込んで問いかけるラムに、
「いいえ、ラム……」
大丈夫ですから。と返して、自分でも、どうしてくしゃみが出たのか分からないという風に小首を傾げた。
どうしてかしら? と首を傾げるフォルを見やり、セフィは訊いた。
「族長、アタシたちでも風邪をひくんですか?」
「知らないわよ、前例が無いんだもの」
「……ん、族長でも知らないことがあるんですね」
あの時、絶望とともに本気で消去しようとした自分にそれでも笑いかけ、今もなお、『族長』と呼ぶセフィ、確かにメルキュールはベスティアリーダーたちの『族長』という立場ではあるが、この英荘にいる間くらいはそんなものではありたくなかった。
「ねえ、セフィ、ここではあたしのこと『族長』って呼ぶのやめにしてくれない?」
「それでは、なんとお呼びすれば?」
「おばかメル」
すかさず、クレアが出番を待っていたかのようなタイミングで茶々を入れる。
「はい」
「セフィ、ちょっと待ちなさい」
「さあ、呼んでみて」
「ちょっ……クレアさんってば! セフィ!」
完膚なきまでにメルは無視されていた。
「おばかメル?」
永久不変の沈黙音。
世界は瞬時に色を失った。
「……あら?」
その中で、セフィだけが首を傾げていた。
「……本当に呼ぶとは思わなかったわ」
「クレアさんのせいじゃない。あ、と……セフィ、おばかはいらないからね」
「メル……さん?」
「ここでは『さん』もいらないのよ」
「はーい」
子供のように返事をして、深々と椅子に座り込んだ。こうやって黙っていれば、クレアやメルとは違ったタイプのなかなかの美貌の持ち主なのだが、それはうわべだけのこと、本当のところはその表情からは窺い知れない。
「偉いわね、メル」
クレアの言うそれは、もちろん、皮肉とからかいである。
「んもう、クレアさん、あたしには全っ然遠慮が無いんだけど」
「あら? 遠慮して欲しいの?」
意外だ。とでも言わんばかりに訊き返した。
「……して、いらない」
妹たちは大切だが、何の遠慮も無く本心で接しているのはメルだけなのだ。同様にメルキュールが心から想うのもクレアリデルだけなのだ。
「お二人は好き合っているのですね」
唐突に核心を突いたセフィに思わず二人は振り返ってしまった。
「そんなこと……当然です」
台所からひょいと顔を覗かせたフォルのセリフに、メルは飛び上がらんばかりに喜んだ。が、続く言葉にしっかり凍りついてしまった。
「わたしだって、みんなのことが大好きですもの」
メルがクレアに抱く想いが恋愛感情であることに、フォルは気付いていないのだ。
クレアが呆れかえるほどの鈍さである。
『ここはまるで、聖地だね』
それを眩しそうに、思わず笑みが零れそうになるのを感じながらラムは言った。
天使も堕天使も人間も、何の諍いも無く、笑いさざめく日々を過ごしている。超未来で、あるいは未来世界で戦いの果てに求めていたものの全てがここにはある。この小さな世界を守り続けることができるのなら、未来を変えることができるのかもしれない。
ラムリュアにそう思わせるほど、英荘では穏やかな時が流れている。
そのラムが見つめる先で、クレアはお茶碗をテーブルに置きお箸を両手に持つと、おもむろにそれを叩き出した。
「おっなかがすいた! おっなかがすいた! おっなかがすいた!」
ラムは思わず頭を抱えてしまった。天使姉妹の長女がすることではない。ひょっとしたら、四十数億年どころかそれ以上の年月を生き続けて童心に帰りつつあるのかもしれないと、疑いの目で見てしまいそうだ。
「もう、クレア姉様、お行儀がよくありませんよ」
「あっははー、しっかられたー、しかられたー」
すかさず、メルがはやしたてる。
「きっとこの英荘で一番偉いのはフォルですね」
「偉いっていうか……かなわないのよね」
感心するセフィに、優しく答えたのもメルだった。
「は〜い、お昼のおうどんができましたよ」
もうもうと湯気の立つどんぶりをお盆に載せて、共同リビングにフォルが戻ってきた。
ラオールたちが暮らすプレハブの二階。
女の子――ラオールの妹が、拙い手つきで洗濯をしている。
「今日はいいお天気みた〜い、お兄ちゃん、がんばってお仕事してるかな」
そう言っても、空を見上げることも無ければ、現場の方を見やることは無い。ただ、それらしい方向を不自然に眺めるだけである。
