『オペラ座の怪人』
学園祭初日を十日後に控え、私立第二聖城学園は静かな喧騒に包まれていた。
今年は学園創立からちょうど五〇周年を迎えるにあたり、それを記念してイベント好きな職員を筆頭に、学園側もあらゆる学園行事に力を入れているのである。さらには各クラス、各部や同好会の出し物に学園公認で生徒の人気投票が行われ、最多得票を得た出し物の主催者側へは、追加予算や追加の単位が認められるなど、何かしらの賞品が出るとの噂も流れ出したのである。学園側――主に率先して学園長自身がその火に油を注いだのである。
もしくは、ちょっとしたシャレのつもりで始めたことが、誰も彼もがそれを止めること無く、引くに引けずに混沌の坂道を行きつく所まで転がり落ちたとも言う。結果、同好会や学園非公認団体、弱小ゲリラ部は俄然いろめきだった。中には授業そっちのけで準備にいそしむ者もいるほどである。が、それを差し引いても例年に無い異様なまでの盛り上がりを見せていた。
「ただいまー。買い出し行って来たわよー」
光、玲、ベル、リアの四人はスーパーやコンビニの袋を山ほど抱えて戻って来た。
時刻は午後二時を過ぎたところ。本来ならば午後の授業の時間だが、学園祭初日二週間前から授業は午前中のみとなっている。こんな所からも学園側の本気を垣間見ることもできる。
単に出席率が目に見えて落ちるからだとも言われている。
ここは、すでに使用されなくなって久しい旧校舎のはずれ、――多分、元は生徒会室。光たちが所属する文芸部の部室である。――と言っても、部に昇格できたのはほんの半年ほど前のことで、それまでは同好会として細々と活動していたのだ。そんな所にいくら部に昇格したといってもすぐに新しい部室を用意されるはずも無く、正規の部室が決定するまでは(それがいつになるかはともかく)これまでのように数多の同好会同様、旧校舎の空き部屋を占拠し続けているのである。
「ああ、おかえり、ご苦労さん」
顔も上げずに、文芸部の出し物の映画上映でカメラ担当の泉本が、山ほどあるフィルムやコピー、撮影風景を写した制作資料のスチールを整理しながら、軽く片手だけ挙げて答える。
四人はそれぞれ、持ってきた荷物を取り出し選り分け始める。分類したそれを今度は冷蔵庫や年代物のチェストなどにしまう。どれもこれもかつての先輩たちが人にはとても言えないルートで持ち込んだ物だ。はっきり言って生徒会から割り当てられる部室よりも設備は充実している。実は正規の部室なんて無くてもいいんじゃないのかしら? などと考えつつ、その片手間に光は訊いた。
「ねえ、他のみんなは?」
部屋には泉本一人しかいない。出かける前にはもう三人ぐらいはいたはずの他の部員や助っ人たちが見当たらない。
「アニメーションの方が遅れそうなんだと。部長はその交渉に行ってる。先輩たちはロケハンで学校中うろうろしてるはず。あと、天宮は倉田連れて資料探し」
「遅れるってどれくらい?」
個人的に買ってきた紅茶――定番のアールグレイの缶を戸棚にしまい、その隣に貼ってある予定表の今日の日付を指で追う。
書き込みと修正だらけの予定表には、午後三時からアフレコ開始となっている。もっとも、当初の予定では昨日にはフィルムは完成していることになっているのだが、藤原部長に言わせれば、多少の遅れも予定のうちである。
そもそも、最初から遅れることを前提にしてタイムスケジュールも組まれているのだ。
「スタジオの予約、取りそこねたんだそうだ」
「ふ〜ん」
あっさりと致命的なことを言ってのけた泉本に、玲、ベル、リアの三人は一斉に振り向いた。アフレコのために録音スタジオは必須である。他にも自主制作映画や、アニメ研、映研などのアフレコやダビングなどで予約は詰まっているのだ。日数に余裕があっても、スタジオを借りられなければ意味は無いのだ。しかし、光だけは反応が無い。予定表をさらに指で追っている。
壁に掛けてある、天宮が個人的に持ちこんだ二十四時間時計の長針が、かちりと音を立てて動いた。
「なんですってー!?」
ようやく彼女は振り向いた。
『反応が遅い!』
全員からツッコミが入る。
「そんなことより、どうするのよ!」
しかし、泉本は落ち着き払って、再び作業に没頭する。
「だからさ、今、部長が放送部と生徒会に掛け合いに行ってるよ」
「藤原さんが……?」
と、突然凄い勢いでドアが開けられた。その音に一同が振り返れば、そこにはタイミングよく、たった今話題になっていた藤原和泉部長が立っていた。しかし、その身体から不機嫌オーラを発する彼女はものも言わずまっすぐ部屋を横切り、わざわざ窓際の日当たりのいい場所に移動させた自分の机に座った。
何となく声が掛けにくい。――と言うよりも、見たまま不機嫌な部長の逆鱗に、へたに触れるようなことはしたくないのだ。
お互いの顔を見合わす。付き合いの浅いベルとリアには何のことだかよく分からずにきょとんとしている。が、光、玲、泉本の三人はよく分かっている。視線だけで善後策――ようするに声を掛ける役を押し付けあっている。
――かなり、機嫌悪そうだが……、
泉本はモールス信号のような目配せだけで光と玲を見やる。二人もその動きに不用意に肩をすくめたりせず、やはり、視線だけで返す。
――予約、取れなかったのかしら?
背中に感じる部長の気配をなるべく無視して……いると見てない間に飛びかかって来そうなので、そちらにも充分に意識を割いておきながら光は二人を見つめ返した。
玲はこっそりとため息をつく。それでも部長を見ようともしない。いや、もちろん視界の隅にかろうじて捉えてはいる。歯止めを無くしたり、見境が無くなったりした時の彼女の恐ろしさ――と言うか面倒臭さは身に染みている。そうなったら自分が止めなければならないことを玲は分かっているのだ。
猛獣の檻にいるのはこんな気分かしら? などと、あまり場違いで無いことを考えながら光は無言で二人に問いかける。その視線に泉本と玲は顔を見合わせる。こうやって顔を突き合わせていても何の解決にもならないのだ。交渉の結果を聞かなくてはならないのだ。
――ああやって、不機嫌なオーラを撒き散らしていると、あえて訊くまでも無いような気もするがな。
視線でそう語る玲と泉本に、反射的に肩をすくめそうになって、光は強引に肩の動きを止めた。
はからずも、あるいは示し合わせたように、視線が三つ絡まる。
「………………」
「………………」
「………………」
三人の間にある緊張がどんどん高まる。このままでは何か取り返しのつかないような事態になる。その類の緊張である。が、それは不意に途切れた。泉本が迂闊にも部長の方を窺ってしまったのだ。しかも悪いことは重なるもので、ちょうどそのタイミングで藤原も視線を上げたのだ。同時に目が合う。しかも部長の目はそこから続くであろう言葉を何気に促している。
反射的に否定しそうになるのをなんとか意志の力で抑える。
瞬間的に彼が思ったのは、まさに生命の危機であった。
大袈裟と言う無かれ、本気と書いてマジなのである。
藤原和泉。
私立聖城第二学園高等部三年生。この学園祭を最後に引退する、文芸部の現役部長である。さらに柳生新陰流の正統伝承者を自称。成績は学年でも常に上位、スポーツはほぼ万能。家柄に関しても特に問題は無し。加えて街ですれ違って振り返らなければ、石を投げられそうなほどに見目麗しい。と、ここまでならそれなりの完璧超人なのだが、彼女を一言で言い表せば、既知外。
二言で言っても、凄い既知外。
もしそれが放送コードに触れるなら、紙一重。
倫理審査に引っ掛からない表現なら、くるくるぱー。
何と言うか、彼女の行動基準や価値観は世間一般のそれからはずいぶんとかけ離れているのだ。例えるなら天才と凡人くらいかけ離れている。しかも『アレ』が刃物を振り回している方にかなり傾いている。へたをすれば確信犯の愉快犯。一般常識は無きにしもあらずという程度である。
ちらりと泉本は二人を見やる。神速で嫌そうな顔をして視線を外されてしまった。
――うわ、こいつら人情が無え。
「え、えーと……交渉はどうだったでしょうか?」
低姿勢で卑屈に訊ねる。
――かえって逆鱗に触れそうだなあ……。
光はそうは思ったが、わざわざ口に出して事を荒立てるようなまねはしない。それは玲も同じである。誰だって命は惜しいのだ。
「おのれ! 生徒会長真島! 人の足下見て!!」
生徒会長を務める真島真吾は、彼女の昔からの幼馴染みのはずだが、こうなってはすでに敵意の対象である。
「それじゃあ、予約は取れなかったんですか……?」
それまでずっと、無言のやり取りを見ていた、彼女の恐ろしさをまだよく分かってないベルが割って入る。
「ううん、予約は取れたわよ」
あっさりと彼女は言った。あまりのあっさりした言い様にみんなは肩透かしを食らったように足を滑らしたり、突っ伏したりしている。泉本などはせっかく整理した資料をぶちまけてしまったほどである。
「使えるのはあさって一日――と言っても午前九時から午後四時まで、だから、アニメの方はアフレコとか、他にもスタジオ使ってできることは、全部その日に済ませることになるわね」
スケジュール表の近くにいた光が、どうやら穏便に済みそうだとこっそり胸を撫で下ろしながら、早速予定を書きかえる。すでに書き込みだらけになっているので、適当にメモ用紙を取ってそこに書き付け、貼り付ける。
「その日は映画の方のロケもあるけど……」
「屋内? 屋外? どこのシーンだったけ?」
天候に左右されない、なおかつ屋内のシーンなら撮影に昼夜は問わない。
「ん……と、『呪われたファウスト』のシーンです」
「また、面倒な……」
そうは言っても、『呪われたファウスト』は重要な見せ場の一つである。キャンセルできるようなシーンではない。
彼女はそろそろおさまりの悪くなりつつある髪をかき回し、無線研究会の友人に頼み込んで造ってもらった、センスと言うか正気を疑いたくなるような多目的ハンディトーキー――通称『ウサ耳ヘッドセット』を取り出した。名前の由来でもある、左右に一本ずつあるウサギの耳に似た太いアンテナ。その右耳の根元に寄り添うようにある小さな突起を開き、その中のテンキーを指でなぞる。
「体育館か、講堂か……今日使ってるのはどこだったかなあ……」
玲がどこからかコピー用紙の束を取り出し、その中の数枚を部長に渡す。サンキュ、と彼女は受け取りざっと目を通す。いったいどこから手に入れたのか、それは生徒会役員にのみ配布されている各クラブや委員会、団体の学園施設の使用予定表である。その中の一枚、体育館の使用スケジュール表を指で追う。
今日の日付で午後の欄を目で追う。
空白である。
もう一度日付と場所を確認した。――やはり空白である。つまり、今日の午後からは誰も、どこの団体も体育館のステージを使っていないのである。
部長がにんまりと下品に笑う。それさえもが似合っているような気がする。コールしかけたナンバーをキャンセルし、直通回線をつなぐ。待つまでもなく相手が出た。
「こちら大本営……有吾? 今どこにいるの? え、ホント、ナイス! 今すぐ体育館のステージ押さえておいて、スタッフ召集したら、すぐ『呪われたファウスト』の撮影始めるから……、え? うん、そう、そう、いいからすぐに行って、事情ならあとで説明したげるから!
……じゃあ、午後三時に……いえ、三時ちょうどには始めるから……はい、じゃあ」
ベルとリアを除く三人はさすがに慣れたもので、その後もさらに何ヶ所かに連絡を取る彼女の通信が終わる頃には、主要な役者――主に演劇部と人材派遣クラブから借り出した――やこちらは自前のスタッフに連絡を取り身柄を確保していた。
「さて、連絡が取れないのは誰?」
必要な荷物――謎のウサ耳やシナリオコピー、筆記用具などを自分のバッグに放り込みながら部長は訊いた。
「天宮と倉田です」
答える泉本の手にする携帯電話からは、お決まりの『電波の届かない所にいる』メッセージがエンドレスで流れている。彼女は自分のトーキーでも試してみるが結果は同じである。
――出ない。
見かけは謎のウサ耳でも中身は無線研究会の技術と意地と趣味の結晶である。不必要と言うかバカバカしいほどに強力な代物である。たかが携帯電話の電波ぐらいなら多少エリアを外れていようと、問答無用で受信できるし割り込むこともできる。
非常召集をかける場合もあるのであの二人が携帯電話の電源を切っていることも考えにくい。彼女は思案顔のまま、それが自分のクセだと自覚している、右手の人差し指の第一関節と第二関節の間を軽く噛んだ。つまらない、無くてもいいようなただのクセだと分かってはいても、そのじんわりとした痛みが思考を明晰にし、脳を冴え渡らせているような気がするのだ。
「そういや訊きそびれたが、あの二人はどこまで資料探しに行ったんだ?」
いったい何処から引っ張って来たのか、野戦用通信セットのトーキーを手にしたまま、現実的に玲が泉本に訊く。
「たしか……大学部の資料室と旧図書館に行くって言ってたかな……」
「……そうか」
「そうかじゃないわよ。旧図書館って思いっきり携帯の圏外じゃない。それじゃ連絡なんてつくはずないじゃない、それに、あそこは……たしか磁場が悪いとか、変な電波が放射されてるとかって、大学部の研究室でもお手上げじゃなかった?」
旧図書館。
端的には本の異世界。
それはこの手の物語の常として広大過ぎる地下迷宮としてその名を馳せていた。バカバカしいまでに建物自体が巨大であり、しかも内部といわず外部といわず増改築に増改築を重ね、今ではやたらと複雑怪奇な構造になっているのだ。しかも、年中無休で原因不明の異常現象と超常現象と怪奇現象のオンパレードなのである。そして今、そこにいるのは天然系のお嬢さんとクールに振る舞おうとするくせに微妙にセンスが斜め上の方にズレた超ヲタク女である。
一同は自然に顔を見合わせた。
「……仕方ないわ。橘くんと御門で二人を探してきて、――ただし、二重遭難は避けたいから時間の方を優先すること、最悪、二人が見つからなくても撮影を始める頃には帰ってきて。……いいわね?」
二人はこくりと頷いた。
はっきり言えば、天宮と倉田は光と同じ脚本・演出担当である。撮影が始まってしまえば、常に三人とも必要な事態はあまりない。が、少数精鋭で複数のスケジュールを同時に進めているのだ。人員は一人でも多く必要なのだ。
「よし、と。――それじゃあ、時間になったら現地集合ということで」
そう宣言して部長は立ちあがると自分のロッカーを開けた。
「私、ちょっと用事あるから……」
そう言ってロッカーから取り出したのは、一振りのかなり大振りな木刀である。
「ええと……念のために訊いておきたいんですけれど……、部長はそんなもの持ってどこ行くんですか?」
うかつにも光は訊いてしまった。訊きながら、まるで内戦か宗教戦争ばかりしているどこかの国の最前線にいるような錯覚に陥っていた。
――どちらも行ったことは無いが。
「もちろん生徒会室よ」
明朗快活に答えるが、その顔には寒気すら覚える、口の端が吊り上ったアルカイックスマイルが浮かんでいる。
手のひらがイヤな感じの汗でじっとりしている。
――残暑まだ厳しいものね。
何気に現実逃避モードに入りそうになる。
視界の端に映る玲が微妙に立ち位置を変えている。
――ああ……また、乱闘になるのかしら……。
光は絶望的に呻いた。
「で、何をしに行くんだ?」
「真島を叩き伏せに決まってるわ」
玲の問いかけに微塵の迷いも無く言った。しかも喉の奥で低く笑いながら。
うなじがちりちりするのは気のせいだろうか?
