幕間劇(続き)
第四幕 螺旋の(続く)限り
『伯母さん、ちょっといいかな?』
命知らずなことを口走りながら、ノックもそこそこにラムは、クレアの部屋へと足を踏み入れた。
「…………」
でっかい怒りマークを浮かべクレアは、ラムに微笑みかけた。
『……なに?』
「なんだと思う?」
微妙な猫なで声。
それでなんとなくラムは察した。
『姉呼ばわりしろと?』
「……ま、それでもいいでしょう」
『なんて呼ばせるつもりだったのさ』
ラムに適当に座布団をすすめ、自分も腰を下ろす。
「短いスカートであぐらはやめなさい」
『見えないようにしてるよ?』
「そういうことじゃないでしょう」
疲れたようなため息をついた。
『分かってるよ。でも、そうゆう言い方、まるでお婆さまみたいだね』
「それ、あの娘に言うと泣くわよ……、
――で、何か用?」
『いや、よくよく考えてみると、今はボクの方が年上なんだよね』
「泣かせたら承知しないわよ」
クレアは、ため息の分だけ言葉を切ってから続けた。
「はぐらかしたわね……、何か言いにくいこと?」
『あ、うん……、ボクたちはさ、いつまでここにいられるのかなって、思ってさ……』
「いつまでもよ」
きっぱりと断言し、これで話は終わったとばかりに背をそらした。
『いつまでもって……そうはいかないんじゃないのかい? 『最後の審判』もあるし。それまでしかいられないんじゃないの?
――それに、ボクたちがここにいる理由だって……』
「分かってるわよ、そんなこと」
クレアは、立ち上がり窓辺へと移動する。開け放したままの窓からは、夏の風がクレアを撫でて行く。英荘の周囲は、自然の緑に囲まれ、彼方には麓の街並みが見え隠れしている。
穏やかな風が吹いた。
「聖地ね、ここは……。
――アナタは、ここを帰る場所にしたいんじゃなかったの?」
『そう、だけど……』
「なら、そうなさい。いずれ、みんなはここを去るわ。たとえ『最後の審判』が来なくても。でも、それは仕方の無いことよ。『お役目』だとか、他人同士だとか、そんなことじゃない。自分で決めてそうするのよ」
窓に腰掛け、きっぱりと断言する。
「いずれ、『最後の審判』が起きるわ。ひょっとしたら起きないかもしれない。そのあとでワタシたちはここへ帰って来たいのよ。
――だから、アナタはここで待っていなさい」
その潔さを見ていると、ラムには自分の不安が取るに足り無いような小さな物に思えてくる。クレアリデルは何もかもを自分で決め、その全てを実行しようとしている。そう思えてならなかった。
『『最後の審判』か……』
ふと、大した考えも無く可能性の一つが口をついて出ていた。
『時々ね、姉さんたちをこそ消さなきゃならないって、そう考えるんだ』
「ワタシとメルを?」
クレアは鼻で笑った。
「リガルード『人』も、ネオミックも、『素因』も、誰一人も殺せないから、今度はワタシたちをってわけ?」
見る者を絶望に淵に追いやらずにはいられないような冷笑を浮かべた。ラムは、身を縮こまらせそれに耐えた。そうされても仕方の無いようなバカなことを口走ったのだとラム自身にも分かっていたから。
『分かってるよっ、そんなこと! でもね、超未来で人類はね、本当にリガルード『人』によって生かされているに過ぎないんだ。世界には破滅と荒廃があって、リガルード『人』がいなければ人類はとっくに滅亡していたかもしれないけれど、それは人類自身が招いたことかもしれないけど、だからって、監理なんかされたくないんだよっ。そんなこと望んでないんだよっ! ……ねえ、最後の審判ってなに? ボクたちはそれを乗り越えたはずなのに、それなのに超未来は救われないんだよ……』
ぎりぎりと拳を握り、悔しさに顔を歪めるラム。