突然、風が悪戯心を起こし、突風を使って彼女が取り入れようと手にした洗濯物を、遠くへと運び去り、
「あっ……! お兄ちゃんのハンカチが!」
そして、持ち去ったハンカチをちょうど建設現場の前を通りかかったベルに預けると、どこかへと飛び去ってしまった。
「わっ! なにこれ……?」
突然、顔に張りついたそれを引き剥がすと、子細に眺める。リアも横から覗き込み、
「バンダナ? ハンカチかしら? 風で飛ばされてきたのね」
無理矢理通学路にした周囲を見回せば、案の定、きょろきょろと辺りを見回す女の子が一人。
「ねえ、ベル、あそこのプレハブの二階にいる娘がそれを探してるみたいよ」
リアが指差す先、貴也がアルバイトをする建設現場に立つプレハブに確かに女の子がいる。
「じゃあ、リア、あたしはこれをあの娘に届けてくるから、その間に兄さんに会ってきてもいいよ」
ベルは貴也を『兄さん』と呼ぶようになっていた。今そうしても、何年か先にそうしても、そんなに違いは無いと言って。
「わあい! うれしいな!」
無邪気に喜び、駆けて行く後ろ姿を見送りながら、
「んもう、そんなに『素因』が好きなら早くマリアになっちゃえばいいのに」
貴也はリアをマリアと呼んでいるのだ。それなのに、いまだに彼女は『お役目』を果たす素振りも見せず、リアのままでいる。
呆れもまじる、苛立たしさで呟いた。
「た〜かや〜」
にこにこと嬉しそうに手を振り駆けよって来た時、貴也はちょうど昼休みを終え、現場監督とともに仕事に戻ろうとした時だった。
「マリア?」
「よう、リアちゃん、足元が危ないから気を付けなよ」
「はい! ありがとうございまーす」
「あの……普通は入れないんじゃ……」
貴也のささやかな抵抗。一応、まだ、仕事中なのだ。
「いいじゃねえか別に、
――その代わり英は、一時間、残業をしてくれるよな」
あっけなく撃退され、残業まですることになってしまった。
本格的に仕事に戻る前に、三人で他愛無く話していると、彼らを見かけ――正確にはリアを見つけ、手を振りながらミリが駆けて来た。
「おーい、リア姉ちゃーん! こんな所で、何をしているの?」
よほど急いで来たのか、両膝に手を置いて息を整えている。
「うん、ベルを待っているのよ」
「ホントかな〜?」
天使であるリアが、嘘を吐けないことは分かってはいても、ここは貴也がアルバイトをする建設現場であり、リアの側にはその貴也がいるのでは何となく怪しんでしまう。
「ホントよ、待ってる間に貴也に会いに来たの」
「やっぱり〜、リア姉ちゃんて、ホントに貴也のことばっかり」
「えへへ、だって、好きだもの」
照れ笑い、そう言った。
「……なんか、邪魔しちゃ、悪いみたい」
「そうだな……、俺は先に戻るが、英は残業二時間頼むぞ」
残業はこっそり増えていた。
「そうゆうわけだからよ、リアちゃん、そっちの可愛いちゃんも、今日はこいつの帰りは遅くなるからよ」
後ろ手に手を振り仕事に戻ろうとするが、何を思ったのか現場監督は急に取って返し、貴也を呼んだ。
「おい、英、あの娘も姉妹なのか?」
リアは整った輪郭だが、童顔、大人びてきてはいるが、まだまだどこか子供っぽい。対するミリはうっすらとした小麦色の肌に、金髪碧眼、現場監督の視線が追う二人の容姿は当然のことながら似ていない。
「違います。でも、みんな家族です」
それで了解した。
貴也が下宿館の大家をしていることは、周知の事実なのだ。その貴也が『家族』と言うからには、あの娘もあそこの住人なのだということが。
だが、貴也を知らない者――ラオールにとっては、奇妙な光景としか映らなかった。
「なんなんだ、アイツ……」
ちなみに、ベルが戻るまで、ミリは居辛かった。
使い込まれた一階部分とは違い、やけに真新しい二階部分に続く、作り付けの階段を上がり、女の子が見えたドアをノックする。
「だれ? お兄ちゃん?」
「こんにちは。
――これ、あなたのじゃなあい?」
持ってくる間に綺麗に畳んだハンカチを差し出す。が、女の子の反応は微妙におかしい、顔はベルの方を向いているがその目は、ただ、眺めているだけのような虚ろさなのだ。なにより、見られている感じがしない。
「これ? あっ、ひょっとして、風で飛ばされた洗濯物を届けてくれたの?