たぶん、気のせいではない。
「……誰が?」
泉本が絞り出すように言った。
「私が」
藤原はあっさりそう返すと、ロッカーを閉め、カギを掛けそのカギをスカートのポケットに落とす。
「あのう……そんなことをして問題にならないんですか?」
これは最近、諸々のゲームにどっぷりとはまっているベル。それはともかく、しかし藤原からは何の反応も無い。
「聞こえなかったのかな?」
リアがおずおずといった感じで口を開く。
もちろんそんな訳は無い。ただ単に都合の悪いことを認識していないだけなのだ。
顔を見合わせ、もう一度、リアが口を開こうとすると、彼女は振り返り言った。
「大丈夫、正義は私にあるから」
嘘八百をきっぱり言い切った。
――どの口がそれを言うかな。
と、思わず心の中だけで光は突っ込んでしまった。
いや、ベルとリアを除けば思うことはみんな同じなのだが、つい光だけが遅れてしまった。
木刀を握り直すとバッグを肩に掛け彼女は行こうとする。もはや、こうなっては手段を選んではいられない。手遅れとなる前に力ずくでも彼女を止めなければならない。玲は一瞬出遅れてしまった光を横目で確認してから、意を決して彼女を取り押さえにかかった。
「なに?」
目の前に立ちはだかった玲を部長は怪訝そうに見るが、彼はそんなことなどおかまいなしに、意味ありげにどこかを適当に指差し部長の視線がそちらに行った瞬間、玲は問答無用で部長の延髄目掛けて手刀を振り下ろす。が、彼女はそのまま一歩後退して間合いをはずし、退った勢いを利用して身体を回転させて、手にした木刀で横薙ぎの一撃を繰り出す。それを玲は身を沈めてかわし懐にもぐり込むと至近距離から下あごを掠めるように掌底を打つ。スウェーバックする部長の動きは若干遅い。直撃するかと思われたそれはしかし彼女の頬を掠めただけだった。真下からの突き上げる一撃は身体を反らすことで突き出されてしまった胸に邪魔され狙いが逸れたのだ。一瞬とはいえ身体が伸び切ることで玲にスキができた。それを逃さず一撃を繰り出すがあっさり迎撃され、その間合いからしばしゼロ距離での立ち合いを繰り広げる。木刀のリーチを利用できない部長が若干不利か。
次第に二人の動きは少なくなり、間合いも広がり、散発的に小技を繰り出し、互いの手の内を探り合う心理戦の様相を呈してきた。それを埒が開かぬと見た玲は即座に打撃戦に切り替えた。例によって強打して気絶や脳震盪で穏便に済ませそうになかった。
――仕方ないか、死んでくれるなよ。
互いの身体が離れる一瞬を狙い右ストレートを撃つ。が、部長もそれと同時に右ストレートを放った。互いのそれを左手でブロックし、防御のためにわずかにできたスキを狙いスカートも気にせず、すかさず部長がミドルキックを放つ。だが、そのスキこそが誘いである。玲はそれを冷静に足でブロックする。そして蹴り足が戻るタイミングに合わせ彼も蹴りを放つ。が、玲がそうしたように彼女も足でそれを受け止めた。彼としては片方でも腕を使わせこの均衡を破りたかったのだがすっかり読まれているようだ。両者の攻防は完全に膠着してしまった。いまだ互いの両腕はその攻撃を受け止め、なお押し切ろうとしているし、両脚は繰り出されるであろう攻撃を予想し、それを牽制している。
実際のところ、彼をして防御させるという、それだけでもう充分に達人クラスである。
――仕方ない。
玲は全開ではないが、少しだけ、本気になることにした。
スカウターがあれば、その数値が瞬時に振り切れる程度に。
それを察した光は泉本と頷き合うと両側から回り込み、二人がかりで強引に彼女を取り押さえにかかった。
「ええーい! おはなし! はなしなさい!!」
さすがに多勢に無勢である。一対一で全能力を結集させるのなら彼女は玲に匹敵する実力の持ち主だが、それはあくまでも一対一で最高のコンディションであるのなら。対『橘玲』に全神経と全能力を集中させていればこそである。そうでもなければ諸々の設定上最強の能力を有し、戦闘能力を示すパワーゲージが測定不能を示す彼に匹敵まで持っていけるはずも無い。もちろん、互角に打ち合えたからと言っても、打ち倒すことが至難――と言うか不可能であることには変わりないのだが。
ともかく、それ故に彼に全神経を集中したままではあとの二人の対処まではできるはずも無く、背後から泉本にがっしりと組みつかれ、あっさりと取り押さえられてしまった。
「……止めた方がいいのかな、ねえ、ベル?」
「う〜ん……どうかな……?」
すっかり展開において行かれた二人は、ただただ頭をひねるばかりである。
「いいかげんにはなしなさい! この籠釣瓶にあいつの血を吸わせないと気がすまないのよ!」
「籠釣瓶って……村正だと! なんでそんなヤバイものを!!」
「おお、この銘を知っているとはさすが橘くんねぇ――それでは、ご期待にこたえ、ちょっとだけ披露を……、
――とりゃ!」
気抜けた掛け声と共に木刀の柄を握り鞘払うように右手を振るった。
瞬間、何の脈絡も無く不吉な予感に駆られ、右手側にいた光は全力で身を沈めた。直後、頭上を白銀の光が通過して行く。
なんと、それは刃渡り三尺はあろうかという真剣である。
知っての通り、村正の銘を持つ刀は徳川に災いをなすとされ家康公に忌み嫌われた妖刀である。以来、徳川家に祟るとされ一身にその憎悪を受け続けたのである。さらに徳川家に仇なそうとする者たちの、徳川家に対する憎悪をも受け取り続けたのである。あるいはいかに稀代の銘刀であってもただの刀でしかなかったそれは、人の憎悪を受けるあまり、もはや妖刀としか呼べぬモノへとなっていたのである。
特に籠釣瓶と呼ばれるそれは同じ村正であっても相当に非常識な切れ味をしていた。なかでも妙法村正と呼ばれるそれは、名工千子村正が人外――異形や魔物、妖怪の類を斬る目的で鍛えた業物である。その刀身は妖しく輝き、本来それが見えない者にまで殺戮のオーラが見えるような錯覚に陥らせていた。
「とめよう、ベル!」
「うん!」
あまりの物凄まじい妖気に二人が頷きあった瞬間、玲たちの背後にある窓が開き人影が飛び込んで来た。その人影はもの凄い速さで室内に飛び込み、部長の背後に回り込むと手にしていた液体のたっぷり詰まった一斗缶の角を彼女の後頭部に叩きつけた。さらにセーラー服とは似合わないショルダーホルスターから改造エアガン――ベレッタM93R――を抜き放ち、たった今一斗缶を叩きつけた後頭部に至近距離からフルオートで弾丸を叩き込む。三十九発のBB弾がサブマシンガンなみの連射で吐き出される。その一連の攻撃で部長はくたりとその場に崩れ落ちた。と言うか昏倒した。すかさず伏せていた光が籠釣瓶を取り上げ鞘に戻す。泉本と玲が崩れた部長を支え手近のイスに座らせた。
「なに、なんの騒ぎ……って見たら分かるんだけれどね」
ため息まじりに籠釣瓶を見やりながら、セーラー服の彼女――天宮麻帆は言った。
「サンクス。助かったわ。
……でも、一斗缶の角はやりすぎじゃない?」
トドメとばかりに撃ち込んだエアガンはあえて無視。おそらくは自分でもそうしたのだと思う。天宮はまるで気にもせずに撃ち尽くしたマガジンを落として、ポーチから取り出した新たなマガジンを装填している。
「はい、どういたしましてって、そう? 笑いを取るのには昔からの伝統だけど?」
「昔からって……、いや、笑いを取ってどうするのよ……」
「まあ、それはともかく、――で、この部長どうする? 思いっきり気絶させちゃったけど?」
気絶と天宮は言うが、当の藤原は白目を剥いて割と危険な具合に痙攣していたりする。
「う〜〜ん……そうねえ……」
と、窓の外から天宮を呼ぶ声がした。
「せんぱ〜い、だいじょーぶですかー?」
「忘れてた、久美ちゃんもいるんだった」
自前の暑苦しい古風な感じのセーラー服をひるがえし、天宮は窓へと歩みより、そこから上半身を乗り出した。長い髪がさらりと肩から滑り落ちる。
「何でもなかったよ。久美ちゃんも早く中へおいで」
「はーい」
と、元気のいい返事を残して、こちらは窓を乗り越えたりせず、正面昇降口へとぱたぱたと走って行った。それを見送り壁際に投げ出した、通称『ヒトラーのギロチン』と自分の荷物を引き上げる。
「で、ホントにどうしよっか?」
腰に手を当てて「これ」と部長を顎でさす。が、玲と光は同時に肩をすくめた。
「あっそ、泉本は?」
「う〜ん……そうだな、鎖かなんかでがんじがらめに縛り上げて、ロッカーにでも閉じ込めてフタを溶接して、そのまま例の『開かずの間』か旧図書館にでも放り込んで、それで永久封印てのはどうだ」
「なかなかイイ感じに念がいってるけど……たぶん、もっとヤバくなって出てくるわよ」
何十年だかして、嵐と落雷の下に封印を解かれ、魔王として学園に君臨する藤原和泉の姿を想像してしまった。
妙にリアリティというか、なんとも否定し難い説得力がある。
二人は同時にため息をついた。
相応に歴史と伝統のある学校の常として、校舎を始めとして敷地内の各所にはオカルトなネタや伝説、怪談の類には事欠かない。お約束の六つしかない七不思議どころか『開かずの間』や学校の怪談が、それこそゴールデンタイムの特番が組めるくらいに連綿と語り継がれている。
が、もはや聖城学園のラスボスとして生ける伝説となった藤原和泉嬢に、いまさら開かずの間程度で対抗できるとも思えない。
「……そちらのお嬢さんたちはどう?」
突然指名され、どう答えるべきか二人は困惑した。リアは恥ずかしげにうつむき、ベルはうんうんと唸っている。
やがて、おずおずとベルが言った。
「……保健室に運ぶというのはどうですか?」
しごくまっとうな意見に沈黙し、
「結局……それが一番無難なのよね」
はあ、と四人は揃ってため息をついた。
「なにが一番なんですか?」
ずいぶんと大きな荷物を引きずるようにして、倉田久美子は戻ってきた。
「あ、久美ちゃん、遅かったね」
「だあって、センパイったらせっかく見つけた資料とか、置いてっちゃうんだもん」
「ああ、そうか、ありがとう久美ちゃん」
天宮は優しい笑顔で素直に礼を言った。ついさっき、部長を秒殺した姿と、今のその素直さ。そのギャップがずいぶんと可笑しい。
「……ところで、部長さん、どうしたんですか?」
さっきまではビクビクと痙攣していたはずなのに、すでに何やらヤバイ雰囲気で机に突っ伏して、その姿勢のままぴくりともしない。
天宮は答えを返すかわりにただ、肩をすくめた。
「貧血だって」
天宮に代わってため息まじりにそうごまかしながら、光は部長のスカートのポケットを探る。指先に触れる金属の感触。ロッカーのカギを取り出すと、それでカギを開けて籠釣瓶を中へ戻す。再びカギを掛け直し、そのカギをどうしようかと迷う。一瞬もろともに処分した方が……とも思ったが後々のことを考えるとそっと部長のスカートへ返した。それがもっとも怪しまれず、荒立てない無難な選択だ。
「それじゃ、さっさと運んじゃいましょ」
「で、何が見つかったんだ」
光とベルが部長を支えて保健室へと行くのを確かめてから、玲は天宮に向き直った。久美子が引きずるズタ袋はかなりの重量があるようで、いくら彼女が比較的非力だとはいえ、わずかに持ち上げることしかできないのだ。胡散臭げにズタ袋を見るとそれと同じ種類の視線を天宮へと向ける。
「いろいろ」
彼女は即答する。何がそんなに嬉しいのかにこにことして袋から中身を取り出す。出てくるのはどれも古臭い本ばかりで、しかも古すぎて解読しないとろくに読めもしない。その中の一冊を手に取ると、ぱらぱらとめくって見る。案の定ろくに意味の分かる部分が無い。しかも漢文だ。漢字の読み自体はそれほど難しいものではないし、玲自身もかなり読める方だ。部首などが同系統の漢字は同じ読みの場合が多いからそれを覚えればかなり読める。意味にしても部首などから推察もできる。しかし、それが書かれた年代も分からないような古い物となれば話は別だ。現代とはあまりに形が違いすぎる上に、現代社会で使用するそれとは意味そのものが異なっていたりもする。それでも読める範囲の漢字を無理矢理に繋げて読んでみるが、何か正魔道からも外れたような魔道書っぽい。別の一冊を手に取る。本というかいわゆる巻物だ。しかも何気に動物の皮製。中身を見ることもせずすっぱりと読むのを諦めた。さらに和綴じにした別の一冊を手に取る。写本らしいがそれでもかなり古く、所々かすれているが、ぱらぱらと流して見るとどうやら剣術の指南書か目録らしい。もう一度表紙に目を戻しタイトルらしきものを確認する。薄くなってほとんど読み取れないが、かろうじて『陰流』とだけ読めた。
――陰流? どの陰流だ?