いったい、ラムリュアの戦いは何の為にあるのだろう? 超未来において世界は破滅と荒廃が蔓延している。人類は緩やかに、しかし、確実に終末の時へと向かっているのだ。が、その人類の滅びをかろうじて食い止めているのは、他ならないリガルード『人』なのである。リガルード『人』の行う監理体制があるからこそ、人類は生き長らえているのだ。あるいは間接的にラムリュアは人類の滅びの手を貸そうとしている。それでも、彼女自らの戦いを止められない。復讐を正しく果たすことを望んでいる。
リガルード『人』の存在無くして人類の未来はない。あるいは、それこそが運命なのかもしれないが。
クレアはため息をつくとぽつぽつと語り出した。
「ワタシは未来なんて知らないわよ」
ラムは弾かれたように顔を上げた。クレアの無表情は変わらない。
「リガルード『人』の計画は……」
一度言葉を切ってから、ラムを見つめ直した。真摯な瞳でこちらを見返している。
「リガルード『人』はね、そう、アレの発生については今さら言うまでも無いわね。あなたが知っている通り。人類を存続させる。それを目的に創られ、それを実行するためだけの存在。
――アレが最初に行ったのが、愚かにも最も人間的な手段だったわ。人類を監理し支配する。そうすることでより良い方向を目指そうとしたの」
自然にため息がもれた。
ラムは何を思い自分の話を聞いているのだろうと、無性にそれが気になった。クレアならPsiを使うまでも無く、人の心まで手に取るように知れるが、今は封じてあるその能力を少々煩く感じていた。
「でも、結果は知っての通り。行き過ぎた支配は――たとえそれがどれほど完全であっても、支配される側の反発を招く。ま、それでリガルード『人』も色々と学んだようだけど」
『ボクがその証明、みたいなものだからね。ボクは今でもリガルード『人』を殺したいと思っているよ』
「そう。だからやり方を変えたの。――ね、ラム、どうして人類は破滅に向かったのかしら? 繰り返される戦争、経済的な行き詰まり、肉体的・精神的退廃。数え上げればまだまだあるわ。人類はあれほどまでに高度な文明を築き上げたというのに、世界にはこんなにも優しい人たちがいるというのに、どうしてそれらを何一つとて超越できなかったのかしら?」
『さあ……? そんなこと……』
「考えたことも無かった。そうでしょう」
曖昧に頷くラムに、クレアが突き付けるように言葉を重ねる。しかし、その口調、瞳の鋭さとは裏腹に、声の奥底にはラムでは到底捉えようの無い、疲れと苦悩が滲んでいた。
「リガルード『人』の達した結論はね、破滅は人類の『内』からやって来るというものだったの。人類同士の行いにより破滅へと向かうのではなくて、破滅そのものが人類に定められているのよ」
『ウソだ!!』
反射的にラムは叫んだ。
「さあ、それはどうかしら。アナタにも思い当たることがあるでしょう。
――ともかく、リガルード『人』は人類の発生段階から手を加え、破滅に続く因子を取り除こうとしたのよ」
『……それが過去へ送られたリガルード『神』と、天使・堕天使たち』
「リガルード『神』? ――ああ、そうだったわね」
クレアリデルは、失笑をこらえるかのように微妙に唇を歪めた。
『クレア? 何か変なこと言った?』
「お姉様」
『……はいはい、――で、どうしたの?』
「まあ、いいわ。アナタは思い違いをしてるのね。リガルード『神』なんて存在しないのよ」
『存在しない? だって、リガルード『神』は天使と堕天使に『お役目』を遂行させるための、リガルード『人』の端末じゃないの?』
「まさか。アレはね、フォルたちの精神を安定させるために、『お役目』に疑念を抱かないために、リガルード『人』とワタシたちが造ったモノなのよ」
納得しかけて、ふと、ラムは気になった。
『――フォルたちはそれを知っているの?』
クレアリデルは絶望的に首を振った。
