痛み

 

 

「こっちよ、すわって、貴也」

英荘の屋根の上、いったい誰が見つけたのか思いついたのか、二階の談話室の窓からロープを使って屋根に上がれるのだ。貴也も最初は止めていたけれど、今ではお茶会や昼寝、考え事、あるいはたんにボーっとしたりするのに活用されていて、貴也自身も利用するようになっているので今では止めたりはしない。

まだ少し空気は肌寒いけれど、その見晴らしは山の麓にある街を一望できるほど素晴らしい。

「はい、貴也、どーぞ」

お茶を淹れ、それを対面に座ろうとする貴也に差し出す。

「ああ、ありがと」

腰を下ろしリアからお茶を受け取り、さっそく一口含む。

「うん、おいしいよ」

「えへへ、ありがとう」

リアも初めて出会った頃に比べるとこういったことも慣れてきた。あの頃は料理には触ったことも無かったのに、今では貴也とは比べ物にならないほどに上達している。ほっと一息つき、クレアがレヴィテイションで持ち込んだ卓袱台にカップを戻す。

「……しかし、クレアさんも自分でサイをなるべく使わないようにって言っておいて、『卓袱台(これ)は必要なこと』って言い張るんだもんなあ……」

「そうよね……、でもクレア姉さんらしい」

くすくす笑いをもらしながら、そうして、しばらく夜風に吹かれていた。

リアは街並みを見つめる貴也の横顔を盗み見た。ここへと誘った理由も伝えるべき言葉も決まっている。貴也にどう思われても自分の心は変えられない。何度か口の中で繰り返し空を見上げた。

「見て、貴也、綺麗よね〜」

リアが見上げる先には、満天の星空が展開されており、確かに綺麗だ。しかし、星空は綺麗だがリアの様子がおかしい。いつにもましてはしゃいでいるように見える。

「いい星空ね。

――お別れしましょう。貴也」

行き去る微風に乗せ、さらりとリアは言った。

天空の彼方には無数の星が瞬き、地には街の明かりが人の数だけ瞬く。

「……リア?」

打って変わって真剣な、決意に満ち満ちた眼差し。

「いつからか、貴也はアタシをマリアじゃなくて、リアって呼ぶようになったわ。

だから、分かったの、アタシがどんなに貴也を愛していても、貴也にとってアタシは妹みたいな、家族みたいなもので、一人の女として心から愛される存在にはなれないって……。

――最初はね、それでもいいな、って思ってたの、貴也といられるんだから……でもダメだったの、貴也が見てるのはいつもフォル姉さんなの」

「リア、オレは……」

「いいの、人を好きになれないのは悪くないもの」

「ごめん、リア。君は怒るかもしれないけれど、それでもオレは、フォルが好きなんだ。リアよりも、他の誰よりも、フォルと一緒にいたい、側にいて欲しいと思うんだ」

吐露された想い。

重ならない願い。

繋がらない未来。

すでに、道は別ってしまった。

「そっか、よかった」

 満天の星空の下、リアは微笑み言葉を紡ぐ。

「ねえ、貴也……、フォル姉さんにちゃんと告白してね。姉さんだってきっとそれを待ってるもの」

「でも、フォルは……」

リアを裏切ることになった自分がフォルから愛されるとは思えない。許されるとは思えない。不安は見えない所でどんどん大きくなっていく。

「『でも』は無し」

貴也の不安を先回りして押し止め、

「大丈夫、フォル姉さんも貴也が好きよ」

きっぱりと断言する。その笑顔に貴也は静かに頷いた。

その真摯な視線に満足げに頷き、リアはさらに言った。

「フォル姉さんと『一緒に』幸せになってね。

――間違えないでね、貴也。フォル姉さんを幸せにしてあげるんじゃなくて、二人で幸せになるのよ」

気丈に笑って見せるがそれも長くは続かない。

「アタシね、ホントのこと言うと、最近は貴也といっしょにいるのがつらかったの。貴也がアタシのこと凄く大切にしてくれるのは分かるけど、アタシに甘えてくれたり、頼ったりしてくれたこと無いでしょ? なんだかね、さみしくなっちゃったの……。姉さんたちのようにアタシを大切に愛していても、アタシに恋してるんじゃないんだって分かっちゃたから……」