――ありがとう」
言いつつベルの方に近寄ってくるが、その足取りはどこかおぼつかない。まるで、真っ暗闇の中にいるような、目が見えていないような……。
――目が見えていない?
ベルは思わずPsiを使って彼女の体を走査した。それはあっけなく見つかった、両目の角膜が薄くなり破れかかっているのだ。
――痛いでしょうに……あたしがPsiを使って治してあげるわ。
と、いきなり、クレアの言葉を思い出してしまった。
――いいこと。ここでは天使としてでは無く、普通の人として振る舞わなければだめよ。『素因』の保護とワタシたちを維持する以外で無闇にPsiを使わないこと。
今、目の前で困っている人を助けたいけれど、そうすると姉の言いつけに背いてしまう。
――困っている人がいるんだから、そうした方がいいのに……、
――あう、でも、クレア姉さんが決めたことだし、みんなもちゃんと守ってるのにあたしだけ……、
うーん、うーんと、両方のこめかみに人差し指を当てて考える仕草は可愛らしいが、あまり人に見せられたものではない。不謹慎だが、彼女の目が見えなくて幸いである。
「あのう……」
「え? あ、はい、どうぞ」
ハンカチを手渡す時、二人の手が触れ合った。
「お姉さん、優しい手をしてる……」
光を失って以来、確かに見ることはできなくなってしまったが、その代わりだろうか、より感じることができるようになっていた。五感の一つが失われたために残った感覚がそれを補い研ぎ澄まされたので、以前にもまして他人を分かるようになったのだ。
「どうもありがとう」
ベルもまた、彼女の存在を感じていた。
――この娘には『素因』の可能性がある。
「あたしはエインデベル。――エインデベル・デネボーラ・レグルス。ベルって呼んでね。
――あなたは?」
「あ、はい。ジゼル・ローラ・ナイアデスといいます」
「あたしたち、これでお知り合いね。
――ねえ、またここへ来てもいいかしら?」
これまで、友達と呼べる人はほとんどいなかった。彼女たちが生まれたのはとても貧しい中東の小さな国で、その日を生きてゆくのが精一杯だったのだ。それが変わったのは手術のために日本へとやって来るほんの数ヶ月前のこと。
やはり、日本から来た海外医療のボランティアチームの先生が目の手術が受けられるように手配してくれてから。
日本へ来てからは裏切られてばかりだから、
誰かに親切にされることがこんなにも嬉しいことだと、あらためて思い出した。
この建設現場の人たち。
ベルさん。
世の中はそんなにひどい人ばかりではないのだと。
「はい、よろこんで」
再び英荘。
ただし風呂場、現在ラムが入浴中。
に、いきなり貴也が入ってきた。
ラムは、まさか、誰かが入って来るとは思っていないし、貴也自身も明かりの消えた風呂場に誰かがいるとは思ってもいないから、薄暗い浴室に浮かぶ白い影が何であるのか認識するのに、一瞬、時間がかかってしまった。
先に反応したのはラムだった。
『み、見たなっ、貴也!』
壁を背にしてしゃがみこむ。
「ご、ご、ごめんっ、ラム! オレ、なんにも見てないから、ラムの背中だけしか……」
『だから……見たのね……!』
少しだけ女の子モードに戻っている。
「でででも、背中だけだよ、それ以外にはなんにも……」
一度は全身にある傷をさらしたとはいえ、背中には見られたくない醜い傷痕がある。貴也と向かい合ったままそろそろとうなじに触れる。
――傷は、無い。
――よかった、うなじの傷痕の擬態が間に合った……。
「ほ、本当にごめん、風呂場の明かりが消えていたし、誰かが入っているなんて思わなくて……」
『いいよ、もう。前にも言ったとおりボクはPsiで見ているからね、明かりなんて必要無いんだ』
すいと立ち上がると、貴也の方に手を差しのべ、
『それより、ねえ、一緒に入ろうよ』
そうすると、いやでも豊かなプロポーションが目に入る。
魅力的なラムの肢体。このまま手を取れば、なにか取り返しのつかない事態に陥りそうな気がして――すでに充分陥っている。という見方もあるが――じりじりと後ずさった。
『どうしたの?』
「い、いや、あの……」
しかし、貴也の葛藤も空しく最悪の事態はあっさり訪れた。
「ラム、バスタオルと着替えを……」
お約束のタイミングで、いきなり入ってきたフォルシーニアによって。彼女は貴也を認め、
「あ、貴也さん、アルバイトからお帰りになっていたんですか?