「知らないわ。あの娘たちにとってリガルード『神』は、本当に創造主なのよ……」
二人して、昏い眼差しでため息をついた。
「リガルード『人』はワタシたちを造り、この時空の始まりへと送り込んだ。フォルたちには『最後の審判』という使命を。そしてワタシたちには総てが失敗に終わったあと、もう一度最初から、何もかもをやり直せるように、リガルード『人』以上の能力を与えられて」
初めてクレアリデルの顔が、深い苦悩の色に覆われた。
「――ワタシとメルは『最後の審判』で絶滅する人類に機会を与え、原始地球からやり直す。そんなことを何千億年も何千兆年も、気が遠くなるほど昔から繰り返しているのよ」
『何千兆年……』
それがいったいどれほどの時間なのか、人間のラムには及びもつかなかった。二百億年とも四百億年とも言われる、この宇宙の年齢ですら及ばないほどの時間。ただ、例えようも無いほどの虚無がラムの胸の内を去来しただけだった。
『ちょっと待って、じゃあ、ボクはいったいどこから来たんだ? ボクは間違い無く、二度目の『最後の審判』を乗り越えた後から来たんだ。でも、ここでは何千兆年も『最後の審判』を繰り返している!』
「さあ……」
クレアはゆるゆると首を振り、
「どこか、別の時間軸か可能未来からでも迷い込んで来たんじゃない?」
『じゃ、じゃあ……、もし、ここで『素因』を殺してリガルード『人』を消滅させても、超未来は救われない……?』
「かもしれないわね」
『そんな……そんなのってないよ……、ボクは、そのために形見の神機も、仲間も無くして、ボク、どうすれば、どうしたら……』
絶望的にラムは顔を覆った。漏れ出た呟きは擦れ、微風にさえもかき消されそうに弱々しかった。当然である。最初の時空ジャンプをしてからの全てを否定されたにも等しいのだ。
「さあ? 好きになさいな。アナタのことでしょう」
弾かれたようにラムは顔を上げた。
少し前にセフィネスから貰った大切な希望。ただその一言だけでラムは、救いと希望を手に入れ、決意をしたのだ。
『好きにか……。ホント、みんな随分だよね』
「さあ、どうだか。でも今さらベルにお説教されたくないでしょう」
そう口元を緩め、クレアはラムに全てを語って聞かせた。自分たちのこと、リガルード『人』のこと、これまでの全てのことを――何もかも語って聞かせた。
「とにかく、これからどうするかはアナタの自由。アナタはもともとリガルード『人』の計画には入っていないから。でも、ここが聖地には違いないし、みんなのことも仕方ないわよ」
『そっか……、だったら、やっぱりボクはどうにかして超未来を救うよ。希望はある方がいいんだし』
「あなたはリガルード『人』の轍を踏んでいるだけかもしれないのよ」
『それはボクも薄々気付いてた。ボクやリガルード『人』のしている過去を変えて、それに続く未来を変えるっていうのは、たぶん、そういうことだから。
――でも、リガルード『人』が失敗してるなら、なおさら未来は変えなくちゃならないよ。リガルード『人』の失敗も含めてね』
「そのために『素因』を消すことになっても?」
『あ……、それは……』
ラムは言い淀んだ。より良い未来を選ぶ為とはいえ、誰かの犠牲を必要としていることは事実なのだ。ましてや彼女は、世界ではなく自分の復讐の為だけにそれを為そうとしていた。だが、誰かがそれをしなければならないのなら、自分こそがその手を汚すべきなのだと望んで過去へ来た。世界法則を破る罪も歴史を変えてしまう業も故郷から島流しになることで納得している。
『でも、それがボクの選んだ道だから……』
「さっきも言ったように、本当に何も変わらないかもしれないわよ」
淡々と、クレアリデルは口にする。
『それは分かってるよ……。でも! 全力をあげてボクたちは良い方に持っていくしかない!