もっとも名の知れた柳生新陰流をはじめ総ての新陰流の源流は、上泉伊勢守信綱が開いたものであるが、さらに元をただせば上泉信綱が受け継いだものは殺人剣である表の兵法を打ち破る裏の兵法――すなわち陰流である。そこから裏の部分をあえて排除し、完成された法と術と技、活人剣としての新陰流を開いたのである。オリジナルの陰流自体は上泉信綱が切り捨てた裏の技の一部を隠密へと伝えるに止まり、その総てを後の世に伝えられることも無く、歴史の影から闇に消え去ったのである。写本とはいえ、もし、これがそうなら歴史上の大発見である。もちろん、こんな所においそれと『本物』があるとも思えない。あっさり写本を別の山に積み上げ、ため息のついでにふと横を見れば泉本がすっかり燃え尽きていた。新たに本を手に取る気力も無いようだ。
――ショックな物でも見つけたか……?
手に取っていたらしい和綴じの本の表紙には、『弥勒、根之魂』とある。
見なかったことにした。
さらにリアへと視線を転じれば、こちらは熱心にラテン語らしい遺物同然の本に目を通している。さらに何冊かを手に取りぱらぱらとめくる。
「読めるのか?」
「え? うん、少しだけど……」
リアが広げている本を覗き込んでみるが、玲にはそれがいかなる言語なのかすらも分からず、無感動に感心して見せた。
その間にもあのズタ袋のいったいどこに入っていたのか、古書や遺物はどんどん出てきてテーブルの一角を占領している。一見無造作に積み上げているように見えるが、大雑把に言語別、年代別に分けられているようだ。
「なあ、そのズタ袋も図書館で見つけたのか?」
「? そうだけど」
未来世界で開発される予定の、四次元に繋がる例のポケットと同じ類のアイテムなのかもしれない。
「どうせなら、便利道具を収納してる、世界征服マシンの方を発掘してくりゃよかったのによ」
「なんですか、それは?」
久美子が、かくんと首を傾げる。
「んー、そうねえ……、分かりやすく言うと、青いロボット」
「耳の無いネコ型の……」
「はい、ストップ。残念ながら、そうゆうのは無かったわ。
――だから、とりあえず、この四次元なんとかだけ」
玲は大仰にため息をついた。
「それで、これをどうする気だ」
「もちろん、資料」
迷いもせずに即答する。その姿は自信に満ち溢れ自分の行動に微塵も疑いを抱いていない。和服の似合いそうな、あっさり風な顔立ちは理想的な美人だが、小作りな顔には不釣合いな縁なし丸眼鏡が何もかも台無しにしている。クセのないおしりにまで届く丁寧に毛先をそろえたまっすぐな髪、それに落ち着いた(ように見える)物腰、女子にしては背も高く見栄えに文句の付けようも無い。その上成績優秀、運動神経も抜群とまできているのだが、その中身はもはや社会復帰不可能なまでに業の深いヲタク女である。ギャップの塊のようなこの女を「ばかだ、こいつ」と改めて再確認したが、その迷いや躊躇いの無さは、被害の及ばない距離から遠巻きに見ている分にはいっそ清々しいほどである。
しかし、それはそれ、これはこれ。すでに天宮真帆は、玲たちにとっては親しい隣人である。
「何の資料にする気だ、こいつを」
「いつかはどこかで何かの役に立つ」
一息に胸まで張って言い切った。
納得いくようないかないような、逡巡する複雑な表情を束の間だけ見せたかと思うと、すぐいつもの表情に戻り、口の中だけで取りあえずはと呟くなり、天宮の脳天にチョップを振り下ろした。げいん! となかなかに景気のいい音をさせてめり込む。
「ちょっとぉ、痛いじゃないの〜」
「やかましい。おかしなモンばっかり拾ってきやがって」
玲はにべも無く言い放つ。
「こんなモンはオカルト研か超現研か図書委員会にでも売っぱらってくりゃよかったんだ!」
どう見ても魔道書か呪術書の類にしか見えない一山に指を突き付け、いきなり復活した泉本が声を荒げる。
「それなら大丈夫」
またも無意味に自信満々に言い切って、光がよくするように人差し指をふりふりする。
「それはやめろ。その仕草だけはやめろ」
玲が完全に座っちゃった嫌な視線で天宮を睨みつける。殺気まじりのそれを「はいはい」と適当に受け流して、腰に手を当てバストを強調するように胸までそらせて彼女は口を開いた。
「良さそうなところはあたしとセンパイで、ぜ〜んぶ、超現研のみなさんに買ってきてもらいました〜」
しかし、天宮が開いた口から言葉を発するよりもわずかに早く、狙い澄ました完璧に絶妙のタイミングで口を挟んだ久美子にセリフの全てを奪われていた。
「わたしのセリフ……」
「あ、沈んだ」
一人で縦線の効果まで作って沈んで行く天宮に全く気付かずに、久美子はどう見ても彼女自身の身長とあまり変わらない長さの、なにやら細長い包みをどこからとも無く取り出すと「じゃじゃーん」と擬音付きで玲たち三人の眼前にそれを突き付けた。
三人はいったん顔を見合わせるとその包みに視線を戻し、さらに久美子のにこにこ顔に移す。それから、ことさらゆっくりと視線を包みへと戻した。元は濃い緑だったのだろうか、よくある風呂敷のような模様のある、どう見ても日本製としか見えない包み。重量も相応にあるらしく、両手で奉げ持つようにしている久美子の手も徐々に下がってきている。玲が一同を代表してそれを受け取った。
――意外に重いな。……まあ、当たり前か、久美子の身長と同じくらいの長さがあるんだからな。
と、思いはしてもそれを口に出しはしない。
「で、これが何だって?」
「はい! 超現研のみなさんが本の代金だって、これをくれたんです」
屈託の無い笑みを浮かべる久美子。床と同化しつつある天宮。そして布越しに硬い感触のある包みを、順繰りに猜疑心の塊みたいな視線で見つめた。傍らのリアがかなり嫌そうな視線を送ってくるが、あえて無視。
「……まあいい」
たぶん、よくないが絞り出すようにそれだけ言うと包みをほどきだした。口を結んである紐はほどくまでも無く、引っ張っただけでぼろぼろと崩れてしまった。かなり古い物らしい。倉庫の奥で忘れ去られていた物を押し付けられたんじゃないかと一抹の不安がよぎる。しかし、予想に反して出てきたのは一振りの剣だった。おそらくは日本刀なのだろうけれどまったく湾曲していないところを見ると、儀礼用の直刃の剣かもしれない。が、それにしては装飾の類も無ければ鍔も拵えも無い。いや、そもそもどんな刀剣の類だとしてもかなり長過ぎる。
「刀か……? 刀の名前は聞いてきたか?」
成り行きに任せていた泉本が、沈みっぱなしの天宮を視界の隅に捉えながら久美子に訊いた。が、彼女はふるふると首を振るだけ。
「ねえ、そこに布が巻いてあるよ」
飾り気の無い刀身を覆うだけの鞘から刀身を抜かずにいじくり回していた玲もそれに気付き、さっきのこともあるので――何より今度は布自体に何かが書かれているようなので、ことさら丁寧にそれをほどきにかかった。またしても崩れるのかとも思ったが今度は真新しい布をほどくような手応えが返ってきた。どうやら最近になってから、おそらくは識別用に巻かれたものらしいそれを机の上に広げ、皺を伸ばすとそこに書かれている文字を声に出して読み上げた。
「『村雨丸(オリジナル)』」
瞬間、時が凍りついた。
「…………マジか、これは?」
取りあえず、復活してそう言ってはみたものの、もとより答えなど期待していない。以外にしっくりとくる握りやすい柄を握った。ここに実物があるのだから確かめてみるのが一番早い。玲は刀を取ると躊躇無く薄い割には意外に頑健な鞘から引き抜いた。
虹が舞った。
村雨。あるいは村雨丸。もしくはムラサメブレード。
村正にも匹敵する、しかし実在しない妖刀である。
虹の煌きとともに玲の脳裏に存在しえない筈の記憶が流れ込んできた。それは村雨が造られてから渡り歩いてきた剣士と、村雨自身の記憶であった。
血を分けた、自身と同等の能力を有する勇者との楼閣での死闘。
時代に名を残せない、隠密とともに駆け抜けた戦場。
異界の王のもとでの殺戮。
村雨を手にしてしまったが故の幾多の惨劇。
人の世では幾多の人血を吸い、
闇の世では数え切れぬ人外を屠り、
神界では神々を斬り伏せ、
立ち塞がる総てを滅殺してきた殺戮の気。
以来、幾人もの名だたる剣士の間を渡り歩きながらも、持ち主に不幸と災いをもたらし続けたのである。
故に妖魔退散、破魔の力を有するにもかかわらず、呪われた妖刀とされ時代の陰から闇に葬られたのである。
日本では儀礼用以外では滅多に使われない珍しい片刃の直刀。伝説の通り、その刀身は結露し妖しく輝く。軽く振っただけだというのに、薄い霧を纏わりつかせた剣圧が何の手応えも無く部屋の壁に小さな傷を刻んでいた。なにより、手にしているという、ただそれだけで破魔の妖力が物理的に存在しているのが分かるのだ。いや、伝わって来ると言うべきなのかもしれない。
たった今、この地上において最強の戦闘能力を有する存在になったのだと、微塵の疑念すらも抱かずに確信できた。
恐ろしい物など何も無くなった。
すべてを破壊できる。
もはや敵などいない。
味方すら要らないような気がする。
この刀の前では不可能など存在しない。
沸き上がる昂揚感と共に確信した。
無言で鞘に戻した。
「封印しよう。こいつは」
誰かが何かを言うより早く、どこからともなく取り出した鎖でぐるぐる巻きにしてしまった。不審なまでの違和感の無さ、親しみすら感じるその感覚に未練が無いと言えば嘘になるが、これはここに――今ここに在るべき存在ではない。ほとんど直感同然だがそう思えて仕方ないのだ。だから光たちには伝言だけを残しておいて、村雨を封印するべく旧図書館へと玲は一人向かって行った。
保健室のドアを開ける。
「とりあえず、ベッドに寝かせとけばいいわね」
「そうね」
「あら、急患?」
くるりと椅子を回しながらずいぶんと小柄な女性が戸口に声をかける。
綾小路沙耶香。
豪奢な名前とは裏腹に童顔で背の低い彼女は、生徒たちからもよく年下――子供に間違われる。それで軽んじられることもよくあるが、実際にはここの卒業生であり、そろそろ三十にも届く年頃である。たいていの者は彼女の年齢を聞かされるとまず本気にしない。気の利かない冗談だと笑い飛ばす。
そしてその日を保健室のベッドで過ごす羽目になる。
八本のメスを忍ばせた着たきり白衣のポケットに手を突っ込んだまま、光とベルに運ばれてきた生徒の顔を覗き込む。それが予想通りの顔であることを納得すると空いたベッドの一つを指差す。
「頭?」
「頭」
無駄の無い会話。もはやそれだけで通じている。
やれやれといった風に肩をすくめると頭頂部から後ろ頭を撫でまわす。明らかにある範囲だけが歪になっている。
「あんたたち、少しは手加減しないと、いくらこの鉄頭でもいいかげんに陥没するわよ」
「その時は好きなだけ脳改造しちゃってください」
あはは、と光は渇いた笑いを浮かべた。
「で、また貧血でいいの?」
「ええと……はい、生理はこの間使っちゃいましたから」
綾小路先生は書類立てからファイルを抜き出すと、慣れた手つきでさらさらと書き込んでゆく。
「それじゃ、預かっとくけど、ホントにたいがいにしときなさいよ」
「先生に言われたら人として終わっちゃう気がしないでもないですが、一応、努力してみます」
「ふんだ。どれ、注射でも打ってやるか……」
言って彼女は厳重に施錠された薬品棚へと向かう。世間一般の例からは少し――かなり外れたこの保健室には片田舎の小さな個人病院程度の設備が整っている。他にも彼女の趣味で医療とは関係あったりなかったりする様々な物品が持ち込まれているのだ。その中からいくつかのビンを取り出した。