――あの、何をしてらっしゃるんですか?」
気まずそうに頷く貴也と、突っ立ったままのラム。二人が裸であることを認めると、フォルは自分が何かとんでもない現場に居合わせたことにようやく気付いた。
「あ、あの、ごめんなさい、わたしったら……」
「ちょ、ちょっと待って、フォル! これは……」
「ごめんなさい、わたしったら、気付かなくて……」
「いや、だから誤解……」
「あの! 本当にわたしなんてご迷惑ですよねっ、
――ご、ごゆっくり!」
普段のおっとりしたのもどこへやら、くるりと踵を返すと、言い訳しながら追いすがろうとする貴也を振り切って、「お邪魔しました」と言い残して去ってしまった。
しかも、絶対に誤解したままで。
後を追おうとしたが、裸であることを思い出し行くに行けなかった。もし、このまま追えばさらにややこしいことになってしまう。
――後で誤解を解かなくちゃ……。
落ち込み重苦しいため息をつく貴也の暗い気分を吹き飛ばすかのように、ラムはまだ、一緒にお風呂へ入ろうと誘っている。
「オレは、ラムがあがってから入るよ……」
『え、なんで?』
かなり本気で意外そうに言うラムに背を向け、のろのろと脱いだばかりの衣服を身に着けながら、根本的に羞恥心と一般常識が足りないのか、それとも、男女の区別が曖昧なのだろうか? そんなことを考えていた。
「なんでって……、その、ラムは女の子じゃないか」
その一言でラムは自分が女性であることを久しぶりに思い出した。レジスタンスだった頃は男女の区別はあまり無い。例外もあるが、あるのは敵か味方か、戦士かそうでないか。それぐらいでしか自分と他人を区別していなかった。
『うれしい……ボクを女の子扱いしてくれるんだね』
「オレは、いつだってそうしているつもりだよ」
『あ、じゃあ、もう一回服を脱いでおいでよ。背中を流してあげるからさ。それくらいならいいでしょ』
「その気持ちだけで、充分ありがたいよ」
残念そうにボディソープにまみれたスポンジを握り締め、貴也に背を向け、
『そっか……じゃあ、ボクはここにおいてくれる感謝の気持ちを我慢するよ。
フォルやメルなら、お菓子や料理ができるけど、ボクにはこれくらいのことしかできないから……』
何気に邪っぽい考えが浮かびそうになるのを振り払い、ちらりと肩越しにラムを見やった。
「あ、じゃあ、一つだけ。その、フォルの誤解を解くの手伝ってくれないかな?」
『フォルの?』
互いに背中を向けたまま、申し訳無さそうな貴也は頷く。
『ダメだよ、それは』
「どうして? そりゃ、悪いのはオレだったけど……」
――フォルには、誤解したままでいて欲しいなんて、言えないもの。
咄嗟に、出そうになった本心を慌てて呑み込む。
「ラム?」
『それは、貴也が自分で解いてよ、ねっ』
妙に弾んだ声に、反射的に振り返りそうになるのをなんとか堪え、
『さあ、出て出て、ボク風邪ひいちゃう』
気になりつつも、フォルを追って貴也は風呂場から出ていった。
しかし、ラムは悩んでいた。
――ボクは、本当に『素因』を消去できるのだろうか?