――そうでしょう! クレアリデル!』
めずらしく、感情的になって叫ぶ彼女をクレアリデルは優しい眼差しで見つめる。それは、メルキュールが羨むほどに妹たちへと向ける視線だった。
「そうね。本当にそうね」
ようやく、クレアリデルに笑顔が戻った。
クレアリデルはそれを見下ろし続けていた。
それは抜けるような白と大きく広がった金色。朝、確かに片付けたはずの布団に投げ出したかのように横たわっていた。穏やかに定期的なリズムを奏で、時折揺れるそれを飽きること無く見つめ続けていた。
「すー、すー」
いったいどれだけの時間が過ぎたろうか、やがてそれにも飽きたのかクレアリデルの目は細められ、そこにはちろちろと険のある炎が灯っていた。そうそう見られない、親しい者には見せたくない類の表情である。
そんなことには全く気付かず横たわる白――メルキュールは安らかな寝息を立てていた。
何の躊躇も無く彼女は、平手打ちの連続から続く渾身の一撃を叩き込んだ。
なかなかに小気味いい音をさせメルは目を覚まし、涙を滲ませた目ですぐ横で仁王立ちのクレアを認めるなり、
「いった〜い、クレアさん……、今のはひどい、ガードもできなかったわよ……」
情けない声で言った。
「それはそうよ。ガードできないように攻撃したもの」
二人して対戦格闘ゲームにでもハマっているらしい。いけしゃあしゃあと言うクレアの態度はいっそ涼しげでさえある。メルの抗議――ただの愚痴だ――をきっちり切り返している。
「ここは、英荘の六号室、ワタシの部屋よ。――なんでメルがいるのよ」
仁王立ちでメルを見下ろし、冷たい声と視線で持って威圧する。それに対するメルの言い様は、まるっきりただの駄々っ子である。
「だあって、あたし、ミリと一緒の部屋じゃ眠れないんだもん。……ミュウはすぐ人の首の上で眠ろうとするし……」
ミュウとはミリが最近拾ってきて、飼い始めた猫の名前だ。
「あら、仔猫になつかれてよかったじゃない」
「仔猫? あのミリが過保護で運動不足に育てたあの子が仔猫!? あの体重でお腹や首に飛び降りられたことが無いからそんなことが言えるのよ! 状況を判断する前に呼吸困難におちいってるのよ!」
一気にまくし立てた。
「それで?」
「だ・か・ら・よ〜、今までず〜っと一緒だったのに、いまさら一人で眠れと言われても〜。
――それにあたしだってさみしいもの」
ここぞとばかりに、甘えてすり寄ってくるのを一喝して睨む。
「甘えんじゃないわよ」
物真似っぽく言い放つ。
「そんなことよりメル、出かけるわよ」
「あたしは『そんなこと』なの?」
「ええ、そうよ」
あっさりクレアは頷いた。
「もう、クレアさんったら……、あんまりひどいと浮気しちゃうわよ?」
「アナタに、そんな相手はいないでしょう?」
しばし考えメルは言った。
「…………貴也とか」
「いいこと、もし、フォルたちを泣かせたら、いくらアナタでも嫌いになるわよ」
無言で両手を挙げるメルに、クレアは大仰にため息をついた。
「それでクレアさん、出かけるってことは今夜もまた『観光』に行くの?」
温泉旅行から帰ってきてから――いや、それ以前からも、毎晩というほどではないにしろ、夜になると二人して出かけている。メルの言う『観光』とは皮肉なのだ。各地を巡り、ベスティアではない人間を増やそうとしているクレアリデルへの。
妹たちの為に、みんなにとっての幸せの為に、そのことがメルキュール以外の誰にも知られることの無いように、遊び人を気取って昼間は自由奔放に振る舞っているのだ。
「らしくないわよ。クレアリデルともあろう人が独りでコソコソと『素因』を増やそうなんて」
「あら、お嫌だったら、ワタシは一人でもぜ〜んぜん構わないのよ」
「ずるいわよ、クレアさん。あたしがそうできないこと、知ってるでしょう」
「だったら早く、下着を着けて服を着て、準備をなさい」
「はいはい」
愛するクレアには素肌を隠す必要が無い。素晴らしいプロポーションをさらしたまま、脱ぎ散らかした衣類や下着を探し始めた。
軽い足取りで階段を下り、黙って出かけようとしたのだが、ちょうどそこで、二階へと行こうとしたフォルと鉢合わせしてしまった。自分がこんなことをしているとは誰にも知られたくないのだ。特に優しすぎるくらいのフォルシーニアには。