「念のため、解剖とか人体実験はやめてくださいね」
光が先に釘を刺す。大袈裟と言う無かれ。生体改造や人体実験が趣味と公言して憚らないのである。
「メスと注射器だけじゃ大したことはできないわよ」
「大した……?」
「あ、解剖はできるか」
中空の一点を睨み、ことさらゆっくりと、ベッドに視線を移す。
視線と何よりも沈黙が、相当に不穏当な雰囲気を醸し出している。
「やっぱり駄目ね。甦生ができないし。生き返らせられないで解剖しても面白くないものね」
「ああ、そうですか……」
甦生できたらやるんですか! そう突っ込みそうになるのを堪え、光は絶望的に顔を覆った。学園内での生殺与奪は全てこの女性に握られているのだ。
「じゃ、注射をっと。
――で、せっかくだからこの前仕入れてきたヤツ、試してみたいんだけど、何も分からなくなる注射と、楽になる注射と、何も感じなくなる注射があるんだけれど、どれがいいと思う?」
鎮静剤か痛み止めの類なのだろうが、この先生にかかれば、何だかどれも相応に物騒な薬品に聞こえてしまう。
逡巡するだけの間を置いて光が言った。
「……なにが『せっかく』なのかはあえてツッコミませんが、それ、まぜたりするとどうなります?」
「静かになるんじゃないの?」
沈黙が降りた。
それはとても長い沈黙だった。実際には数分なのだろうが、光には数時間、数十時間にも感じられた。
どうして世界は凍てつかないのだろう。そんなことを思った。
世界が色を取り戻す。
「……とっても魅力的な提案なんですけど、ここで頷いちゃうと色々引き返せないような気がしますから、とりあえず預かるだけにしてください」
名残惜しげに、本っ当に名残惜しげにため息を吐くと、ビンを薬品棚に戻し綾小路先生は別のビンと注射器を用意した。
「仕方がないな。今日のところは痛い痛み止めの注射で我慢してやるか……」
発言が不穏当な気がしたが、あえて光は突っ込まずに保健室を後にした。
光とベルはその足でまっすぐ体育館へやって来た。本当は途中で部室にも寄って来たのだけれど『先に行く』と玲の書き置きがあるだけで誰もいなかったのだ。ただ、部室がなんだか荒れたような、埃っぽいような気がしたけれど、部長を取り押さえようと大騒ぎしたのはほんの数十分ほど前のこと。だからだろうと気にも留めなかった。
本当は違ったのだけれど。
で、体育館。ステージの上ではオペラハウスに見立てたセットが組み上げられている途中だった。数人のスタッフが忙しそうに行ったり来たりしている。
「はい、ただいま」
ステージのわきで妙に疲れた顔でシナリオのチェックをしていた天宮に軽く手をあげる。
「はい、二人ともご苦労様。部長は?」
「安らか〜に眠ってるわ」
「そう言うと、なんだか死んだ人みたい」
「くす、本当の仏さんになってたりして」
二人してくすくす笑う。
が、その顔が曇る。半歩間違えば保健室にそれがひとつできるのだ。
「お、二人とも戻ったか」
すでに『自殺しない回路』を搭載し、何気に残務処理の始末屋ができそうな、監督の遠野がステージの上から声をかける。
「藤原はどうしてきた?」
「え〜〜と……たぶん、大丈夫です。保健室で安らかに眠ってるはずです」
一抹どころか両手でも抱えきれない不安を隠しきれずに光は答える。
「まあ殺人と死体遺棄の罪は綾小路女史にかぶってもらおう」
ひょいと肩をすくめた。
「よーし、始めるぞー。スタッフは集合!」
ステージの上では苦労して演劇部からスカウトした、マルガレーテを演じるカルロッタ役の中山恵美嬢が自信満々に、まさにカルロッタのごとく歌っている。その中山恵美をややあおり気味にして、やたらと古臭いカメラを担いだ泉本が慎重にさだめたアングルで撮っている。
ああ! わたしは笑ってしまうわ
この鏡に映っているわたしの姿がとても美しいのですもの
情熱的に歌う中山恵美の歌声を聞きながら、遠野は腕時計に目を落とした。
「ミスるなよー」
投げやりに口の中だけで呟く。
「これ以上NGなんか出されてたまるもんですか」
耳ざとく聞きつけた、復活した部長がぶちぶちと文句を言っている。籠釣瓶は持ち込んでいないし、どうやら保健室からも生きて出ることができたらしい。
すでにこのシーンだけで撮影回数二〇を越えているのだ。NGの記録はとっくに更新している。彼女ならずとも愚痴の一つも出て来るというものだ。
「新記録に兆戦、っと……」
シナリオコピーとステージ上を見比べながら天宮は言った。
「あ、NG……、も少しで歴代新記録だけど数に入れてもいい?」
「ダメだ。続けろ!」
天宮に釘をさして、泉本に撮影続行を指示する。
泉本がカメラをゆっくりパンさせる。カルロッタの向こう、彼女をなめて跪いたファウスト博士――実は玲――にピントがあう。
どうか、どうかきみの顔を見つめさせておくれ
青白い光の下で
夜の星が雲の中でそうされるように
きみの美しさをその光で愛撫するから
低いがよく通る声で玲が歌う。周囲の喧騒もありかなり音を拾いくいが、音入れはそのものはオールアフレコなので、録音状態はあまり関係が無い。
「映画って大変なのねえ……」
「ほんとねえ……」
すでに出番を終え、制服に着替えたベルとリアが頷き合っている。
リアはまだそれほどくたびれた感の無い自分のシナリオコピーに目を落とした。ぱらぱらとページをめくる。文庫本ほどの厚みを流し読みして最終ページに辿り着く。本文のワープロ文字とは違う手書きの奥付と、
――参考文献。創元推理文庫『オペラ座の怪人』。
かくんと小首を傾げ、分かったような分かってないような――たぶん、あまりよく分かってない顔で一つ頷くと、あっさりページを遡り、行き過ぎたり戻り過ぎたりしながら撮影中のシーンへ帰ってくる。
「このあと、カルロッタの口からヒキガエルが飛び出してくるけど……それってどうするのかなあ? ――ねえ、ベル?」
「え? う〜ん……」
横からリアのシナリオを覗き込み唸る。
「それはね、特撮研に頼んで合成してもらうのよ」
どこから持ってきたのか、野戦用の指揮卓の上でスクリプトノートを広げた光が言った。
「合成?」
「そ、別に作ったヒキガエルのシーンをね、フィルムに合成するのよ」
「じゃあ、このあとの大シャンデリアの落下も?」
「そゆこと、そっちはオールCGで、現在鋭意制作中」
乞う御期待。とか言ってスクリプトノートに書かれた絵コンテを見せる。
落下する大シャンデリアが観客席に激突して粉々に砕けるシーンだが、ぱっと見、書き込みと修正だらけでまるっきり素人のベルとリアには何が何だかさっぱりで、見当もつかない物だった。
「大丈夫。こんなドタバタあと二、三回もやればなれるから」
「映画って大変なのねえ……」
「ほんとねえ……」
二人はしみじみとため息をついた。
「よーし、みんなおつかれー、本日の分あがりだー」
夏休み明けからこっち、一日の平均稼働時間が二十時間前後なうえ、昼夜シャッフルという、慢性的な寝不足からくるナチュラルハイ状態の遠野が無駄に景気のいい声を張り上げる。時刻はまもなく午後十時になろうかとしていた。本来なら午後八時には強制下校させられるのだが、本校舎の方ではまだ明かりの点いた教室もあるし、クラブ棟もざわめきに包まれている。もちろん泊まり込み組も大量にいるが、もはや例年の如しということで学校側もすでに黙認状態である。
映画撮影ということで見物に来ていた野次馬や掛け持ちしている役者を呼びに来たよそのクラブのスタッフたちが、口々に挨拶しながらばらばらと、あるいは急ぎ足で散って行く。無論、ここのスタッフ一同には後片付けという強制労働が残っている。
「で、今日のフィルム、いつ見れるの?」
部長が自分の荷物を片付けながら、スタンドを担いだ泉本を呼びとめた。
「早ければ明日の昼くらいには、たぶん、見られると思う」
「じゃあ、明日の昼休みくらいまでにラッシュ用意しておいて、で、時間合う人は集合するように、と。――さーて、それじゃ撤収しましょう」
疲れ切ったスタッフ一同がよろよろと体育館をあとにして行く。
「でも、さ――こういうのだって楽しいよね?」
数日後――
生徒会室の前に立つ一人の女生徒がいた。
埃を含んだ荒野の風になぶられながら、たった一人で学園祭準備に浮かれた雰囲気を彼女の周囲数メートルとはいえ、荒野の決闘に変えていた。ここへ辿り着くまで人と喧騒に溢れ、普通に歩くことままならないはずの廊下をまるで無人の野を行くがごとく来たのである。
さわらぬ既知外に祟りは無いのである。
大振りの木刀――鞘に納めた籠釣瓶を握り直す。先程までの恐怖に道を譲るような殺戮の気はもはや微塵も無い。かわりに意識が彼女を捉えることを拒否するかのように、その存在が希薄になってゆく。隠密行動くらいは心得ているのだ。藤原和泉は躊躇無く室内に踏み込んだ。
素早く室内に目を走らせる。室内に二人、一方は生徒会長。小型の執務机で携帯電話片手に何やら書類に目を通している。もう一人の女生徒にも見覚えがあった。それが誰であったか思い出すと無視してもよいと判断した。ドアから目標である生徒会長真島真吾までの距離をおよそ十歩と読み、籠釣瓶を頭上――天の構えから一気に間合いを詰め振り下ろした!
殺気、剣気の類も無ければ裂帛の気合も無い、神速の一撃。まさに目にも止まらぬ一撃である。
浮かれまくった喧騒には似つかわしくない、純粋な暴力の音が響き渡った。
受け止められていた。
その一撃は脳天を直撃する直前で止められていた。しかも通常よりはいくらか長いとはいえ、真島がいつのまにか手にしていた木刀で、である。
いくら鞘に納めた木刀状態とはいえ、彼女が手にしているのは籠釣瓶である。しかも今の一撃でなら受けた木刀ごと真っ二つにしていてもおかしくないはずである。
動揺から動きを止めた藤原の胸元に、真島が机から身を乗り出して掌打を叩き込む。ゆらりと立ち上がると、片手に木刀の長刀をぶら下げたまま藤原の正面にまわる。もう一人いた女子――牧村の双子の妹はすっかり事態に置いてかれ通報することも忘れているらしい。
「どうだ、びっくりしたか」
「まあね」
藤原も立ち上がる。
互いにぎりぎり間合いの外で対峙する。
「真っ二つになったと思ったわ」
軽口で返すがその顔は笑っていない。
「ただの木刀……じゃないわね」
質問というより確認である。
「まあ、そうだ。どういう経緯かは知らんがな、なんなら黄金剣と呼んだっていいぞ」
「いいけどね、じゃ、それに勝つには風林火山を探さなきゃならないじゃない」
ため息まじりに藤原は言った。
本当に黄金剣が相手なら、テレポーテーションやサイコキネシスを使ってこないだけまだマシなのだろう。鏡に閉じ込められて砕かれるなんて、考えてだけでもぞっとする。
真島は相変わらず、長刀をぶら下げただけで突っ立っているが、不用意に仕かけられるような隙はどこにも無い。かといって時間をかければ、社会的な立場と状況から不利になるのは目に見えている。具体的に牧村兄の奥さんが正気に戻れば人を呼ばれてしまう。それまでにケリをつけなければならない。
仕かけるしかない。
腰を落とし抜刀術の構えを取る。小細工は無用、これなら一撃でケリがつく。
真島の表情が僅かに険しくなり、天の構えをとった。抜刀術に対し天の構え。兵法の基本である。こちらも一撃で決めるつもりだ。
じりじりと間合いを詰める。
空気の質量が増したように重くなる。
二人の間の緊張が高まる。
――刹那。
鋭い音が室内に響き渡った!