沈み込みながら、ぽそぽそと言葉を繋げる。と、不意にリアは口をつぐんだ。

「リア?」

心配して貴也は声をかけるが、そのリアはそれをよそに屋根に手足を投げ出して寝転がる。

「い〜きもち〜、全部言ったら、アタシなんだかスッキリしちゃった。

貴也、フォル姉さんのこと、お願いね」

リアが貴也に向かって左手を差し出す。貴也はそれを取る。

静かにリアは立ちあがる。見つめる先は遥か彼方。

その横顔は、貴也の不安を解消し、別人かと思うほどに凛としている。

「だからね、アタシ、もう決めてることがあるの」

風に吹かれるままに言葉を紡ぐ。

「アタシ、探しに行こうと思うの。アタシだけの、アタシだけが愛し、アタシだけを愛する、たった一人だけのアタシの『素因』を……。

あ、でもね、カン違いしないでね。フォル姉さんや貴也のために英荘を出るわけじゃないの。アタシは行かなくちゃならないの。

――だから行くの」

確かに別人だ。それまでのリアとは違う、恋の終わりを知って、彼女の内面が違うものへと変化したのだ。

「それで帰ってきたらね、アタシもベルみたいに貴也のことを『兄さん』て呼んであげるね」

屈託無く言うリアに、もはや迷いは無かった。

だから、リアが見つめているだろう街並を眺めながら、貴也の心は決まっていた。

――フォルに告白を。

 

 

「フォル……あのさ、話があるんだけど……」

「はい、なんですか?」

共同リビングで、読んでいた雑誌からフォルは目を上げた。

今、この部屋には二人の他に誰もいない。クレアとメルの姿が見えないのはいつものこと。セフィはふらりと出掛けたまま。ラオールとジゼル、ラムは出かけている。ベルとリア、ミリはまだ帰ってこない。

二人っきりだ。

一歩、二歩とフォルへと近付き、

「ずっと、オレのそばにいて欲しいんだ」

いつからだろうか? こんなにもフォルに心惹かれるようになってしまったのは。初めて会ったあの日からそうだったのかもしれない。それとも、今までの時間をかけて少しずつ彼女に惹かれていったのだろうか? 今となっては分からない。

ただ一つ確かなことは、フォルシーニアを好きだという、愛しているこの気持ち。

「わたしはここにいますよ?」

「そうじゃなくて……」

相変わらず、ボケた反応を返すフォルだが、貴也の真剣な眼差しにようやく気付いた。

「ずっと、言いたかったんだ、フォルに……フォルのことを好きだって」

「貴也さん……!」

フォルは答えない。

いや、答えられない。

それはフォルも同じこと。

いつの頃からか貴也に心惹かれていた。

初めて会ったあの日からだったかもしれない。それともゆっくり時間をかけてだろうか? だが、もうそんなことはどうでもいい。かつてメルキュールが言ったように恋の始まりに理由は無いのだ。

それでも、リアのことを思えば、貴也の気持ちに素直に応えられない。

「……………………リアは、どうなりますか……?」

ズキリと、貴也の胸が痛んだ。

それがどれほど卑怯な言い様かはフォルにも分かっていた。しかし、リアのことを思えば言わずにはいられない。彼女の気持ちを知って、なお、それを無視してまで自分の想いを通したくは無い。

「ごめんなさい、こんな言い方ってずるいですよね」

貴也が何か言う前にフォルは言った。

その貴也は首を振り、

「オレが悪いんだ。オレがもっとはっきりしていれば良かったんだ」

フォルの隣に腰掛けた。

貴也自身の優柔不断さにより招いた事態なのだ。

リアから愛されていることは分かっていた。しかし、貴也にはリアを妹以上として、家族としてしか見ることができなかった。恋愛の対象として見ることはできなかった。

恋は一人では叶えることはできない。そう言ったのは誰だったろうか? その通りなのだ。もう自分の気持ちを偽ることはできない。フォルへの想いをこれ以上抑えることはできなくなったのだ。

「リアは……リアとは、もう話して、二人でそう決めたんだ。オレがここにいることも、リアがそうすることも。二人でそう決めたんだ。ずるいやり方だと思うけど……、それでも分かって欲しいんだ、リアのことが嫌いになったからじゃなくて、自分の気持ちに正直になろうってことを、