「あ、クレア姉様とメルさん、――あの、今夜もお出かけなんですか?」
この英荘には総勢九人もの住人が住んでいる。いくら人知れず出かけて行っても、Psiを使っていない以上、誰にも気付かれずに済ますことなどできはしない。ほとんど毎晩のように出かけていれば当然である。今では二人の夜間外出は周知の事実となっている。が、それが何の為であるのか、その理由だけは秘密にしておかなければならない。
「う……うん、ちょっとね……」
「あの、クレア姉様。わたしがこんなことを言うのはどうかとも思いますが、あまりメルさんを連れて夜に外出されるのは……」
「感心しない?」
「あ、はい……その、みんなも……」
「心配してくれたんでしょう。ありがとう、フォルシーニア」
幼子にするように、フォルの頭に手を置いて撫でる。彼女は恥ずかしそうに困った笑みを浮かべてされるがままにしていた。
だが、二人は気付かない。メルが嫉妬と羨望の入り混じった表情を浮かべ見つめていたことを。
「ねえ、フォル、出かける前にお茶をいれてくれる?」
ごく自然な明るいクレアの言葉に、つい、メルは口を挟まずにはいられなかった。
「クレアさん、お茶だったらあたしが……」
「ワタシはフォルに言ってるのよ」
あきらかに嫉妬と落胆の表情を浮かべるメルと、それを見ないようにするクレアを不審に思いつつも、フォルは共同リビングで二人にお茶の用意を始めた。
ポットから急須に新たにお湯を注ぎ、湯飲みに注いで二人の奇妙な雰囲気にあてられたようにおずおずとお茶を出す。
「あの、どうぞ」
クレアは一口すするなり、和みきり満足げに頷いた。
「は〜、おいしいお茶」
「……ねえ、フォル、このお茶っ葉って、高いやつ?」
この時空へと来てから、最初の原始地球誕生から一緒に暮らしてきたクレアは、食べる物に関してはかなりうるさい方だ。二人でいた時は料理はメルの役目だった。クレアの口に合わない物を作り、なじられたことは一度や二度、どころか数え切れない。それなのに、たった一杯のお茶であんなにも満足げな顔を見せることは数えるほどしかなかった。
だから、つい、訊いてしまった。
「いいえ、スーパーで特売をしていた玄米茶ですよ」
何も特別なお茶ではない。
ただ、フォルの存在こそがクレアにとっての特別なのだ。
フォルだけではない。ベルとリアたちも、彼女たちの存在こそが特別なのであり、妹たちの幸せへの道行きを模索しているのだ。
分かっていたのだ。メルキュールがクレアリデルにとって、特別であり必要な存在であっても、それでも、妹たちの次なのだ。
分かっているが、やはり、胸を伝う苦さは拭いきれない。
「みんなはどうしてるの?」
だから、クレアはフォルに話題を振った。彼女がメルに不審を抱かないように。
フォルは可愛い仕草で小首を傾げ、
「ベルとリアはもう休みました。ミリとミュウは先ほどお夜食を食べ、今はお部屋でお勉強をしております。明日からは中学校で学期末の試験が始まると言っておりましたから。
貴也さんとラム、セフィさんは、みなさんそれぞれのアルバイトに出かけております」
クレアに視線を向けながら言った。メルの笑顔がひきつっていたことには気付いていないようだ。ため息にも似た返事を吐き出すと、立ち上がり、
「それじゃあフォル、行ってくるわね。――メル、行くわよ」
「はーい」
立ち直ったメルは、子供のように返事をしてクレアに促され、
「行ってらっしゃ〜い、お気をつけて」
フォルの声に見送られ出かけた。
「それで、クレアさん、今夜はどこへ観光に行くの?」
月が見つめる夜空を科学の果てに生まれ出でた者が行く。
神機グラフィアスと獣機ネガレイファントルである。
「そうね、今夜は西の方、京都あたりに行ってみましょう」
「え〜、また日本国内なの〜? あたし、フィレンツェとかロサンゼルスとかカトマンズとかに行ってみたいな〜」
メルは不平をもらすが、すでに眼下では鈴鹿の峠を越えている。琵琶湖が近付きグラフィアスは速度と高度を落とした。
「どうゆう趣味よそれは、だいたい、この国の全てをまだ知ったわけじゃないでしょう?