答えは出そうになかった。
『いっただっきま〜す』
英荘の食事は弱肉強食である。
強ければ勝ち、弱ければ負ける。その摂理を食事という場に限ってだが、よく表している。油断していると、あっという間に二人の食欲魔人、クレアとメルにおかずを持ってゆかれてしまうのだ。特にセフィは絶好の標的にされている。で、その度にフォルがたしなめるのだ。
「ねえ、どうしたの貴也? なんだか食欲が無いみたいだけど……」
なんでもないよ。と返したが、さすがにマリアは貴也のことはよく見ている。
「兄さんもそうだけど、フォル姉様もなんだかそわそわしているみたいだし……ねえ、なにかあったの?」
そして、ベルはフォルのことをよく見ている。
ほんの小さな仕草から、様子がおかしいことを察知している、ただ、どんな理由でおかしいのかまではいくらベルでも分からないが。
フォルにしろ、さっきのことを誰かに話すつもりも無いのだ。
「リア……『素因』は貴也さんだけではありませんからね」
リアは怪訝そうにフォルを見返すだけである。
貴也が吹いたのは言うまでも無い。
誤解は、まだ解けそうになかった。
「そうそう、『素因』と言えば、あたし今日『素因』候補を一人見つけたのよ」
一斉にみんなの視線がベルに集まったが、それを気にするでもなく続ける。
「印象はオーケイだし、あとは意識していることを調べればすぐに分かるわ」
「どこで見つけたの?」
誰よりも先にクレアがベルに詰め寄った。あまりの剣幕に、ベルはホールドアップのポーズをして壁まで後退してしまった。
「あ、あの、貴也さんがアルバイトをしている建設現場で、今日、『お知り合い』になったんですよ」
「あの洗濯物の?」
「そうそう、……って、あう、いつの間に……」
リアに返事をする間に、部屋の隅まで追い詰められている。
「あそこで? オレの知り合いか誰かかな?」
「あの〜、兄さ〜ん、それより助けてくれませんか〜」
貴也とフォルは無言で席を立ち、フォルがクレアを落ち着かせ席につかせる間に、貴也が蛇に睨まれたカエル状態のベルを救出した。
「みっともない所を見せたわね」
ポーズとして汗を拭くように、ハンカチで額を押さえ、おもむろにベルに詰め寄った。
「で、その『お知り合い』の名前は? 住所は? 電話番号は? それから……」
矢継ぎ早に質問を繰り出し、ベルを部屋の隅へと追い詰める。
「落ち着いてクレアさん、それ、さっきやったから」
今度はメルキュールがクレアを背後から取り押さえ、彼女と入れ替わる。
「さあベルちゃん、もう大丈夫だから、聞かせてくれる」
そう言う、メルキュールの目も何やら怪しい光をたたえていた。
状況はあまり変わっていなかった。
「――と、いうわけです。きゅう……」
二十分後。
ベルは洗いざらい白状させられていた。
「あんな所に女の子なんて、
――あっ、彼の妹かな」
ようやく、貴也にも分かる話題になった。昼間に会ったラオールの妹以外には、あそこでは女の子は思い浮かばない。しかし、よく考えてみれば彼女に会ったことも無ければ、名前さえも知らないのだと思い至り自身無さげに付け加えた。
「まだ、会ったことは無いけれど……」
そして密かに決意を固めた。
ラオールと会って、話さなければならないことがあると。
「なんだ?」
「あ、オレは英貴也と言うんだけれど、ほら、同じ建設現場でアルバイトをしてる……」
「……ああ、あの時の」
ラオールもすぐに思い至った。現場や大学でも何度か見かけたことがある。それに、人の顔を覚えるのは苦手な方ではない。
「で、なんの用だ?」
ラオールの言い様には絶対的な拒絶がある。日本での仕打ちを考えれば当然かもしれないが、だからといって言わずにおくこともできない。
「あのさ、よかったらうちに来ないか? オレのうちは英荘っていう下宿館で……」
「同情か……」
諦めのため息にも似た呟きが貴也のセリフを遮った。
「同情なんてして欲しくないね。どうせ、お前たちは気まぐれで善良ぶりたいだけなんだ。微笑み、笑いかけるが、しょせんは見せかけだけなんだ。
オレのことは――オレたちのことは放っておいてくれ!」
最低限、言いたいだけ言い放ち、自分の荷物をまとめ、さっさと歩み去る背中を、貴也には見送ることしかできなかった。