なんと、目にも映らぬ神速の抜刀術は、真島が振り下ろした長刀により迎撃されていたのだ。確かに抜刀術に対しては天の構えが基本とはいえ、藤原のそれは木刀状態で叩きつけたものではない、本物の村正で柳生新陰流の正統後継者が放った一撃である。いくらそれが有効な手段とはいえ、瞬間的に音速に達したそれを狙って迎撃できるなどそうできるものではない。仮にできたとしても、村正である。受けた木刀ごと真島を真っ二つにできた筈である。その人間離れした技量に藤原が驚愕した一瞬、それで勝敗は決した。手首を打たれ刀を弾かれて、胸元に切っ先を突き付けられては為す術も無い。
「木刀で真剣を打ち落とすなんて非常識にもほどがあるわ」
「おまえが言うな。それに、黄金剣だとも言ったぞ。――で、どうしてほしい?」
「ま、今日のところは見逃してあげるわ」
不敵に笑い、拾い上げた村正を鞘に戻し、立ち去ろうとする。
「へえ……」
口の端を僅かに吊り上げるアルカイックスマイルを浮かべ、突き付けた長刀の切っ先を制服の襟に引っ掛け力を込めた。
「あんた、そうゆう趣味があったんだ……」
十数年来、幼稚園の頃から付き合いのあるこの男を、彼女は心底軽蔑しきった目で見やった。
「他に言い訳は?」
「今なら生徒会とかにも黙っておいてあげるわ」
さらに切っ先が強く押し付けられる。
「わかったわよ。勝負は預けといてあげるから」
さらに切っ先が強く押し付けられる。あと少し力を込めれば制服が縦に裂けてしまいそうだ。真島はといえば全く表情を変えずに、まっすぐに藤原を見つめている。
「いいわよ。わかったわよ。好きにすればいいじゃない。ガマンしてるから」
半ば自棄になって、けっこうな問題発言を口にする。
「なら、お言葉に甘えて……文芸部は同好会に戻ってもらおうか」
「却下」
即座に切り捨てる。
「あんたにそんな権限無いでしょうが」
「できるさ。ボクが生徒会長だから」
「職権濫用でしょうが! だったらあんたに乱暴されたって、あんたの過去の悪事、無いこと無いこと次の会誌に載せるわよ」
「できるものならやってみろ! 速攻で握り潰してやる。それにやってもそれで恥をかくのはどうせお前だ!」
「なんですって!」
「なにを!」
両者の立場すら危うくしそうな、何気に不穏当な言葉の応酬は止まることを知らず次第にエスカレートし、牧村妹が他の生徒会役員たちを呼んで戻って来た時には、まさに第二ラウンドを始めようとお互いに剣を構えたところだった。
「よーし! そこまで言うんなら学祭でちゃんとした成果を出してみろ! それならさっきのは撤回してやる!」
「上等じゃない! いいわよ、あとで吠え面かくんじゃないわよ!」
何人もの生徒にがんじがらめに取り押さえられながらも、二人は互いに口汚く罵り合っていた。
イン・アナザータイム 〈かけがえのない……〉
そして、学園祭初日三日前。校内はすでに戦場と化していた。
壁という壁はチラシで埋め尽くされ、模擬店やアトラクション、その他諸々の出し物や催し物の準備に学内の全てが駆り出されていた。
『本日正午より、非常事態宣言が発令されました。生徒のみなさんは……』「テープとボンドもう無いぞー」「なんだとー! こっちももう無いぞっ、予備のヤツはどうした!」「ええーい、誰か! 一年、職員室からかっぱらって来い!」「ちわー、九月屋っす! 出前お届にあがりやしたー!」「あ、こっちー」「てめえっ! 一人で出前なんか取りやがって!」「あがり! これ三十部ずつコピー急いで!」「コピー機さっきから止まってますよぉ」「印刷室は?」「空いてるわけねえだろ!」「あぁん、もう! バイク貸したげるから誰かコンビ二まで行って来なさい!!」『執行部の向井君、出前の鍋焼きうどんが届いております。至急事務室まで……』「切るぞ! 切っていいんだな!?」「切れ! 早く切れ!!」『脳神経外科の沢木先生。至急、第一集中治療室までお越し下さい』「伝令―、革命同好会の最新スケジュールだ!」「よし! 幹部召集、作戦会議開くぞ!」『業務連絡です。午後五時まで東階段は下り専用です。上りの方は西階段、および中央階段をご利用ください。繰り返します……』『こちらは風紀委員だ。学園祭といえど、学校行事である。聖城学園の生徒としての規律と規範をもって……ブツッ!!』『こちらコングU、目標制圧』『了解。撤収せよ』「びゅーてぃふるどりーまー……?」「捕まえてくれ! 暗幕ドロボーだ!」「急げ! 三時〆切りだ!」「ちょっと! これ、またミスプリが……」「知らないフリしときなさい!」「やってられるかー!!」「ワ、ワニ……、白いワニがくるうぅぅぅぅ〜〜〜」
本校舎はもちろんのこと、体育館、講堂をはじめとする校内の全ての敷地で催されるあらゆるイベントなどのため、一日がおよそ三十六時間体制で突貫準備という名の無限地獄に突入していた。
そしてここ、文芸部はさらにドロ沼にはまっていた。
じゃんけんで負けた司会役の牧村が黒板を背に、手にしたコピーをぎこちなく読み上げる。それを最前列で神妙に聞いているのはベルとリア、それに光のみ。玲は光の隣で無表情に座っているだけ。
「と、言うわけで、われわれ文芸部は、映画上映の他に、さらに喫茶店でも参加することになりました。
――質問のある方はどうぞ」
司会進行の牧村は各人を見回した。
映画では監督をしていた遠野が机に突っ伏して熟睡し、その隣に部外者のはずの神崎真奈美が当然のように居るが、とりあえず、これはいつものことなので無視。それ以外には、不機嫌そうにつま先を何度もステップさせている藤原が挙手している以外は何の反応も無い。
「……部長、どうぞ」
「どーして、こうなったかその説明をして欲しいわね」
「それは部長が自分の胸に聞いてください」
ため息まじりに即答した。
例の生徒会室襲撃事件である。
秘密裏に成功したのならともかく、失敗した上に条件付きとはいえ、同好会への格下げ勧告まで受けたのである。
その一言で部長はあっさり撃沈された。
――やっぱ、あの時、縛り上げておくべきだったか……。
泉本、痛恨の極みである。いまさら後悔しても遅いが。
「で、協議の結果、喫茶店を開くことになりました」
正直な話、この時期に立ち上げる企画として喫茶店というのはかなり分が悪い。昨年までの例に漏れず、飲食系の――特に屋台などはフライングスタートしているところが大半を占めている。実際彼らが調達する夜食、間食、昼食の類の何割かはそういった屋台から仕入れ、売り上げに貢献しているとも言える。喫茶店の企画も他に何店かあり、今日、明日にでも営業を開始する店もあるのだ。
やっかいだ。とでも言うように、人材派遣クラブから借り出されている八坂有吾が、ため息まじりにスクリプトノートにペンを走らせる。が、企画自体には反対と言う訳ではないらしい。
光が静かに手を挙げる。
「どうぞ」
「ただの喫茶店じゃなくて、紅茶の美味しい喫茶店にしましょ」
「……反対の方はいますか?」
いない。というか、反応も無い。
「了承されました」
牧村はどっと疲れたような気がした。
それはともかくとして、幸いにしてフィルムはすでに全部繋ぎ終わっているので、この三日間――正確には二日と少々ほどではあるが、安心してこちらに全力を傾けることができるのだ。
「嘘ばっかり。フィルムの編集終わったのってついさっきだし、喫茶店って言ったって、できてるのは大雑把なプランだけで何の準備もできてないじゃない」
「あの……ずっと準備していると、前夜祭の試写会に間に合わないと思うんですけど……」
スペースはすでに確保できてはいるが、テーブルにイス、メニューや制服など用意するものはいくらでもあり、店内の飾り付けもしなければならない上に、さらに空き教室の一つをシネマハウスに改装もしなければならないのだ。
牧村はそれらをすっかり聞き流して話しを続ける。
「しかし、六人もの女性陣の全面的な協力を得ることができたので、シネマハウスとの相乗効果もあり、充分な戦果が期待できるものと思います」
と、強烈な視線を感じて牧村が辺りを見回せば、遠野にべったりくっついて元気に挙手しているの小学生と、廊下側の窓から熱い視線を送る、準の姿があった。エンプティランプを点滅させながら、彼は八人と訂正した。
「嘘です……あたし、センパイにだまされました……」
窓際の日当たりのいい場所にイスを持っていって、壁にもたれかかっていた久美子が困った声と視線を、後ろの方の席で放送部が行っている学園ニュースに耳を傾けながらスケッチブックを開いて何やら描いている天宮に向ける。
「あら、人聞き悪いわね。わたしはちゃんと、喫茶店やるから手伝ってね。って言ったわよ?」
「だって……お料理とか、お茶淹れるの上手? って訊いたじゃないですかぁ」
「でも、嘘は言ってないわ」
いけしゃあしゃあと言う。たしかに嘘は言ってない。が、真実全ても言っていないのである。
「では次に具体的な……」
しかも、何気に無視されてしまった。いまさら戦力は逃がせないのだ。
企画会議はそれから一時間ほどで終わった。
なぜか趣旨はコスプレ喫茶に変わっていた。
それはともかく。やるべきことは山ほどあり、その上時間も限られているのだ。一秒たりとも無駄にはしていられない。藤原はさっそく学祭実行委員会へと出向いて行った。参加申し込みの受付は今日の午後四時が最終締切りなのだ。それ以外の女性陣は店内の飾り付けとメニューの用意である。メニューに関しては光と倉田が詳しいので任せてしまうことができた。内装はとにかく時間が限られているので、壁紙を多用して見てくれを優先するということで方向性は決まった。イスやテーブル類に関しては、手配から搬入まで男性陣が全面的に請け負ってくれた。とにかく、必要なのは時間である。初日まであと二日と少し、前夜祭まで準備をしている訳にはいかない。本来の出し物である映画とアニメーションの初号試写会を前夜祭でやることになっているのだ。
「え〜と……とりあえず、飾り付けは壁紙でもとの壁隠しちゃって、その上からいろいろ飾り付けをするとして、テーブルとかは男の子たちが用意してくれるでしょ?」
光は立てた人差し指を無意味にふりふりしながら、現状を確認する。部長や上級生、仕切る人間がいなければ――今はそれしか能の無い部長は席を外している。あと二人の三年生、遠野と牧村はどちらもそっちの能力は捨てていると自覚がある。結局、そういう役回りが巡って来てしまう性分なのだ。
「それから、メニューはあたしと久美子ちゃんでできるから、そうねえ……明日にでも買い出しに行けばいいかな?」
一同はこくりと頷く。
「……で、もう一つの問題がウェイトレスの制服なのよねぇ……。主旨はいつのまにかコスプレ喫茶になってたけど、これから始めてトップを取るつもりなら、もうちょっとらしい飛び道具が必要なのよね」
そう言って、自分のスカートをつまんで軽く広げる。白を基調にした、わりとシンプルなデザインのタイトなミニのセーラー風ワンピース。スカーフと各ラインが学年ごとに色分けされている。
「ネコメイドさんとか」
天宮の意味不明な言動は問答無用で黙殺される。
「しっぽとネコ耳もちゃんとつけるから、ね」
男どもが微妙に身体を震わせたが、やはり黙殺。
「鈴のチョーカー」
「しつこい」
「許可」
「うるさいだまれ」
「黒のワンピースで、ネコ耳とネコしっぽ」
「却下」
「了承!」
「今、了承って言ったの誰よ!?」
「オレじゃないぞ!」
協議は揉めに揉めた。
時折、破壊音まで聞こえてきた。
しばらくお待ち下さい。
ちなみに、翌年より各クラスに配布される出し物の要綱に、『喫茶店従業員の無許可のコスプレ・ネコメイド、及びファッショングラスの使用を禁ずるものである』との一文が追加されるのだが、それはまた別の話である。
期間中如何なる事態が巻き起こされたかは、推して知るべしである。伝説はこうして語り継がれてゆくのである。
では、話を戻します。
「ね、ベルの持ってるそういう服、あれじゃダメかな?」
「え?」
傷テープだの包帯だのを身に付けた一同が、一斉に振り向く。
「リアちゃん、ベルちゃんがそういう服持ってるって?」
光が問いかける。
「うん、ベルの趣味なの。いろんな服を集めるのって」
『それだ!』
思わず注目されてしまい、ちょっと引き気味に言うリアに、みんなの声が見事にハモった。ただ一人ベルだけは困ったようにしていたが。
「じゃあこうしましょう。明日、あたしと久美子ちゃんとベルちゃん、リアちゃんで買い出しに行って、その時にベルちゃんのところから服も借り出してくると。――いいでしょう?」
最後のはベルへの拒否権の無い問いかけ。彼女はかすかに頷いた。
「う、うん――帰ったら用意しとく」
「それから飾り付けの方だけど、真帆ちゃん、デザインとかレイアウトとか任せちゃってもいい?」
彼女は右肩にかかる髪を指で後ろに弾くと、無言で顎を引くように頷く。空間的なセンスの良さは彼女が一番優れているのだ。
「イスとかテーブルとか、先輩お願いしてもいいんですよね?」
さっきから進行を記録していた牧村に振った。
「それは任せろ。少し心当たりがあるからな。――あと、食器も要るだろ? 軽い食事とかも出すつもりなんだからな」
指折り必要なものを数え、書き付けていく。
「うん、こんなところだろう。男どもは明日こっちの準備な」
となりに座っていた久美子がスクリプトノートを覗き込めば、イス、テーブル、ティーセットやスプーン、お皿など必要になると思われるものが数量まで、きっちりと書き込まれていた。思わず尊敬の眼差しで見てしまう。
「……と、こんなところね。――久美子ちゃん、そっちはどうだった?」
買い物リストと欲しい物リストを頭から見直し、買い忘れているものが無いのを確認しながら、ベルとリアの二人を引き連れ、両手いっぱいに荷物を抱えた光が、やはり同じようにいっぱいの紙袋を両手に提げ、先に待ちあわせ場所に来ていた久美子に声をかけた。
「ん、と――はい、ばっちりでした」
小首を傾げて、可愛らしい仕草で彼女は答える。それでもいつものように、頬に人差し指を当てるいつものポーズをしようとして、両手がふさがっていることを思い出しあわてて止めた。それが可笑しくて、つい笑みがこぼれてしまう。
「ねえ、光、一度学校に寄って行かない? これ以上はもう持てないし……」
リアが自分の紙袋を軽くあげて見せる。光も自分の荷物を見る。
――確かに重い。
「ん、そうね。そうしましょうか」
で、進捗状況を確認しがてら、いったん学校へ戻って荷物を置いてから英荘へと向かっている。
「それにしても……ベルちゃんたちの家ってはじめて来るけど、ずいぶん山奥なのね。
――まるでハイキングみたい。これ、毎日通ってるの?」
あいも変わらず、英荘へと続く山道。九月とはいえまだ夏の日差しは降り注いでいる。両側から木々の生い茂る日陰の道を四人は歩いていた。
「あたし、もう疲れました……」
久美子が音をあげる。その言い様がセフィそっくりでリアは思わず笑ってしまった。
「どうしたの? リア?」
「あ、なんだかね、セフィみたいだなあ――って思ったの」
「――ん、そう言えばそうね……」
思わずベルの口元もほころんでしまう。
「セフィって……」
「あ、ごめん、えっと、なんて説明したらいいのか……同居人なのよ」
「アタシたちね、英荘っていう下宿館に住んでるの。
――ほら、見えてきたよ」
リアの指差す先、そこには増改築が終わって新しい部分と古い元から在った部分との組み合わせが何だかアンバランスな、それでもどこか郷愁を思い出させる木造の古い二階建ての建物が木々の間から見えてきた。
『ただいまー』
『おじゃましまーす』
ベルとリア、光と久美子、四人がそれぞれ声をかける。が、なんの返事も無い。
「……あれ、留守だったっけ?」
「んぅ、でも、クレア姉さんたちはいるんじゃないかな?」
が、英荘の中は無人の静けさが漂っていた。貴也やフォル、ラオールたちは大学部の方で、ベルたちが今そうしているように学祭の準備に追われているはずである。それは中等部のミリにしても変わらない。ラムは視力の回復しないジゼルに最近はよく世話をしている。外へ連れ出していたりもするので今がちょうどそうなのかもしれない。セフィは相変わらず眠っているのだろうか? アルバイトに行っているのだろうか? で、遊び人をしているクレアとメルはだいたい英荘にいるはずだけれど、それにしてはずいぶん静かだ。二人してどこかへ出かけているのかもしれない。
「どうしたの?」
いぶかしむ二人に光が訊いてくる。
「あ、――うん、なんでもないの。あたしの部屋こっちよ」
言いながらベルは先に立って自分の部屋へと向かって行った。
「着替えてくるね」
そう言い残して自分の部屋へと行ったリアを残して、ベルの部屋へと入った途端、光と久美子は圧倒されてしまった。増改築で以前より広くなった部屋の一面が華やかな衣裳で埋められているのだ。有名ブランド物もあれば、大量生産品もある。中には光も久美子も目にしたことも無いような物や、サーバントウェアや古今東西各種ドレス、どこかのファミリーレストランや喫茶店の制服まであった。光の予想を上回っていたとはいえ、もちろんこれだけが圧倒された理由ではない。さらに別の一角には、どうやらベルのお手製らしいパソコンのシステムが無骨な姿をさらしていたのだ。しかも一介の女子高生が趣味でやるにはそのシステムはかなり複雑化し使い込まれている。
ベルはさっさと自分の部屋に入り、ハンガーで壁や別のハンガーに掛けられている衣裳の中から、レースをふんだんに使用したブラウスとスカートの一揃えを取り、自分に当てくるりと振り向いた。
「あたしのコレクションの中から、ウェイトレスの制服でよさそうなのを出したけど、こういうのでよかったのかな?