――まあ、フィレンツェは好きだけど」
「まあ……国内でも国外でも、あたしはクレアさんといられればどこでもいいんだけどね」
「素直な娘は好きよ」
「『愛してる』って言って欲しいなあ〜」
「おばかなこと言わないの」
そうは言っても、頬を膨らませ拗ねて見せるメルを大切だと、好きだと思う気持ちは変わらなかった。
京の三条大橋。
「うわー、重そうな着物」
お座敷からの帰りらしい舞妓さんに、メルは無感動な声を上げた。
「メルも着てみたら、舞妓さんみたいにお行儀が良くなるかもよ」
「あたし、お着物を着なくても、フォルやベルちゃんにお行儀を注意されたりしないもの」
パース! と言い捨ててさっさと歩き出した。
「ごらん、もう創れない雅やかな文化、華やかな建築物。
――これらを無くしてしまうのは良くないことだわ」
素晴らしい京の街並み。
重要文化財にも指定される建築物。
千数百年をかけて築き上げられた文化。
最後の審判が行われれば、それらは全て失われてしまう。
「それは人にとっては、でしょう。
――でも、『あたしたち』にとっては大したことではないハズよ」
「メルキュール!」
「分かってるわよ。クレアリデルの考えていることは。
――リガルード『人』は始めてしまったもの。だったらあたしたちはともかく、あの娘たちは『最後の審判』をやめるわけにはいかないわ。そうゆう決まりだからね。
それに、『終わりがあれば始まりがある。始まりがあれば終わりがある』。
クレアさんでしょ、そう言ったのは」
すでに彼女ら、天使も堕天使も超過去へと送り込まれ、現在にいる。もはや、ここからしかやり直しはきかないのだ。
多分、最後までゆくしかないのだ。
「あたしはほら、堕天使だから『お役目』なんて別にどーでもいいんだけどね」
「アナタは『それ』に関係無く、どうでもいいんでしょうが」
「クレアさんだって、『そう』でしょ?」
「ワタシだってね、あの娘たちが……」
クレアは大仰にため息をついた。
「ま、いいわ。その内にアナタを共犯にしてみせるから」
「いや、共犯って……あたしの全てはとっくにクレアさんのものなのよ」
ベルに『素因』を探させ、リアにマリアとしての『お役目』を、早い段階で果たさせるように仕向ける。そのために最初の取り決めを破ってまで二人を地上へと降ろした。
「そういえばさ、クレアさん。ラムにいろいろ話しちゃったのね」
通り過ぎる人波を眺めながら、クレアは曖昧に頷いた。
「どうして急にそんなことを?」
「んー、どうしてってこともないんだけれど、ワタシたち以外にも本当のことを知っていてもいいんじゃないかって思ったのよ」
「それでラムに?」
「あの娘なら知っててもいいでしょう?」
時を渡る術を失ったとはいえ、ラムリュアの存在はかなり微妙である。イレギュラーも同然ではあるが、彼女の存在だけで誰にも予想しえない、新たな未来への可能性も常に残るのだ。
「『素因』か……」
夜空を見上げながらクレアは、いつかの温泉旅行と全く同じ口調で呟いた。
「どうしたのよ、いきなり?」
「うん? うん、貴也と、それにジゼルって娘の可能性ってなんなのかしらって思ったのよ」
「ああ、そのことね」
納得いったかのように頷く。思えば温泉旅行からずっと、『素因』英貴也の可能性を考えていたのかもしれない。
『素因』とはもちろん、ある条件が整った――例えば、ベルは当初街頭アンケートでそれを探していた――特定の個人を指す。が、だからと言ってその性質までが同じだとは限らない。マリアの為の『素因』はたった一人しかいない。『素因』であれば誰でも良いというわけではないのである。
それは貴也かもしれないし、違うかもしれない。まだ登場していない『誰か』なのかもしれない。それは誰にも――マリアにもわからないことなのだ。