「貴也くん……やっぱり、ダメだった?」
「あ、馨子さん、園田……オレのやってることって、やっぱりラオール君からすればおせっかいなのかな……」
二人は何となく顔を見合わせた。
園田は小学校から、馨子は高校から、転校ばかり繰り返していた貴也が、生まれ育ったこの街で出会った親友だ。その性格はお互いにかなり知り尽くしている。
「そんなことはないさ、あいつ、あの調子でどこのクラブもサークルの勧誘も断り倒してるっていうぜ」
悪気は無いらしいがな。と付け加えた。
その態度はともかくとして、ラオール・レマ・ナイアデスはかなりハイスペックな男である。運動部のレギュラーと互角に渡り合える運動能力、母国語に、日本語、英語をはじめ五カ国の言語を習得し、学業は全般的に優秀。所属する医学部の教授からも高い評価を受けている。もちろん顔も合格点である。
しかし、
彼は人を信じない。正確には信じられない。もちろん昔からそうだったわけではない。かつては当たり前に人を信じることができた。彼の国へ来ていた医療ボランティアのチームに短期間とはいえ参加していたこともあった。人同士が助け合うのが当然の環境で生きてきた。
だから、先に触れたホームステイ先での事件は彼の心に大きな影を落とすことになった。それだけで人間不信に陥ってしまうには充分なほどに。
「そうよ、貴也くんだって、そんなつもりで誘ったんじゃないんでしょう」
二人の慰めが嬉しかった。
他人を救ってやれると思うこと自体が、傲慢な思い上がりに過ぎないことは分かっていた。それでも、今ここで、困っている人を見過ごすこともできない。救いの手を差しのべられるのであれば、他人からどう言われようとそうするべきなのだ。
だから、何とかしたかった。
「ようし! なんとかしよう!」
『はあ!?』
園田の提案に二人は同時に妙な声を上げた。
「なんとかって……何か手があるの?」
「それはこれから貴也の家に行って考えるのさ」
そう馨子に自身満々に答える園田。
で、所変わって、英荘の共同リビング。
とりあえず、フォルにお茶を頼んで、貴也、園田、馨子の三人はテーブルを囲んでいた。
「で、園田くん、ちょっとは何か考えがあるんでしょう? 貴也くんの家まで来たんだから」
「それはこれから考えるのさ」
『はあ?』
自身満々な言い様に、二人の声は見事にハモった。
「だって、じゃあ……、どうしてここまで来たのよ?」
「それだったら別に、麓の喫茶店か、大学でもよかったんじゃないか?」
そう、ここは人里離れた山奥なのである。しかも、頗る付きで交通の便が悪い。貴也は自分の家だからいいとしても、二人はここから帰らねばならないのである。
微妙な沈黙が降りた。
「貴也さん。みなさん。お茶が入りましたよ。どうぞ」
あっさりそれを破ってフォルがベルを伴なってお茶の用意をしてやって来た。クレアやセフィのような、正反対のマイペースとは違った意味で、こうゆう時のフォルは場の空気に流されない。
一分後。二人は園田がここを選んだ理由を、改めて思い知らされた。
「じゃ、フォルさ〜ん、ベルちゃんも撮りますよ〜、こっち向いて笑って〜」
カメラに向かいフォルシーニアは満面に微笑みを、エインデベルはぎこちない笑みを浮かべていた。
「……目的は、やっぱり、そっちなのね……」
馨子は、どんよりと呻いた。
ちなみに、何も決まらなかった。
「ちょっと話があるんだが、いいか?」
「ああ、急いでいるから、手短にしてくれるんならな」
とりあえず、ラオールを呼び止めてから園田は、どうやって切り出すかを迷っていた。先日のようにストレートにすれば貴也の二の舞になるし、かと言って、搦め手でだまくらしたのではそもそもの意味が無い。
「おい……?」
「ああ、悪い……」
ラオールに促され、散々迷ったあげく、正攻法が口から出ていた。
「ああ、ええと……、英貴也。覚えてるだろ? この間のあいつの話、どうして断ったんだ? 別にあいつは……」
「それが余計なおせっかいだっていうんだ。他人のお前たちに何が分かる? 何ができる? オレたちのことは放っておいてくれ。そう言ったはずだ」
言い捨てて、ラオールは足早に立ち去った。
交渉決裂、である。