それが、君を――フォルシーニアをこそ愛しているのだということを」

貴也はリアと言った。マリアではなくリアと。

これまでは貴也だけがマリアと呼んでいたのに、今確かにリアと呼んだ。

フォルシーニアには分かってしまった。その想いが、たとえリアを傷つけることになったとしても、それを受け入れてなお、貴也は自分の気持ちを変えることが無いのだと。

そっと、貴也に触れる。

迷いは――もう無い。

「ね、貴也さん、知っていました? わたし、あなたが大好きなのですよ。たぶん、初めて会ったあの日から、ずっと好きだったんですよ」

触れていた手で貴也の腕を取りもたれかかる。

人の肌の暖かさが心地いい。

「ご存知ありませんでした?」

フォルを見る貴也の目は優しくもあり真摯だ。

「あなたの全てを愛しているのですよ。

リアから――ラムからも愛されていること、わたしを愛してくださること、そのために他の誰かから愛されることを失ってもいいと思っていらっしゃること、貴也さんが持っている全ての強さや優しさ、醜さ、汚さも含めて、

貴也さんの全てを愛しているのですよ」

「フォル……オレだってそうさ、君の容姿にだけ惹かれたんじゃない。君が持つ――君の心の内にある、強さや弱さ、悲しみや喜び、つらさ、優しさ、フォルを形作っている全てのもの。

オレにはフォルの背負う『お役目』は分からない。でも、全てのことからフォルを支えたいんだ」

見つめ合い、そっと抱きよせる。

互いの吐息が触れるほどに顔をよせ、

自然に合わされる唇と唇。

至福の時間。

そっと顔を離し至近距離で見つめ合う。どちらからとも無く笑いがこみ上げてくる。

「愛してますよ。あなた」

「オレもだよ。フォルシーニア」

互いの吐息が感じられるほどの距離で、

「……今日は、みなさん、出掛けてらっしゃるのですね。

――……わたしたちだけ……」

伏目がちに、頬を赤らめ、躊躇いがちに、フォルシーニアはそう口にした。

その意味するところを分からないほど貴也は鈍くない。もう一度唇を重ねた。今度は重ねるだけではない。より深く、互いを感じるように、強く、強く。

そっと、二人はリビングを後にした。

欠けたものが補い満たされてゆくのが分かる。こうしたかったのだと、この人と共にいたかったのだと。

二人の幸せはここから始まる。

 

 

「うん? リアムローダか」

「あ、ラオール……」

今日もリアは屋根の上で、ひとり星を見上げていた。

「どうした? あ……っと、ひとりか?」

「うん。ラオールこそどうしたの?」

「ちょっとな……、考え事だ」

卓袱台を挟んで、リアの向かい側に座る。同じように夜空を見上げた。雲に隠れて満天の星とはいかないが、麓の街中に比べればずっと星は見える。

星を見上げながら適当に相槌を打つが、ふと、リアは閃いた。

「考え事って、ベルのこと?」

ラオールは弾かれたように顔を上げ、そしてまたうなだれるように顔を伏せた。

「ああ……うん、考えてる、いや、迷ってるのかな……」

言ってその場で横になる。自然、星空が目に入り、うろ覚えの知識で反射的に星を繋げて行く。

「さっき、ひとりかって訊いた時に何か言いかけたでしょ? あれ、貴也がいなくておかしいって思ったでしょ」

頷くラオールを見つめながら、言葉を紡ぐ。

「貴也とはね、お別れしたの」

言いたいことや、瞬間的に思いついたことはいろいろあった。が、言葉になって出たのはたった一言だけだった。

「なぜ?」

「なぜ、か……、そうね、貴也にとってアタシは一番じゃなかったし、アタシにとっても貴也は一番じゃなかった。からなのかな」

微笑むように、おどけるようにリアは語る。が、ラオールはそこから彼女の本当の心の内を読み取ることはできなかった。

「それでいいのか? 一番じゃないからって、それで自分の心まで割り切れるのか?」

「『割り切った』んじゃなくて分かったの。あとになって考えてみるとね、貴也のアタシへの『愛してる』は家族に対するそれなの。で、アタシの『好き』は、そんな貴也への憧れなの」

二人は押し黙ったまま見つめ合う。リアは上から、ラオールは下から。間にはほどよく使い込まれた卓袱台があるのみ。夜風はそろそろ冷たくなってきている。屋根の上での星狩りもお茶会も、厳しい季節になってきた。