『聖母』が『光の子』を生むための『素因』。
それは可能性である。
人類という種族において、もっとも進化する個体となる可能性を秘めた者。地球動物相の円環を踏み出せる、もっとも完成された因子を持つ者。その者とリアが出逢い、互いに愛し愛されそうすることで真に彼女は『聖母』となる。
そして、『光の子』が誕生する。
これは――この『お役目』だけはプログラムではない。他の天使堕天使たちが持つ『お役目』は全てプログラムされた物だが、リアのそれだけは違う。リアと『素因』が自分たち自身でそうすることを決めなければならない。
そしてそれ以外の『素因』たちは可能性。
最後の審判を乗り越えられるということ。
良い機会を活かせるのだということ。
自分たち自身の手で未来を築けるのだということ。
可能性。
それこそが『素因』。
だから、今も誰に知られることも無くベスティアではない人間を探し、『素因』を――その可能性を増やそうとしている。らしくないとメルキュールは言うが、それ以外にみんなが幸せになる方法も無い。
実のところ、クレアリデルにとって人類の行く末は二の次なのだ。リガルード『人』は、人類が宇宙全体にとって有害である因子を克服できずにいるのなら、『最後の審判』で全て滅ぼし、人類発生の段階からやり直せと、そうでないのなら未来へと導くことを命じている。『最後の審判』とはその為の機会である。だが、クレアリデルは違う。妹たちが悲しい思いをしなくてもすむように、過ぎ去った時間を取り戻せるのなら、その過程や結果として人類を未来へと導こうとしているのだ。
あるいは結末は同じかもしれないが、両者の思惑はまるで違うものである。
ある意味においては、リガルード『人』への反逆にすら等しいのだ。
それでも、メルキュールならばクレアリデルの思惑を知っても、――いや、知らないはずは無いのだ。その上で一緒に堕ちていってもくれるし、最後まで付き合ってもくれるのだと信じている。
「ね、食事でもしていかない?」
「一見さんは断られるんじゃない?」
メルが危惧する通り、この町では特にそうだ。
「大丈夫、いい店を知ってるのよ」
「……つまり、クレアさんて、何度も京都に来たことがあるのね……」
こうして、夜の京の町に二人の姿は消えていった。
わたしの未来
そしてクレアリデルは轟沈した。
「も〜、いくらなんでも呑み過ぎよ」
京の街ではしごした料亭や居酒屋を思い出し、メルは暗澹たるため息をついた。
「……少しは加減するべきだったかしらね……」
「冷静に酔っ払わないでよ……」
口調はしっかりしているが、クレアの顔は蒼白であり、メルが手を貸さなければまともに歩くこともままならないほど泥酔している。
「こお〜ら〜、クレアリデルお姉様のお帰りよ〜」
メルのツッコミを無視して、周囲の迷惑など考えずに、クレアは玄関のドアを叩く。もっとも、深夜の騒音を気にするご近所は、英荘の周囲千数百メートルには存在しない。むしろ住人が被害を受けていた。
「も〜、またクレア姉さんなの、まだ真夜中じゃないの〜」
「なに? なんなの? いったいなにがあったの?」
「うるさーい、クレア! 勉強ができないじゃないの!」
ぞろぞろと玄関に集まってくる、ベル、リア、ミリの三人。貴也とラムは夜間のアルバイトに出かけていてまだ帰っていない。セフィはこのくらいでは起きてこない。
「あ、フォル姉さん、クレア姉さんが帰ってきたの?」
そしてフォルシーニアは真っ先に玄関先に来ていた。
「リア、――ベルにミリも、みんな起きてきたのですか?」
「だって、うるさいんだもの」
四人の視線が玄関に集まる。その間もクレアは外で騒いでいる。
「……そうですね……、
あ、クレア姉様はわたしが見ますからみんなはもう休みなさい。三人とも明日も学校でしょう?」