結局、あの後、園田が言い出したにも関わらず、何をどうしようともきめられなかったので、とりあえず、こうしてフォローに来たのだが、ラオールはそれさえも聞く耳を持たなかった。
「頑固者め……」
ため息と共に空しく吐き出した。
「ねえ、ちょっと話があるんだけど、いい?」
「ああ……」
反射的にラオールは頷いたが、何か、嫌な予感がしていた。
「貴也くんのことなんだけど……」
「またか……」
うんざりとラオールは、こめかみを押さえた。
「またか?」
「昨日、園田ってヤツが同じ用件で来た」
「じゃあ話が早いわ。あのね……」
「なぜだ」
「え?」
「英のこと、なぜ、そんなふうにできる? あいつは善良ぶってるだけかもしれないんだぜ」
ラオールは人を信じない。
いや、正確には信じること怖れている。裏切りが心に傷となって残っているのだ。だから、相手の言葉の裏側を勘繰ってしまう。額面通りに受け取ってしまうには傷はあまりに深いので。
「なぜって、簡単なことだもの。貴也くんのことを信じられるって感じたから信じてる。それだけのことだもの」
まるでお昼のメニューを決めるような気軽さで馨子は言った。それがラオールには眩しかった。自分の卑小さを見せつけられるようで、自分の迷いが取るに足らない小さな物だと突き付けられるようで。
「話がそれだけなら、オレはもう行くぞ!」
ラオールは逃げに走ってしまった。
「オレは逃げてるわけじゃない……」
独り、そう口にして見せることがプライドなのだと、そう思うことさえ空しかった。
葛藤は深かった。
まっすぐに生きているということ
ラオールたちの部屋にジゼルの無遠慮な笑い声が響く。
「ベルさんって可笑しい〜」
「そ、そう……? あたし、おまじめなんだけど……」
困り果てたようにひきつった笑いを浮かべるベル。
「それじゃあ、ベルさんは天使で、あたしがその『素因』とかで、世紀末の最後の審判に影響して……」
「そう、そしてそれ以降の世界に必要な人なのよ」
言葉を引き取って言ったベルは真剣そのものである。ジゼルには何の実感も無いが。相変わらずくすくすと笑い続けている。
「あの、ジゼル、いくらなんでも笑いすぎよ」
「ご、ごめんなさい、だって……、お、おなか痛い……」
しばらくお待ちください。
「二十分経過」
「うふふ、こんなに笑ったのって久しぶりかも……。
――はい、もう大丈夫ですよ、ベルさん」
と、ジゼルは言うが、目はまだ笑っているし、口元もかなり緩んでいる。突つけば再び笑いを爆発させそうである。
「……あたしは天使」
こっそりベルは言った。
案の定、ジゼルは爆発した。
――さらに、時間経過。
「信じてないでしょ」
頬をふくらませ、いくぶん恨みがましく言ったとても効果は無い。
あっさり信じた貴也さんの方が異常なのだろうか? 何とはなしに先行きに不安を感じてしまう。
重いため息をついて、ジゼルが淹れ直してくれたお茶――なぜか日本茶を一口すする。
おいしい。
ジゼルの方を見れば、ようやく笑いがおさまり、同じようにお茶をすすっている。
もう一つ、ため息をついた。説得というか、信じてもらえなければ意味が無い。
――とりあえず、どうしよう……。
頭を悩ましているベルの背後でドアが開いた。
「あっ、お帰りなさい、お兄ちゃん」
ラオールが帰ってきた。
ジゼルの声と背後に生まれた気配に、反射的に姿勢を正すベルを彼は一瞥し、
「誰なんだ? ジゼル」
「あたしのお知り合い――友達なの」
簡潔に紹介するジゼルの後に、愛想ではない笑顔を浮かべ、
「初めまして、あたしはエインデベルといいます」
運命の出逢いである。
二人には、まだ、自覚は無い。
それでも、運命の出逢いである。
二人の行く末が未来に関わるのだが、今はどちらも――たとえ、天使であってもそれを知る術は無い。
今のエインデベルにとってラオールは、友人であり『素因』になれるジゼルの兄でしかなく、今のラオールにとってエインデベルは、自分たちに触れる他人でしかない。
「帰れ」
感情を押し殺した冷たいラオールの声。
他人と触れ合わなければ裏切られることも無い。
間違った、淋しい考えだとしても、これ以上ジゼルに裏切られる絶望を味あわせたくはなかった。つらい思いをさせたくなかった。
「何故ですか」
理由も説明も何も無いあまりに唐突な言い様に、ベルの訊き返す声も低く冷たいものになった。負けじとラオールを睨み返す。