――って、どうしたの?」
ベルのその仕草、容姿や性格、あまりにも使い込まれて電子の要塞と化しつつあるパソコン、そして華やかな衣裳の数々。そのあまりのギャップに光は思わず頭を抱えていた。
「……なんでもないのよ。ちょっと、世の中って油断できないなぁ……って再確認させられただけだから」
一度、開きかけた口を閉じて、それだけをぱたぱたと手を振りながら光は言った。
「どうしたの?」
ちょうどそこへリアが戻ってきた。その姿を見た途端、再び光はがっくりとうなだれてしまった。ざっくりとした麻のシャツにジーンズのショートパンツ。しかも動きやすさを優先で選んだようなシンプルなデザイン。ふだん学校で会うリアの愛らしさとは完全に逆方向のスタイルである。
「あ〜、二分だけ待って、そしたら復活するから」
頭を抱えたまま、床にぺたんと座り込み、壁に向かって何やらぶつぶつと言っている。その内容までは聞き取れないが、どうやら自分を納得させようとしているらしい。
よほど、ショックだったようである。
「どうしたの?」
あらためてリアはベルに訊くが、ベルもただただ首を捻るばかりである。よく分からないまま、もの問いたげな視線を今度は、さっきから成り行きを見守っていた久美子に向ける。彼女は言うべきかどうか逡巡するかのように、その視線をベルの部屋、ベル、リア、それから座り込んだままの光に向け、再びベルたちに戻し軽い頭痛にも似た眩暈を感じた。それを振り払うかのように軽く頭を振り彼女は言った。
「……たぶん、お二人のシュミとか格好がショックだったんじゃないかなぁ……って、思うんですけど……」
「シュミ?」
「格好?」
二人して顔を見合わせる。基本的な顔立ちだけなら鏡合わせのようによく似ているお互いの姿。
「そんなに変? あたしこの制服気に入ってるんだけれど……」
「アタシのシュミっておかしいの?」
ベルが自分の制服を見下ろし、リアは考え込む。
「逆よ! 逆!!」
光はいきなり復活するなり、叫んだ。
「ベルちゃん! パソコンはまあいいとしても、そぉんなに強いのに、どおしてこんなに少女趣味なのよ! リアちゃんもよ、制服姿はあんなに愛らしいのになんでそうゆう服を着るのよ!」
「変かな?」
ベルとリアは顔を見合わせ、光にそう訊いた。
「う……」
面と向かってそう訊かれると光としても言葉に詰まってしまう。ただの思い込みやイメージで二人はこうだと決めつけていただけなのだ。彼女たちには彼女たちなりの考え方やスタイルというものがある。それは本人たちが決めることで、他の誰にもそうしてしまうことはできないのだ。
光はもう一度ベルとリアを見た。
ゆるやかにウェーブしたベルの長い髪と可愛らしい洋服たち。そしてめったに見せないけれど、触れることさえ躊躇わせるような強い意志を秘めた瞳。それらを一つのものとして考えれば何の違和感も無く納得できる。
リアを見た。
くすんだ感じの白っぽいだぶっとした普段着。そこから伸びる手足はすらりと細く日焼けもしていなくて、羨ましいくらいに白い。そこに普段の愛らしさは無くても、代わりに少女らしい快活さがある。それはリアの持つ魅力を少しでも損なわせるものではなかった。むしろ、違う一面を強調するようで似合ってさえいる。
くすり……二人を見て光は微笑んだ。ここにいるのは間違い無く見慣れたいつもの二人なのだ。いまさらそれを疑うことも無い。ベルはベル。リアはリア。ただそれだけのことなのだ。
「さて、それじゃ、さっさと服、選んじゃいましょうか。ベルちゃん、他のも見せてくれる?」
微笑む光を怪訝そうに見る三人の脇をさっさとすり抜けベルの部屋に入ると、壁の一角を占領する服を一着ずつ選んでいく。取り残されたようにベルたちは顔を見合わせるが、ごく自然になんだか可笑しい。互いに頷きあうと光に続き服を選び始めた。
当然のことながら、貴也たちのいる大学部も学園祭のための様々な準備に追われていた。もちろん貴也たちとてそれは例外ではない。貴也、フォル、ラオールの三人はどこのサークルにも所属していないが研究室の方でも催し物はある。人手不足も手伝って講義に出ている時間さえないほどに忙しかったのだ。
「それでも航空部の連中よりはマシか……」
英荘へ続くいつもの山道を歩きながら、ため息を吐き出すとともにラオールは言った。
「うん、なんか園田の話だと小型の飛行船でも一隻造るのは大変らしいし、もっとも、あの軟式飛行船も最初は高空飛行船とか言う大型船だったらしいけれど」
「ハイト、クライマー……? なんだそれ?」
「オレもよく知らないけれど、高空で運用するタイプの飛行船のこと。……らしい。園田の受け売りだけど」
貴也自身もよくは知らないらしい。ちなみにハイトクライマーとはかつての大戦中、航空機などよりもさらに上空から都市へと侵入、制空権の確保、都市爆撃などを行う目的で建造された飛行船のことである。その為の高空性能を確保する為に機体は極限まで軽量化を施されてある。航空部では当初、こちらを建造する予定だったのだが、予算や技術的、時間的といったその他、様々な問題や事情から断念せざるをえなくなり、結局、同時に進めていた軟式飛行船の建造とそれを使った遊覧飛行に落ち着いたのである。
「よく許可が下りたもんだ。……ま、今のオレたちよりも苦労しているヤツもいるってことか」
やはり、ため息とともにラオールは言った。
「でも、いいんでしょうか? わたしたちだけ帰ってきてしまって」
それまで静かに歩いていたフォルが口を開く。
「大丈夫だよ。まだそこまで追い詰まっていないからね。だいたい、そうでもしないとずっと泊まり込みになっちゃうからね」
「そうさ、それに本当にヤバくなったら帰してなんてくれないからな」
貴也とラオールが交互に言う。
研究室の催し物や模擬店、メイン展示物、そして当日の人材の確保とやるべきことは山ほどあるのだ。それが今日になってようやく一段落つき、彼らも一時帰宅できるようになったのである。
と言うわけで久しぶりの英荘である。
「久しぶりって……まだ一日も経って無いだろ?」
「一週間か二週間ぐらい経ったような気もするが……でも、危うく最終日まで泊まり込みになるところだったからな」
貴也は曖昧に笑うがその頬をつたう一筋の汗をラオールは見逃さなかった。
「ただいま」
貴也はごまかすようにさっさと玄関のドアを開けるが、しかし返事は無い。
「あれ? 留守なのかな……」
靴を脱ぎかけたポーズのままで貴也は辺りを見回す。
「いや、エインデベルたちは帰ってきているらしい」
ラオールが上がり口を見ながら言う。そこにはベルとリア、それに光と久美子の靴がきちんと並べられていた。
「見なれない靴があるけど……ベルたちのお客さんかな?」
「たぶん……」
ラオールの言い方は曖昧だ。
「それではその方たちも一緒にお三時にしましょうか」
フォルだけはあまり気にしていないようだ。
「それじゃあ、オレが呼んでくるから、貴也とフォルさんはお茶の準備をしておいてくれ」
二人にそう言うとラオールは階段へと向かって行った。ベルにしろリアにしろ彼女らの部屋は二階にあるのだ。
「ああ、わかった」
「それでは共同リビングに用意しますから」
どうやらベルの部屋にいるらしい。中から話し声が聞こえてくる。ラオールはドアの前に立つと、軽く二、三度ノックした。ほどなく中からベルの返事がある。
「オレだ、入ってもいいか?」
「ラオール? どうぞ」
ドアを開け部屋の中へと足を踏み入れた途端、室内の光景が目に飛び込む。
そして――
ラオールの思考は停止した。
そこは色とりどりの洪水だった。ベルが用意した洋服がベッドの上から床の上まであふれ、さらに壁までも占領して部屋中所狭しと並べられているのである。ある程度ベルのことは分かっているつもりでも、さすがにこれは面食らってしまった。
「おかえりなさい、ラオール」
「あ、おかえりなさい」
「こんにちは、初めまして」
「おじゃましてま〜す」
が、ラオールに反応は無い。
「ラオール?」
「あ? ああ……ただいま。それとおかえり。いらっしゃい」
それだけようやく言った。
「どうしたの?」
「ちょっとな……凄い光景だったから……」
頭の上にはてなのマークを浮かべて考えるベルを横目に、妙に納得した顔で光がうんうんと頷いていた。
「凄いって……」
「いや、いいんだ。それよりお茶に誘いに来たんだ。そっちの二人も。今、フォルさんと貴也が用意しているから」
「え、フォル姉様が帰って来ているの!? もう、ラオールったら……それを早く言ってよ。
リア、光さん、久美ちゃん行きましょう!」
みんなを急かすと凄い勢いでベルは行ってしまった。
「ベルちゃんて、相変わらず相変わらずなのね」
くすくす笑いながら光は言う。誰にというわけではない。ただ、今だけ肩を並べている、ベルがラオールと呼んでいたこの人なら答えてくれる確信があった。
「そうだな」
あまりに自然な言い様に思わず光は振り向いた。優しい目。優しい目でエインデベルの走り去った方を見つめている。その眼差しに光は確信した。ベルが見つけたたった一人の人。いつもつらそうにしている彼女もこの人といればきっと幸せになれる。何の疑いも無くそう信じることができた。
「ラオールさん?」
「うん?」
「エインデベルと幸せに」
「……ああ」
突然の言葉にラオールは彼女を振り向いたが、いまさらそのことに違和感は無い。ごく自然に頷いた。
そしてリア――
――アタシっていやね……貴也とフォル姉さんがいっしょにいるだけでこんな風に思うなんて……。
――フォル姉さん。か……。
ズキリと、胸が痛んだ。
貴也とフォルシーニアのことを考えるだけで胸が苦しい。最初に出会った頃にはこんな風には思わなかったのに、貴也とフォルシーニアがいっしょにいても何も思わなかったのに、それが今では……、
――貴也……。
ふと、何かが心をよぎった。
――フォル姉さんと貴也か……。
「それにしても、エインデベルがあんなに服を持っているとは知らなかったな」
光と久美子もまじえて共同リビングで三時のお茶を囲みながらラオールは言った。
「そう? でも、他にもしまってある服あるわよ?」
「いったいどれだけ持ってんだ?」
「……さあ?」
フォルやリアはともかく、一同は引きつった笑いを浮かべた。
「と、ところでさ、マリアたちの方はどうなってるんだい?」
強引に話題を変えるように貴也は言った。これ以上ベルが所有する服の話をしていても、信じ難い途方もなさに頭が痛くなるだけのような気がしたのだ。何しろ貴也が一度だけ入ったことのある双子たちが英荘の地下に造った秘密基地の、十畳間ぐらいの一室がベルの服を保存する為だけにクローゼットに占拠されていたのだ。しかもそれが全てではないと言う。思い出しただけでも気が遠くなりそうなのだ。
「ん……、ん、と……、映画館の他に紅茶の美味しい喫茶店もしなくちゃいけなくなったんだけど、順調にいってると思うの」
突然振られて、少し戸惑い気味に小首を傾げて、自信無さげに言った。そしてベルの方を振り向く。そのベルも曖昧に頷くだけだ。その頼りない仕草に貴也たちは何となく不安になった。それを見かねた光が慌ててフォローする。
「映画の方はもう完成してるんですよ。前夜祭で試写会もやりますからみなさんも見に来てくださいね。――ってそっちは言えるんですけど……ただ、ちょ……っと喫茶店の方でてこずってるんですけど……」
「手こずってるって?」
メルが用意していたクッキーに手を伸ばすかたわらにラオールは訊いた。光は紅茶を一くち口に含んだ。ほのかな甘味が口一杯に広がる。お茶を淹れる技に関してはある程度の自信を持っていた光だが、それでも、かすかな嫉妬と羨望を覚えるほどにそれは美味しかった。
「その、昨日から作りはじめたんですよ」
貴也とラオールは顔を見合わせたかと思うと、前代未聞の間抜けな顔で同時に光を見返した。当の光はお気楽そうにしているが、その頬につたう一筋の汗を二人は見逃しはしなかった。が、フォルの反応だけはいつも通りにのんびりしたものだった。
「まあ……二人とも、あまり無理をしてはダメですよ」
「はい、フォル姉様」
「うん、大丈夫よフォル姉さん」
で、二人はそろって返事をした。それを見た光は、ああ、本当にこの人はベルちゃんたちが話す通りの人なのだと心から納得した。
「で、ホントにそんなペースで作ってるのか?」
現実的なラオールは心配そうにしている。
「ええ、まあ……あ、でも、スペースはもう確保してますし、必要な物ももう用意してますから、前夜祭には間に合いますよ。……たぶん」
「大丈夫よラオール。そんなに心配しないで」
「そうか、無理はするなよ」
エインデベルが弱音を言わないことはラオールには分かっている。たった今、フォルシーニアも同じことを言ったのだ。それでも心配はしてしまう。だから、改めて、そうしてしまう。これが『好き』ということなのだなと、彼は心の底から納得した。
「……ところで、あたしたちだけ、こんなにのんびりしていていいんでしょうか?」
久美子が心配そうに口を開く。とはいっても、もちろんお茶うけのクッキーに伸びる手は止まらないが。
「時間のこと? それとも他のみんなのこと?」
その両方に久美子、ベル、リアがそろって深く頷く。
「そのことだったら大丈夫」
光はあっさり、安請け合いする。
「携帯電話の電源はちゃあんと切ってあるし、無線機も発信機も部室に置いてきたし、ワイヤーも付いてない。おまけに英荘の連絡先は誰も知らないもの」
無意味に胸をそらして自信たっぷりに言い切る。
とたんに不安が押し寄せて来たのは言うまでもない。
「……大丈夫じゃないと思うぞ、オレは……」
ラオールの呟きにみんなはそろって頷いた。フォルだけはよく分かっていないのか、相変わらず微笑んでいたが。
「さてと、そろそろ行きましょうか」
光がポケットから出した、今時めずらしい古風な懐中時計を見ながら言う。時計は三時を回ったところ。遅い時間ではないが、あまりゆっくりもしていられない。カップの底に残ったお茶を優雅に飲み干すと光は席を立った。リア、ベル、久美子の三人もわずかに遅れて席を立つ。
「それじゃあ、みなさんお邪魔しました。フォルシーニアさん、美味しいお茶ごちそうさまでした」
言って、優雅に一礼する。こうゆう礼儀作法はさすがに上流階級で育っただけのことはある。学園の授業では身につかない気品が漂っている。
「まあ、ありがとうございます。お二人ともまた来て下さいね」
「ええ、必ず伺わせていただきます」
「それじゃあ貴也、いってきま〜す」
「ああ、いってらっしゃい、マリア」
は〜い。といい返事を残して、いったん、ベルの部屋に戻って用意しておいた荷物を取って来てから彼女らは英荘をあとにした。
その頃の学園。
スペースとして確保した空き教室でスケッチブックにペンを走らせながら、天宮はみんなの帰りを待っていた。すでに壁紙は貼られ、あとはここにテーブルやイスなどを持ち込み、セッティングするだけである。
やわらかな日差しにつつまれた長閑な午後。
広げたスケッチブックの上に落ちた髪が作る、複雑な螺旋や縞模様を見つめていると急速に現実感が薄らぐが、開け放たれた窓からは耳を澄まさずとも学園内の様々な喧騒が聞こえてくる。だが、このばかばかしくも騒がしい、そして楽しく充実した日々もあと数日の内に終わりを告げてしまう。
――薄皮一枚隔てただけの平和。か……。
その危うさを自分だけが知っている。
彼女自身の立場を明かすだけでそれは容易く壊れてしまう。
日常というサイクルに決して組み込まれることの無い存在。
非日常へと足を踏み出してしまっている存在。
それはあるいは光や玲にしてもそうなのかもしれない。それでも、彼らはこの日常に帰ることができるのだ。この世界が続く限り。
自分の左手を隅々までくまなく見る。華奢ではあっても、しなやかな指、とは彼女の場合は言い難い。骨っぽいそれはどちらかと言えば栄養不良のよう。忙しさにかまかけて手入れも怠っているので、唯一自慢のシミ一つ無い白さもだいぶ損なわれている。それをゆっくりと握り拳の形に変え、さらに倍くらいの時間をかけて広げる。
――どこにも異常は無い。
「ふう……」
なんとはなしにため息をついた。それだけで気持ちがどんどん黒くなっていくような気がする。
――本物の天宮真帆はここにはいないものね……。それなのに全部覚えているのよね。わたしは天宮真帆ではないのにね……。
またも、ため息。
――本物の自分自身か……。
それがどこにもいないことは、世界中のどこにも存在しないことは彼女自身がよく分かっている。
それが寂しいのか、悲しいのか、つらいのか、どういった感情なのか正直なところ彼女には理解できなかった。彼女はただ教えられた――刷り込まれたままに形態反射をしているにすぎないのだ。
――はう……。
――さっきから、胸の中にわだかまるもやもやを一つも吐き出さないこのため息が感情かしら……? だったら、やっぱりわたしは失敗作ね……。それとも、これもデータになるのかしら……?