正確にはすでに今日なのだが、三人は顔を見合わせクレアが乱打するドアを見やった。
「さあ、もうお休みなさい。メルさんもご一緒のはずですから心配しないで」
「うん、それじゃあ、アタシたちはもう寝るね」
「ミリ?」
「ミリちゃん!」
この場に留まろうとする二人の背中をぐいぐい押してミリは部屋へと戻ろうとする。その強引な真剣さに二人はろくに抵抗もできない。
「あ、あの、おやすみなさい。フォル姉様〜」
「おやすみなさ〜い、姉さん」
いつもみんなに気を配りながら、それでも心配をかけまいとしているフォルシーニアを知っているから、サダルメルクにもサダクビアにも会ってしまった以上、ミリは自分たちが彼女の負担や不安にはなりたくなかった。
ミリたちに「おやすみなさい」とそう言って、見えなくなってからフォルは玄関へと向かった。
「クレア姉様、今開けますからね」
「フォ〜ル〜」
開けるなり、クレアはフォルを抱きしめた。
「クレア姉様? いったいどうなさったのですか?」
幼子のようにフォルの胸に頬ずりしつつ、
「フォルシーニア?」
「はい」
「サダルスード?」
「はい」
「よかったあ〜」
彼女の胸に顔をうずめ、安心しきってその場に座り込んでしまった。
「クレア姉様、しっかりなさってくださいな」
――クレアさん……。クレアさんにとっては妹たちが一番なのね……。
――あたしがこんなに愛しているのに――
嫉妬にすら似た目でメルはフォルシーニアを見つめる。
無限にすら近しい時を二人で過ごしてきたのに、自分たちにはお互いしかいないというのに、それなのに自分にはこんな風に甘えてくれたことはなかったのに、と。
さいわいフォルシーニアはそれには気付かなかった。
「もう、クレア姉様、風邪をひいてしまいますよ。お部屋でお休みくださいな」
「フォルが運んでくれなくちゃ、いやよ」
「困ったクレア姉様ね……」
駄々っ子を甘やかす母親のようにクレアを支えて立ち上がろうとすると、メルが彼女をお姫さまだっこして、さっさと二階の六号室へと向かって行く。フォルシーニアへの嫉妬がそうさせたのだ。呆気に取られながらもフォルもそれに続いた。
「着いたわよ、クレアさん」
無造作にクレアを床に落とすと、悪態をつこうとする彼女を遮って、その唇を奪った。
恋人のキス。
強引にクレアの唇を割り、舌を侵入させると、口内をくまなく舐め回す。さらに舌を絡め取り唇で軽くはむ。何度も何度も、繰り返し甘噛みする。やがてクレアの手足から力が抜け、瞳も虚ろになり、どこまでも――
――落ちては行かなかった。
危ういところで我に帰り、クレアの瞳に光が戻った瞬間、メルは身を引いていた。
一部始終を見ていたフォルシーニアなどは、完全に停止していた。
「こらメル! 待ちなさい!」
「やーよ、えへへ、ごちそうさまクレアさん! おっやすみー」
クレアの声を背中に受け、自分の部屋へと戻って行った。
「おやすみのキス……ですよね。今の……」
取り残されたフォルは呆然と言った。
「そ、そーよ、フォルシーニア」
クレアの声はやたらと平板で、心なしひきつっている。
「わたしにはしてくれませんでした……」
完全に勘違いして、フォルは沈んだ表情で言った。
「はいはい、姉さんがいくらでもしてあげるから、もう寝ましょ?」
口元を拭い、フォルの頬に軽くくちづける。
「おやすみ、フォル」
「おやすみなさい、クレア姉様」
クレアは深く深くため息をついた。
しかし、フォルシーニアが笑顔を見せるのならば、それはそれでよかった。
ベル 「あたしは運命の赤い糸なんて信じていなかった」
ラオール「オレは生まれた時から決まっている運命なんて信じてなかった」
ラム 『運命はボクには敵でしかなかった』
次回、『運命を繋ぐ糸』ご期待ください。