視線は、ラオールから先に外された。

「薄情なんだか、冷たいんだか、切り替えが早いんだかよく分からんな……」

「どれもはずれよ。アタシたちはね、自分に正直になろうって決めたの」

正直。その言葉でラオールは自分が何に迷っているのかはっきりと自覚した。

「エインデベルか……」

無意識に呟いていた。

「ねえ、ベルとはもう寝たの?」

ラオールは、思わず支えを失ってそのまま屋根を滑って落ちて行きそうになった。屋根の端から膝から下がはみ出したところでなんとか踏み止まり、慎重に元の位置へと戻って行った。

「おおげさね」

「いや、いきなりだったからな……」

「それで、どうなの?」

「いや、オレは別に……」

「別に、なんなの? ラオールはベルに何も感じないの? 好きだと思っていればそれでいいの? プラトニックもいいけれど、それで二人ともガマンできるの?」

卓袱台を回り、詰め寄るリアに気圧されるように後ずさった。

「待て。ちょっと待て、落ち着いてくれ」

両手でリアの肩を押しやり、

「事情が変わったんだ。ジゼルの目の手術が受けられるんだ。で、その手術を受けるためにオレたちは国に帰らなきゃならない」

「いいことじゃないの」

「最後まで聞いてくれ。――オレたちは帰ったら、いつまた、日本に来れるか分からない。へたをしたら、二度とここへは来れないかもしれない」

リアは、おおげさにため息をついた。

「クレアリデルみたいだな。そうゆう仕草は」

「今のはアタシもそう思ったわ。――ねえ、迷ってるんでしょう? だったら、答えはもう出てるんじゃない?」

暗に攫って行けと言っているのだ。それはラオールにもよく分かる。彼自身本当にそうしようかと思ったのだ。屋根の上で立ち上がる。リアもそれに倣うように、ラオールに寄り添って立つ。

「戻るか」

長身を屈め、ベルへとするようにエスコートする。

「ベルに話もあるしな」

「アタシも」

そうして二人は夜の屋根を後に別れた。

 

 

「ね、ベル……今夜は一緒に眠ってもいい……?」

躊躇いがちのノックの後、迷いながらもリアはそう言った。

「どうしたのリア?」

「久しぶりだなあ、って思ったの」

初めて、地球に降りた頃はさみしくて、よく一緒に眠ったけれど今では――英荘に来てからはそんなことは無い。

ベルのベッドにもぐりこみ、リアはいきなり本題から切り出した。

「アタシね、行こうと思うの」

「行くって、どこへ?」

髪を梳かしながら、鏡に写るリアに訊き返した。

「まだ決めてないわ。

――でも、まずはここではないどこかへ」

思わずベルは振り返った。

「リア、それってどうゆうこと!?

分かっているはずなのに、つい、訊き返してしまう。

「アタシね、アタシだけの『素因』を探しに行くの」

「だって、貴也さんが……」

「貴也はね、フォル姉さんの相手だもの、それにフォル姉さんの相手も貴也だもの。二人ともね、それに気付いたの」

だから行くの。そう言うリアの微笑みには一点の曇りも無い。揺るがない決意を感じさせる。だが、ベルはあえて言った。

「だからって出て行くことは無いわ!」

「ベル……貴也にも言ったけれど、フォル姉さんや貴也のために英荘を出るわけじゃないの。

アタシはアタシ自身のために、そうすることに決めたの。

――わかって、ベル……。

それにね、アタシ、フォル姉さんにもクレア姉さんにも同じことを言ったの」

ベルは黙って、続くリアの言葉を待っている。

「姉さんはいいって言ってくれた。アタシの思うようにしてもいいって言ってくれた」

ベルにはもはや言うことは無かった。敬愛するフォルシーニア、二人をここへ送り込んだ張本人であるクレアリデル、この二人がいいと言ったのであれば、ベルがあえて言うことは無い。それでも、感情の上で完全に納得できはしない。

「そんな顔しないで、ベル……」

リアにそれが分からないはずも無かった。『お役目』を果たす為に創られた擬似生命だとしても二人は双子として生み出されたのだ。互いはもう一人の自分のような存在。

「リア、あなたが決めたことだもの、あたし、何も言わないわ。

――でも、一つだけ……。

必ず、帰ってくるのよ」

答えるように、リアは微笑みを浮かべた。

ベルにはそれだけで満足だった。

「それじゃ、寝ましょ。――おやすみリア」

「うん。おやすみ、ベル姉さん――」

「リア? 今、なんて言ったの?」

「おやすみ、って言ったのよ」

ベルと『光の子』を産んだマリアとの再会が、意外に遅いものになることを、彼女たちはまだ知らない。

 