「理由なんかない」
立たせようと伸びてくるラオールの手を払いのけ、
「触らないで!」
思いきりひっぱたいた。
「……ベルさん……?」
きょとんとするジゼルをよそに、ベルとラオールは無言で睨み合う。
「あの、ベルさん、お兄ちゃん、どうしたの……?」
「あ、ごめんね……あたし、あなたのお兄さんの頬を思いきりひっぱたいちゃったの……、
――あとで冷やしてあげてね」
不安げなジゼルに自嘲的な笑みを浮かべ答えると、さっさと入り口まで行き、
「それじゃあ、来週、さっき約束した通りお迎えに来るからね」
「はい。――お兄ちゃん、ベルさんがあたしたちをお食事に招待してくれたのよ」
嬉しそうに話すジゼルに、さよならと手を振り、ラオールを軽く睨みながら、
「どうも、お邪魔しました」
低い声でそう言って出ていった。
そのドアを見つめ、笑顔と怒った顔しか見せなかった、所詮は他人でしかないはずのエインデベルの姿がラオールの脳裏から離れなかった。
自然とため息が漏れた。
――エインデベルか……。
ジゼルが濡れタオルを頬に当てるまで、ラオールはベルが出て行ったドアを見つめていた。
「ちょっと、いいか?」
「え? ああ」
反射的に頷いてから、それがラオールだろ知って貴也は少なからず驚いていた。あの一件で話し掛けられるようなことは、もう無いだろうと思っていたのだ。実際、工事現場で顔を合わせることがあっても、言葉を交すことも無いのだ。
「話があるんだ、付き合ってくれ」
ラオールに促されるままに貴也は、彼の後ろに着いて行った。
で、密談をする場所の定番の一つである屋上までやって来た。ただ、ここの屋上は庭園になっており、西半分が実験施設なっていて関係者以外は基本的に立ち入り禁止になっている。東側が開放されて憩いの場として使われている。
「で、話ってなに?」
一向に話し出さないラオールを促す意味で、貴也から切り出した。
「な……、どうして、見ず知らずのオレにあんなこと言い出したんだ?」
「オレの下宿館のこと?」
「ああ、英には関係は無いだろ……」
ラオールは視線を庭園に固定したまま言葉を吐き出す。貴也もそれに倣うように庭園の景観を見やっている。所々に設置されたベンチでは、実験に疲れた科学者がうな垂れていたり、天体観測の器材を準備していたりして、普段よりも賑やかだ。
「関係――は無いかもしれないけれど、少なくとも見ず知らずじゃないさ。
――それに、今ここに困っている人がいて、それが何とかできるんなら、何とかするべきだと、オレはそう思ってるから」
ゆっくりと、ラオールは貴也へと視線を移した。彼は気負いや自尊心ではなく、ごく自然に、当たり前のことを口にした顔をしていた。
「なあ……」
――誰からそれを聞いたんだ?
そう言いかけるのをラオールは、危ういところで呑み込んだ。どうでもいいことなのだ。かつて、ラオールもそれを当たり前に信じていた。それを目指して医の道を選んだのだ。医療ボランティアの先生たちに出会い、その思いをますます強くし、日本でのジゼルの治療と留学を決意したのだ。
「ああ、そうだったな……」
「ラオール君?」
様々なことを思い出していた。人を信じていること、人を救いたいこと、不幸を取り除きたかったこと。裏切りに目を塞がれ失いかけていた多くのことを。
「なあ、いずれ、貴也の下宿館に住まわせてもらってもいいか?」
「もちろんだよ。いつでも……、いや、ごめん、すぐには無理だ」
「こっちの事情もあるから急げないが……?」
「ああ、うん、いや、今空き部屋が無くて、それで増築を計画中なんだ」
照れ臭そうに言う貴也に、彼の持つ人望の正体が何となく分かった気がした。
クレア「終わらないわね……」
メル 「終わらないわね。――まあ、あたしはクレアさんといられるからいいんだけどね」
クレア「メル! それだけは許さないわよ!」
メル 「はいはい、分かってるわよ、クレアさん。でもね、クレアさんといたいのも本当なのよ」
クレア「……ふぅ、ま、別に嫌いじゃないわよ、アナタのこと」
メル 「好きなのね!」
クレア「フォルたちの次くらいに、ね」
メル 「うう……、次回、『螺旋の(続く)限り』です……。クレアさ〜〜〜〜ん」