自分を傷つけるだけの昏い笑み。
天宮真帆のオリジナル細胞から造られた存在。人の手により生み出された心無い人形。実験体。そして……たぶんイレギュラー。それが彼女である。人権どころか人格すらも本来は存在しない。彼女の性格や人格と言うべき行動パターンは専属のプログラマーと、ベビーシッターと皮肉られる教育係――和洋を問わずSFに傾倒した、特殊な趣味人であるマッドサイエンティストのごく個人的な戯れと影響にしか過ぎない。
――せめて、楽しいことくらいは心から好きだって思いたいな……。
人の形をした偽りの物体でしかない彼女の――それが切実な願いだった。
憂鬱になるだけのため息を吐き出す。ふと、右肘に何かが当たる。どうやらさっきからもたれている壁にぶつけたらしい。けっこうな勢いだったはずだが、当然のように痛みは無い。さらに視線を指先に移す。さっきからほとんど無意識にペンを走らせていたスケッチブックに目を落とせば、そこには自分の髪が描く螺旋と縞模様までをも取りこんで、計算し尽くされた精緻な抽象画ができあがっていた。それを壊してしまうのを惜しいとは思いつつも勢いよく顔を振り上げ、軽く頭を一振りし、視界を隠す髪をかきあげるといつものように右手で指弾でも撃つように肩に垂れかかる髪を弾いた。
と、窓の外から聞きなれた声がしたような気がした。
けだるげにもう一度髪をかきあげる。その仕草が妙に艶めかしい。スケッチブックを閉じそれを手にしたまま窓へと近付きそこから上半身を乗り出した。髪が滑り落ちる。そこには大学部の方で自動車部が副業として開業している輸送屋のロゴをつけた大型トラックが昇降口あたりに止まっていた。
「おう、天宮か」
助手席から下りた牧村がこちらに軽く手を振る。そのまま、こちらには来ずに運転席から降りてきた自動車部の部員と何やら話している。その間に後部座席から降りてきた遠野たちが、荷台から荷物を下ろし始める。それが終わる頃に牧村はその部員に何か封筒を手渡すと、彼はトラックの荷台が空になったのを確認してから引き上げていった。
それを見送ると、牧村たちは昇降口付近に積まれた荷物を教室へと運び始める。なんとか普段通りに持ち直し、さっきからそれを見守る天宮の前、教室の一角に次々に運び込まれる様々な物。
イス。
テーブル。
厳重に梱包されたダンボール箱は、おそらく食器類。
ドラムに巻いた延長コード。
照明器具。
それらが天宮の目の前で山を築きつつある。さらに運び込まれる。
バーカウンター。
小型冷蔵庫。
簡易キッチン。
水道管。
手際よく始まる引き込み工事。
――ん?
「……って、ちょっと待ちなさいよ!」
工具箱を持って入って来た泉本に詰め寄る。
「最初の方はいいとして、キッチンとかカウンターってどこから持ってきたのよ!」
「ん? 無いと困るだろ? どっちも」
「それはまあ……あるに越したことは……って、そうじゃなくて! ああ……もう! それに! 部室から水道引いたら困るじゃない!」
「大丈夫だ。そっちには手をつけていないから」
「そう? それなら安心ね。……って、じゃあ、どっから引いてるのよ?」
水回りは完備されているとはいえ、この元生徒会室周辺には簡単な工事で水道を引いて来れる水源は無いはずである。もちろん本校舎沿いにはそちらの方へと水を供給している配水管も埋まっていたりもするが。無言でどこかあさっての方向に視線を外す泉本を、とたんに胡散臭い目つきで斜めに見やる。
「……これ、どこから借りて来たのよ」
「ええと……あっち」
天宮が示す、運び込まれてきた様々な物品からあからさまに視線をそらし、泉本は曖昧にあさっての方角を指す。
「…………」
「…………」
一部の男子から病的な支持を受ける、大きな丸眼鏡を指先で直す。
「具体的には?」
「……ノーコメントだ」
「…………犯罪者どもめぇ……」
天宮はぽそりと呟いた。その間にもさらにいろんな物が運び込まれ、水道管の工事も始まっている。周囲を見回してみるが逃げ道はどこにも無い。
――一練托生。
ふと、そんな言葉を思い出した。吐息が長くたなびく。
――こいつらはこれをどこに返しに行くつもりなんだろうかねぇ……? ……返さすつもりもなかったりして……。
心底胡散臭げに作業状況を眺めながら重苦しいため息をつく天宮の前を、水道管を抱えた玲が横切る。
「ちょっと! あんたが止めなきゃだめでしょうが!」
「オレが? どうして?」
心底意外そうに玲は言った。
それで天宮は思い出した。今でこそ光と一緒にいるようになってからは、かなりユルくなったと言うか、丸くなったと言うか、どこか光に引きずられているが、その本性はこっち側だったのだ。わざわざそんなことを顧みたりはしない。
「……っ、だからってねえ、どこから手に入れてきたのかも言えないなんて!」
玲は大仰にため息をつくと、ちょいちょいと天宮を指招きする。
「耳、貸してみな」
返してよとかお約束のボケを口走りつつ、長い黒髪をかき上げ可愛らしい耳を出す彼女に、格闘技系と文化系クラブに入り浸っているというのに、いまだにバスケ部から勧誘の来る一九〇近い長身を屈めてその耳のはしをちょっとだけつまんで何事かを囁く。
「…………!」
「……て、いうわけだ」
悪びれた様子すらも無くとんでも無いことをあっさり言ってのける玲に、天宮はすっかり真っ白に凍りついてしまった。
「ちょっと待った! 凍りつく前に店内の配置図出してきな」
彼女は油が足りないか、それともゼンマイの切れかかった機械人形にようにぎこちない動作で、さっきまで広げていたスケッチブックを取りだし、あるページを示す。
「なるほど、こうゆう風にすればいいんだな?」
ほとんど反射行動も同然に、かくかくと首を縦に振る。
「分かった、それじゃあ、あとは好きなだけ凍りついててくれ」
「あんたらの良心回路はいったいどこに……」
やたら平板な口調で謎の言葉を残すと、今度こそ、天宮は完全に凍りついてしまった。
あけて翌日。学園祭初日を明日にひかえ校内の慌ただしさは昨日を遥かに凌ぐものとなっていた。敷地内の至る所で明日への準備と称する気違いじみた突貫工事が敢行され、混迷の戦場さながらの様相を呈してきた。
そのドサクサにまぎれて、生徒会室にカチカチと不穏当な音のする、厳重に梱包された謎の箱が届くなどして、混乱にさらなる拍車をかけていた。
「お前だろうが! それやって生徒会の業務半日止めたのは!」
「ち、半日しか止まらなかったか」
「………………」
……コホン、失礼、さらに一時は混乱の渦へと消えたと思われていた風紀委員会が再び息を吹き返し、この混乱の収拾に努めていたのだが、さして実体の伴わぬ権威に今さら生徒たちが怖れるはずも無く――何しろ、風紀委員を擁する生徒会執行部そのものが既にこの混乱の中央にいたのだ。そのこともあり、もとより効果など期待できるはずも無かった。あっさりと駆逐され、かくして彼らは再びその姿を消さざるをえなくなったのである。
――ま、いてもいなくても変わらないんだけれどね。
「風紀委員会主催のイベントが消えるぞ」
……それはともかく、そしてここ、稀代の天才剣士にして柳生新陰流正当後継者である、藤原和泉部長が率いる文芸部では……、
「この忙しいのにナレーションなんかしてんじゃないわよ!!」
すでに学園の制服ではなく、私服に着替えてカメラに向かってマイクを握っていた藤原の後頭部に、何故かスカート付き飛行服姿の光が、百回戦えば百回勝利すると言われる、もはや伝える者さえもいない伝説の蹴り、百戦百勝脚を放った。その間違いなく大気をも切り裂くほどの一撃に部長は何気に普通ではない音を立てて昏倒し、無様に床に貼り付いてしまっている。
「しかも! 村正なんか振りまわしてるクセに、柳生新陰流なんて節操無しな……」
不自然に静まりかえった室内の様子に、セリフが途中で途切れる。あまりの異質さに上げかけた大声を飲み込み、たった今蹴りを放った自分の右足に視線を移し、さらに無様に床に突っ伏している部長に視線を落とす。
「………………」
ぴくりとも動かない。
ドサマギに、いい具合に脱色してセットした、緩やかなスパイラリーヘアが無残に散らばっている。
永久不変の沈黙音。
もちろん、音がするわけではない。
「……え〜と、保健室かな?」
ひきつった愛想笑いを浮かべる光。が、凍りついたように誰も反応しない。
――救急車かもしんない……。
「うう……つんつんつんと……」
しかたなく嫌そうな顔で(嫌なのよ)そろそろと部長に忍び足で近付き、擬音付きで脇腹の辺りをやたらとごついブーツで覆われた足先で突つき、加速装置でも使ったような敏捷さで壁際近くまで飛び退った。
反応は無い。突ついた脇腹に揺られ手足が少し動いただけだ。しかも力が入っている様子はまるで無い。
「ちょっと、ウソでしょう……? いつもならこれくらいは平気じゃない。こんな時だけマジに死なないでよ……」
ちなみに、百戦百勝脚をはじめ超人拳法はどれ一つをとっても、即、死亡遊戯である。
無意味に低い唸り声を上げると、今度は足の方から接近し、内ももを足の先で撫で上げる……が反応無し。足先が下着の股底に着いたところで勢いをつけてスリップドレスのスカートごと蹴り上げる。盛大にスカートが捲れ上がり、レースとフリルだらけの意外に可愛らしい下着が丸見えになるが、それすらも構わずに悶絶している。
「…………………………………………………………………………………マジ?」
と、するすると部長は手を伸ばし、スカートの裾を引っ張って控えめなふっくらとした形の良いおしりを隠す。
再び永久不変の沈黙音。
いや、
「……うう、ナイスパンチ……」
くぐもった藤原の呟き。
――うわ、生きてやがったよ、こいつ……。
どこかで聞いたことがあるような意味不明なギャグを飛ばす藤原を、玲は嫌そうに見やる。一般人なら確実に即死コースの一撃である。
「蹴ったわよ。まったく、ナレーションまで書き換えてんじゃないわよ。
――ホントにトドメ刺してやろうかしら?」
すでに部長としての威厳も何も無い。腕組みなどしつつ、たかが藤原和泉殺しなどで前科者にならなかったことに、心底安堵したため息とともに光がそう漏らした途端、示し合わせたように何人かは確実に頷いていたが。何事も無かったように藤原は立ちあがり、ドレスに付いたほこりを払ってから光に向き直った。
「うう……ウソばっかり……」
骨には異常は無いようだが、さすがに爆心地は痛くて触れない。
「時が見えそうだったわよ! 本っ気で!!」
「手加減はたぶんしたわよ」
いけしゃあしゃあと言い放つ。たしかに本気だったらたとえ玄人クラスでもダメージをうまく逃がせば入院コース。それに失敗すれば問答無用のお葬式である。
「走馬燈、三週目に突入しそうだったのよ……」
「良い経験したな」
「惜しいな、もう少しでみんなといつでも遊べる場所に行けたのに」
「魂が帰れるのにね」
口々に無事を祝ってくれている。
「なんか違わない?」
「そんなことより、時間無いんだから、さっさと終わらせちゃいましょ」
へたをすれば人死にが出ていたかもしれないそれをあっさり脇にどけ、今いる旧校舎の教室を見渡すように示す。前夜祭の試写会、それにシネマハウスとして使用する教室である。にもかかわらず、まだここで授業が行われていた頃の名残のまま、イスや机、教卓、それに日焼けしたカーテンまでがそのままに残っている。本来なら、フィルムが繋ぎ終わったらすぐにでも改装作業に入るはずだったのだが、例の喫茶店のこともありすっかり忘れ去られていたのだ。もちろんそれで済むはずも無く前夜祭まですでに十時間を切ったというのに、いまだに準備から開放されずにいるのだ。
「冗談じゃないよぉ……前夜祭のライブ、見に行きたかったのに……」
泣き言を言うわりには天宮の動きはきびきびとしている。泉本と久美子の二人をアシスタントに使って細かな飾り付けを一手に引き受けている。
ため息まじりに天宮は教室を見回した。メイキングリポートはあらかたできあがっている。あとは泉本が少しずつ選り分けていたスチールを貼っていけばそれで終わる。室内の方ではようやく不要な机の片付けが終わったところだ。牧村を中心にさっきから机を抱えてどこかの部屋とを往復しているようだ。――どこに運んでいるかは聞かないほうがいいに決まっている。きっと、大っぴらにはできない場所に決まっているのだ。(ちなみに校舎裏で山積みだったりする)。