 

「オレたち、国へ帰らなきゃならないんだ」

ラオールはベルに本題から言った。

「どうして?」

言いつつベルは不条理な思いに捕われていた。

――どうして? こんなにもあたしが好きな人たちはあたしから去って行ってしまう。

「ジゼルの目の手術が受けられるんだ」

いまだに光を失ったままでいるジゼルを思えば、『行かないで』とは言えなかった。

「いつ、帰るの?」

「まだ決めてない。でも、準備ができたらすぐ出発する」

「………………」

「………………」

しばし言葉が途切れる。

「ジゼルの目の手術って……?」

「ああ、以前お世話にになった先生が、直接手術をしてくれるんだ」

「それって、貴也さんのご両親のこと?」

ラオールは力強く頷いた。

この意外な繋がりが知れたのは、ラオールたちが引っ越してきた夜だった。引っ越し祝いが進むうちにラオールたちの国の話になり、彼が尊敬する先生の話題が引き出され、話してみれば貴也の両親とよく似ている。特徴を突き合わせ、名前を確認し、ついにラオールたちの先生が貴也の両親と発覚したのだ。

またしても、言葉が途切れた。

言いたいことはまだまだある。

しかし、うまく言葉にならない。

「……いつ、帰ってくるの……?」

だから、つい、避けていた言葉が口をついて出た。

「……わからない……」

ラオールにはそうとしか言えなかった。

彼は以前、先生たちから、ジゼルの目が治ったら自分たちと一緒に医療に携わっていかないかと誘われている。彼らはラオールの目標なのだ。ジゼルの目が治れば拒むべき理由は何も無い。そうなればすぐには英荘へは帰ってこれないかもしれない。

「あたし、行くわ」

「ベル?」

「あたしもラオールと行くわ」

きっぱりと言った。

 ラオールが予想した通りの答えだった。

「言っておくが、いつ帰ってこれるのかも分からないぞ」

「ねえ、ラオール、いつ帰ってくるのかなんて関係ないの。あなたはあたしを置いて行くつもりだったの?

あたしはね、好きな人とは一緒にいたいの、離れたくないの」

見つめ合う。エインデベルの眼光は相変わらず鋭い。

あらためてエインデベルと、だからこそ、そんな彼女を好きな自分の心とを、思い知った。

ため息に乗せ、ラオールは呟いた。

「オレと来てくれ」

そう、一言だけ。

 

 

『静かに、なったねえ……』

ソファに深々と沈み込んだまま、共同リビングに入ってきた二人の気配に、ラムは話し掛けた。

「そうですねえ」

おっとりした物言いで答えたのはセフィだった。

クレアは黙ってソファに腰掛けた。セフィもそれに倣う。

『めずらしいね、クレアとセフィが一緒なんて』

そんなラムの軽口にもクレアは乗ってこない。その反応の無さにラムは何となく肩をすくめた。

誰もが言葉を発しないまま、ただ、そこにいた。

沈黙の中ラムは思いを巡らす。

あれ以来、英荘の住人は減ってしまった。

貴也がフォルに告白し、リアはマリアとしての自分自身のためだけの『素因』を探す旅に行き、そのすぐ後には、ラオール、ベル、ジゼルの三人はジゼルの目の手術を受けるために帰国した。

貴也、フォル、クレア、メル、ミリ、セフィ、そしてラム、今、英荘の住人はこの七人だけだ。増改築がされ、以前よりは部屋数も増えたのに、新しい住人の方は増えない。ただ、ここに住む者たちにとってはその方がいいのかもしれない。すでに英荘は彼女たち――天使や堕天使にとっては聖地としてなくてはならない存在となっていた。

ここは彼女たちに安らぎを与える。――それがたとえ一時的なものだとしても、笑い、怒り、泣き、傷つき、喜び、心の平安を与える。それは彼女たちを『お役目』に縛られた存在から違う者へと変化させる可能性を感じさせた。

あるいはすでに変わりつつあるのかもしれない。

ベルとラオールとが愛しあうように、

リアが恋の終わりを決意したように、

フォルが貴也の想いに応えたように、

聖地は彼女たちに影響を与える。

「…………なによ?」

物思いに耽るラムの沈黙は、かなり遅れたクレアにより打破された。

『べつに、ただ、ここに来てからのことを思い出していたんだよ』

何となくはぐらかされたようで、クレアは軽くため息をつき、

「仕方ないでしょう? フォルは貴也に取られちゃったし、ベルもリアも行ってしまったんだもの」

『メルは?』

「あの娘はいいのよ。特別だから」

『そう?』

「そうよ!」

挑発するようなその涼しげな言い様に、クレアは語気を荒げて答えた。

その言い様が無性に苛立たしい。実際にそれは挑発なのだ。

「そうじゃなきゃ、どうしてこのワタシがセフィなんかと……」

すでに感情の暴走は止まらない。

「ええ、セフィなんて嫌いよ! おばかで、一途で、純粋で、何も疑わずに今を幸せに生きていられるのよ! 

嫌いに決まっているじゃない!

ワタシに無いモノを全部持っているのよ! それなのに、どうして好きになれるのよ!

嫌いよ! だいっ嫌い!!

ワタシだってね! ワタシだって……」

あとは声にならなかった。

人前では決してそうしないはずのクレアリデルの、無理矢理、嗚咽を噛み殺しているような息遣いだけ。

「アタシは、クレアさんのことを嫌いじゃありませんよ」

「……っ! ワタシは!」

あきらかにクレアリデルは動揺していた。たった今、大っ嫌いだと言ったのに、それなのにそれを言う――当然のようにそれを言うセフィに。

「だって、クレアさんはみなさんの幸せを思って、いつもそんなに一生懸命なのでしょう? だから、アタシ、クレアさんのこと、嫌いじゃありませんよ」

クレアリデルとセフィネス。

生きることに純粋に楽しみを見出しているセフィネス。

穏やかな日々の為に、今の苦しみを抱えるクレアリデル。

この二人は対極にいる。

だが、ごく自然に、セフィは泣き崩れるクレアを抱きよせた。クレアもそれを跳ねつけたりはしない。そうされることを完全に受け入れている。横で見ていたラムにとっては信じがたい光景だったけれど、何の違和感も無く二人はそうしている。

かつて、まだ天界にいた頃、フレイとユーナはセフィを『聖地』のようだと思った。それは今も変わらない。いまだ天界にいるあの二人は、心の喪失感を克服できずにいる。クレアリデルは、今、セフィネスにより安らぎを得ている。彼女たちと同様、セフィから安心を受け取っている。

クレアリデルもあの二人と同様、セフィネスの胸の中で幼子のように安心している。

――『聖母』

なぜか、ラムにはそう見えた。

セフィの腕に抱かれるクレアリデルと、自分自身の姿がどうしても重なってしまう。否定できないことは彼女自身が一番よく分かっている。だから、クレアリデルの弱さを目の当たりにしても何も言えなかった。

クレアが落ち着くまで、セフィはそうしていた。

 

「ワタシは、アナタもここを去るのだと思ったわ」

落ち着くなりクレアはそう言った。

『なぜ?』

クレアは答えない。その答えないクレアの代わりという訳でもないがセフィが言った。

「ラムは貴也さんが好きなのでしょう?」

ラムも、クレアまでもが過剰な反応で見つめ返すぐらいあっさり言ってのけた。

違うんですか? と罪のない笑顔でにこにこしている。

『え、えーと……そうなんだけど……その、もうちょっと、言い様があると言うかなんと言うか……』

つい、ぽろっと本音が出てしまう。

「はい……?」

そんなラムにも気付かずに、可愛らしく首をかしげる天然ボケぶりにラムは大仰にため息をついた。

顔立ちだけならどこかの上流階級のレディで通用するのだが、今回のように核心を突き、しかもそれを深い考えも無く口にする。時にそれによって頭を抱えるような事態になることもある。