ほとんど反射神経だけでスチールを画鋲で留めながら、今度は視線を校庭の方へと向けた。グラウンドのほぼ中央あたりに全長およそ六メートルほどのガス袋を横たえているのは航空部が造った軟式軽飛行船だ。周囲には物珍しげな見物人が取り巻き、航空部の部員はそれに紛れるように着々と最後の調整を行っている。学園祭が始まれば実際に生徒を乗せて遊覧飛行を行うはずである。
「……よく、許可が下りたもんだな……」
ラオールのセリフそのままに口にして、泉本が呆れるように飛行船を顎で指す。それにつられ久美子もそちらへと視線を移した。
「ホントですねぇ……」
しばし作業の手を止め飛行船に見入る。部員らしい人影がゴンドラの周囲を忙しく駆け回っている。
やがて、堪え切れずに泉本は口を開いた。
「ところで……さっきから気になってたんだが……、お前、そのコスプレで店に出るのか?」
「はい?」
問われた久美子は可愛らしく首を傾げる。
本人にはまるで自覚は無いが、純白のフリルで縁取りした夜色の短いビスチェ。ふわふわのパニエがいっぱいに詰まった、やはり夜色のミニスカート。目には赤のカラーコンタクトをはめ、付け毛した後ろ髪は銀色。これでマントでも羽織ってはいればどこから見ても立派な女吸血鬼である。
「マントもヒールもブーツとかもありますよ」
「エスパー?」
思わず意味不明なことを口走ってしまう。
「? ヘンですか?」
怪訝そうに、やたらと露出の多い、下着姿のような自分の身体を見下ろす。
「大丈夫。とってもとっても可愛いから」
「はい! ありがとうございます!」
横から口を挟んだ天宮に、やたらと元気な返事を返し、泉本はその元気さに思わずため息をついてしまうのだった。
「わたしも明日の服、用意しなきゃね」
変装用とコスプレ用が大半を占めるとはいえ、天宮はベルほどではないにしろけっこうな衣裳持ちだ。で、休憩がてら早速着替えてきたのがよりによってメイドさんウェイトレス。衣裳に合わせて、髪もごく自然に短くなっている。
「……とりあえず、いいかげんにしとかないと、関係各位様から叩かれるぞ……」
「他にも色々してますからねぇ」
自分の姿を棚に上げ、久美子がしみじみ言った。
「これ、ダメかな……?」
「ダメじゃないが、いろんな意味でヤバイ」
「メニューに『ご主人様』が一五〇円とかですね」
その場にいた全員が久美子を振り返り、唇に人差し指を当て、『しー』と声をそろえた。
「ナイスだが、それがヤバイっての」
「あ、はーい」
「とりあえず、別のにしてくるわ」
「そうしてくれ」
疲れたように泉本は言った。
「あ、そう言えば、服と言えば光センパイの飛行服って……」
飛行服と飛行船から何かを連想したらしい。が、それがなかなかうまく言葉にならない。久美子がうんうんうなっている間に、誰かが声を上げた。校庭で作業をしている航空部員の中には光のそれと似たような飛行服姿が何人かいる。疑惑まじり……と言うか、非難まじりのはずなのにどこか期待したような視線がいくつか光に絡みつく。
「この格好はただのシュミ」
当の光はにべもなく切って捨てた。
結局、全ての準備が終わったのは前夜祭が始まる頃だった。
窓の外にはすでに夜の帳が降りている。開け放ってある窓からは夜風とともに、オープニングプログラムのライブの喧騒が流れ込んでいる。曲は『スタンド・バイ・ミー』。ボーカルに聞き覚えはないけれど、それは光が好きな歌。まるで、今この瞬間のために用意されたもの。
「月もちゃんと見えてるしね」
光は隣に座って曲に聞き入っているのか、軽く目を閉じている玲の腕に自分の腕を絡ませそのままもたれ掛かる。その温かさが好きな歌以上に彼女の心を安らがせた。玲もそうされるのが当然のように、左肩にかかる柔らかく、温かな感触に、わずかに自分の重みを傾ける。とっくに飛行服を脱いだ光は、ごくシンプルなワンピースに着がえている。玲は昼間から変わらない暗色系の出所不明な戦闘服のアンダーウェア。互いの触れ合っている肌が強く密着する。
初号試写はすでに終わっている。本開演は初日の午前十時から。結局、泊まり込みになってしまったけれど、やっておくべきことは全て終わっているのだ。それまではみんな自由行動になっている。今頃はみんな前夜祭をうろついたりしているのだろう。
「玲?」
返事は無い。
「寝ちゃったの?」
「いや、起きてる」
息を継ぐ間を空けて返事が返ってきた。特に意味があったわけではない。ただそうしたかっただけ。いつのまにか次の曲が始まっている。
『アウト・オブ・ザ・ブルー』
――別に意外でもなんでも無いわよね。
「今、玲と二人きりだからって、夢が叶ったって言うほどじゃないのよね……」
「……何のことだ?」
怪訝そうな玲の声。振り返ろうとするのが肩の動きで分かる。
「あ、あれ? 独り言のつもりだったんだけどね……」
後半が言葉になっていた。照れ隠しのつもりか光自身も意識しないうちに玲の手を取りマッサージのように弄び、ボーカルに合わせて歌詞を口ずさんでいた。
「あー、うん。あたしは玲のことが『好き』だってことなのよ」
曲の終わりと共に、途中経過を全部すっ飛ばして、きっぱりと言ってのける。
「そうだな。その通りだな」
至近距離で見つめ合う。玲がこうゆう反応を返すのはめずらしい。いつもはもっと素っ気無いのに、ふと、そんなことを考えてしまう。見つめ合っている、それだけのことが何だか可笑しい。かすかな笑みをもらす。玲の困ったような笑み。それらはやがて声を上げた笑い声になる。何がそんなに可笑しいのか二人にも分かってはいない。互いに互いの重みを預けて、安心できる相手がそばにいることを感じながらそうしていた。
ひとしきり笑いが収まる頃には、ライブも終盤に入っているのか、聞こえてくるのはバラード中心になっていた。
「ね、玲ってさ……こうゆうの、嫌い?」
なにがだ? と首を傾ける。
「あ、ほら、あたしって、こうやってみんなで集まってわいわいやりながら何かをしてると、時間とか気にならなくなる方だし」
そのことか。とようやく得心がいったように軽く頷いてから、首の動きだけで否定を示した。
「まあ……あまり好きじゃあないがな……」
光が予想した通りの答え。
「やっぱりね、そうだと思ったのよ。なんだか欲求不満――な顔してたからさ」
「まあ……それでも、全部が全部つまらないってワケじゃあなかったがな。
見境無くしかけた部長を止めたり、資材の調達であちこち出歩いたり、土壇場になって会場の設営をしていないことに気付いたり……、
いや――冷静に並べ上げると、あまり面白い目にあってないか……」
言い訳じみた言い様であるのは玲自身も自覚している。しかし楽しいと思えることも確かにあったのだ。
「やっぱり言い訳だな。本心を言えばこういう騒ぎは趣味じゃない」
「そうね」
二人してあっさり認める。
――だから、こいつとは一緒にいたいんだよな……。
へたに気遣ったりせず、簡単に言ってのける。それがお互いにできるからこそ二人でいられるのだ。
「そう言えば……剣道部の方、全然顔出してなかったなぁ……」
気抜けた呟きはたった今思い立ったように唐突に光の口をついて出た。二人ともいくつかのクラブを掛け持ちしている。光は陸上部と剣道部、それに空手部と格闘技同好会。玲は格闘技系のクラブ全般。さらにはどちらも全国大会級の技量の持ち主である。実際、昨年の全国大会出場の原動力といっても過言ではない。なのに当人たちはそんなことにはまるで興味すらも示さずに、文系クラブに入り浸っていた。
「オレもだ。他のクラブには顔も出してなかったな……」
されるがままに充分に揉みほぐされた左手に替わり、今度は右手を差し出す。躊躇無くその手を取り、再びマッサージし始める。
――身体を動かすのは好きなんだけどねぇ……。そう言えば、最近、玲とも組手していないなぁ……。
玲は剣道部にも籍を置いているから、正確には組手ではないが、いつもルール無用の撃ち合いになってしまうのだ。もっとも、彼が七分から八分くらいに力を押さえてようやく互角に打ち合えるところまで持っていけるのだから、今までに勝ったことは一度もない。光が弱いと言うより、玲が強過ぎるのだ。
ちらりと玲を盗み見る。と言っても肩を寄せ合っているのだから、気付かれずにと言うのは無理な話である。案の定、気付いた玲と再び至近距離で目が合う。視線だけで「なんだ?」と聞き返してくる。
「あ……うん。あの、えっと……」
言いたいことはいろいろあるのに、それがうまく言葉にならない。伝えることの不便さに、言葉でできることの限界に取りあえず心の中で毒づいておく。
「欲求不満ならさ、あたしでよかったらいつでも相手になるからさ」
瞬間。全機能停止という世にも珍しい玲が、わずか一秒にも満たない時間だが光の目に飛び込んで来た。
「何をそんなに……」
言いかけてから気付いた。自分のセリフに。
「あ、いや、違うの! いや、違わないんだけど、ええっと……そうじゃなくて!」
とっさに否定しかけて、もちろんそれは否定できないのだから今度は否定を否定する。もはや何を言っても泥沼でしかない。まるで茶化していない真摯な視線を向け無言で見つめている玲を低く唸って上目遣いに睨みつけて、力無くあっさり玲にもたれかかる。
「……玲ってさ、なんだかいつも物足りなさそうにしてたから、全力で戦えば少しは気が晴れるんじゃないかなぁ……って、思ったのよ」
本来のセリフを吐き出してから、さっきの自分の言い様を思い出し軽くため息をつく。
――そうなったって、不思議じゃないのよね……。
玲と身体を重ねるシーンを想像してみる。
知らず、熱いため息がもれた。
握られたままの右手が、たぶん、痛い。
その痛みも一瞬忘れた。
光のあまりに大胆というか、めったに聞けない言い様にとっさに玲はいつもの無表情を装ったが、内心は一瞬意識が飛ぶくらい動転していた。何を言うべきか、何を言えばいいのか、言いたいことはいくつもあるのに、それがうまく言葉に出来ずに、光を見つめ返すうちに彼女から身体を預けてきた。
「……玲ってさ」
躊躇いがちに口を開く。
「なんだかいつも物足りなさそうにしてたから、全力で戦えば少しは気が晴れるんじゃないかなぁ……って、思ったのよ」
はう、と息を吐き出す動きがそのまま身体に伝わってくる。
――見切られてる……なあ……。
御門光。
――だから、こいつには敵わないんだよな。
だから、離れがたく、抗い難いのかもしれない。
知らず、熱いため息がもれた。
同時にもらした熱い息に同時に振り返り、視線が絡み合った。
――まあ、いいか。
同じ呟きが、同じように形を変えた口から紡がれる。
二つの影は自然に重なった。
二つの影は自然に重なった。
それを見た瞬間、リアは迷わずレヴィテイションした。してからそれは禁止されていることを思い出した。しかし、今の彼女にはそんなことどうでもよかった。とにかく、今すぐこの場を離れたかった。
どこへ?
どこへもあては無かった。
ただ、大好きなはずの貴也の所にだけは行きたくなかった。
いや、行けなかった。
あの二人を見てしまったからこそ、行けなかった。
――愛してる。
あの二人が互いへと差し向けている想いは間違い無くそれなのだ。二人がいた教室では押し殺しきれない艶めかしいスタッカートが響いている。妄想でもリアは自分と貴也を二人がするように重ねようとして――失敗した。
貴也のことが好き。これが『好き』という気持ちなのだと、誰に遠慮することなく、たぶん、言える。自分自身のその想いに自信を持っていられる。
では、貴也は?
いつも、大切にしてくれている。
いつも、気遣ってくれている。
いつも、心配してくれている。
いつも、いつでも……。
――でもそれは、アタシが願っているものじゃないのよ。
気がつけば、屋上にレヴィ・アウトしていた。どこかのクラブが催し物で使う、作りかけの何かの装置が設置されている。無人の上に照明まで落とされているので、ただ、そこにある。それだけだというのに何かもの悲しい。
「アタシだって、女として見られたいもの。
貴也から頼られたい。
貴也に甘えられたい。
もっと、もっと……」
あの二人が羨ましかった。妬ましいほどに羨ましい。互いに求め必要としている相手にめぐり逢えたのだから。あの日、英荘へと来た時、貴也に出逢った時、自分のその相手が貴也なのだと思った。そうならいいのにと思った。でも、違う。
――違うのよ……アタシじゃない……。貴也が、いつも見つめている先が分かっちゃったんだもの……。
脈絡も無く気付いた。
いや、いつも貴也を見ていたからこそ気付いた。
「フォル姉さん……」
今、リアは決断を迫られていた。
クレア「ワタシたちにもう一度始まりを……。
次回、『痛み』」