ただ、本人には全く悪気は無いのだ。

「それで、どうするつもりなの」

それまで、二人のやり取りを面白そうに眺めていたクレアが、横合いから訊いた。

『待つよ』

事も無げにラムは言った。

「そうなさい」

『うん、クレア姉さんが言ったんだよ。だから、ここでみんなを待つよ。

ボクにはね、もう()()でできることは無いんだ。『素因』を消去する目的も果たせず、かといって超未来へ帰る手段も無い。

――そんなボクにフォルは言ったんだ。『わたしたちの聖地――英荘でいっしょに生きてゆきましょう』って、

――だから、いつ、みんなが帰って来てもいいように()()で待つんだ』

これからを生きてゆくための目的をこめて、そう言った。

「『姉さん』ね……。嬉しいことを言ってくれるのね」

ゆるゆるとクレアは微笑む。

「アタシのことも待っていてくれるんですか?」

『待っているよ』

眩しそうにラムを見ながら言うセフィに、静かに重々しく頷いた。

その肯定がセフィには嬉しくもあり悲しい。彼女は一番目のベスティアリーダー。堕天使としての実力は最弱の部類に入る。いや、はっきり言えば最も弱い堕天使である。その彼女が『第一天使』と戦い『最後の審判』を生き残ることはできないだろう。

――きっと、その戦いで生き終わってしまう。

それは彼女自身がよく分かっている。

帰ることの無い人を待つことがどれほど悲しいことか、

それでも、『待つ』と言うラムの言葉に救われた気がした。

「ありがとうございます」

だから、満面の笑みでそう言った。

だが、セフィは知らない。その笑顔でどれほどラムが救われたかを。

生命を捨ててでも、リガルード『人』を消滅させ、超未来を救わねばならないラム。

一番目の堕天使としてエインデベルと最初に戦うセフィ。

生きては帰れぬ使命を背負った二人はどこか似ている。が、似てはいても二人は決定的に違う。目的を果たせぬラムは苦悩し、フォルにより救い出された。しかし、これからを生きてゆく苦しみまでが消えたわけではない。だが、セフィは訪れる世紀末の悪夢にうなされようとも、いついつまでの命だと、死の宣告である『最後の審判』までの日々を精一杯自分らしく楽しく生きている。

――どこで終わってもいい。

そんな風に考えていたラムは、その前向きさに苦しみが和らいだ気がした。

救われた気がした。

だから、ラムはセフィの帰りを待つのだと決めた。

「クレアさんはどうなのですか?」

そのセフィが無邪気に訊いた。

「ワタシ? ワタシは見続けるわ」

「『見続ける』んですか?」

怪訝そうにセフィは訊き返す。

「そうよ。

これからの日々を、帰ってくる双子たちを、人類を、そして『最後の審判』の行く末を。

――その全てを見続けるのよ」

いつものようにきっぱり言いきった。だが、続く呟きを二人の耳には届かせはし無かった。

――そして、ワタシたちみんなの幸福を探すのよ。

これこそがクレアリデルの選んだ果てしない道。

 

 

そして再びすべてが終わる。

 

 

一九九九年七月――

終わりの日。

人類は終局を迎えていた。

降臨した第一天使は、ベスティアとベスティアリーダーを相手に果てしない死闘を繰り広げていた。

第二天使はついに『光の子』を生むことは無かった。

第三天使は『お役目』のままに地球を崩壊させてしまった。

何もかもがかつてのように繰り返されてしまった。

――また、ここで終わってしまったのね……

クレアリデルは地球を新生した。やはりフォルシーニアが願ったように彼女の身体を基にして。

何もかもがかつてと同じように終わった。

何もかもがかつてと同じように始まった。

定められた道行きを変えたくていくつもの手段を講じたはずだった。その中には明らかに過去からそれに続く未来を変えてしまうような物まであった。それでももたらされた結末は同じ。現実は変わらず双子たちを新生し、眼下には誕生したばかりの原始地球が静かに浮かんでいる。

クレアリデルが最も望まなかった、数十億年ぶりに訪れた、繰り返される数十億年の始まり。

過ぎ去った時を思い返してみた。すでにぼんやりとしたおぼろげなものになっている。これが何度目かなどとは疲れ果てたクレアリデルの心には全くの無意味であった。螺旋状のこの時間を最後まで続けて行けば、いつかは果てへと辿り着けるはずだった。だが、いまだ、超越者となり得ぬクレアリデルとメルキュールにとっては、この螺旋階段を確かに昇ってはいても、それを真上から見下ろしたように同じ場所をぐるぐると回っているように感じていた。

――もう、終わりにしましょう……

力無くぽつりと呟いた。それもたちまち虚空に霧散する。

――この一回で終わりにするのよ

疲れ果てていた。同じ数十億年を繰り返すことに、同じ結末に辿り着くことに。そして再び始めることに、再び終わることに、再び続けることに、長い永い、時の概念すらもその意味を失ったそれほどまでに永い時の果てに流れ着いた、絶望すらも朽ち果て尽くした果ての果て。

――もう、これでお終いにしましょう……それでもいいでしょう、メルキュール

――今ここで終わりにはしないの? クレアさん?

静かに、音も無く姿を見せるネガレイファントル。

――できないわ……。フォルは、やっぱり人類の聖母になることを望んだもの……。だから、あの娘のためにもここで終わりにはできないわ

――未練? 悔いが残る? それともやっぱりフォルがいないのは寂しい?

――全部、よ……。後悔するかもしれないし、フォルがいないのは嫌だもの

一切の音の無い世界。二人のやり取りさえもPsi能力ではない意志の疎通。

――だから、あと一回。あと一度だけ

――いいの? 本当にそれでいいのクレアさん。今ここで終わりにすればあたしたちは……

それはいつかどこかでクレアリデル自身がフォルシーニアに言った言葉。

力無く首を振る。本当に弱々しい動作。

――分からない……分からないわ。でもワタシたちは始めてしまったのだからいつかは終わらせなければならない。だからこの一回だけ始めて、そしてお終いにする……ワタシはそれでいいと思う

かつて、送り込まれたこの時空の始まり。そこからすべてを始めるはずだった。クレアリデルとメルキュール。二人ですべてを始めるはずだった。リガルード『神』などという者は最初から存在しない。天使たち堕天使たちが自らの使命に自覚と誇りを持つようにとクレアリデルとメルキュールが創り上げた偽りの神。

二人も最初は希望や熱意というものを持っていた。世界そのものをより良い方向へと導くのだと、自らの使命に誇りを持っていた。だが、あまりにも永すぎる時間はそんな二人の思いや使命感を水でも注ぐかのように薄めていった。

絶望的な人類の行く末。超未来、超々未来に訪れるそれを回避すべく彼女――聖地エヌベルユの巫女は超未来に願いを託し、リガルード『人』を発生させた。

だが、その『お役目』を果たすべく目覚めた時には、すでにリガルード『人』は一人だった。創造主も仕えるべき主人も、もはやこの世界には存在しなかった。

人類をより良い存在へとする。

だから、その使命だけは果たしたかった。創造主の願い通りの世界にしたかった。それを叶えるべくリガルード『人』は人類そのものを監理する体制をとった。すでに地球は人類自身の手によって崩壊していた。取り返しのつかない一線を踏み越えていたのだ。それ故にリガルード『人』はそうしたのだ。しかし、当然だがリガルード『人』は真に全知全能の存在ではなかった。だから、失敗した。万全を期そうとする監理は反感を買った。レジスタンスが組織されるまでそう長い時間はかからなかった。

失敗である。

そう結論し新たな手段を講じた。リガルード『人』は現状を変えることが非常に困難であると判断し、根本から人類という種そのものを変える手段に出た。

ほぼ無限に再生と新生の能力を行使し得る天使と、限り無く全能に近い堕天使を造り過去へと送り込んだのである。

そしてリガルード『人』のそれはループに陥った。

そして天使と堕天使たちのそれは螺旋状になった。

どちらも果てしなかった。ループに終わりは無く、螺旋の限りは果てしなかった。

――いつからズレ始めたのだろう?

思い出すことはできなかった。

しかし、いつの頃からか確かにズレが生じ始めていた。

その目に見える証がフォルシーニアである。

最初の頃はまだフォルシーニアは第三天使としての『お役目』を果たしていた。迷ったり躊躇ったり、色々と思い悩み考えることはあっても自らの『お役目』だけは実行していた。しかし、いつからか思い悩む時間が多くなっていた。憂いた表情を見せるようになっていた。疑問を抱くようになっていた。最初から始める度に、何もかもをリセットして『やり直し』にしていたはずなのに、それでもフォルシーニアは心のどこかで自分が終わらせる者だということを覚えていたのかもしれない。

――そんなはずはない。

即座にそう否定した。したかった。しかし、ついにフォルシーニアは自らが地球の基になることを望んでしまった。それが願いだとも言った。耐え難い苦痛であった。だが、それが彼女の望みならクレアリデルには耐えることもできた。再生と新生のワザを行使できる以上、彼女がしたいように見守っていることもできた。が、取り返しのつかない避けては通れぬ事態はあっさりと訪れた。繰り返してきた今までと変わらないくらいに、ごく自然に。

――認めない。

そう思った。頑なにそう思った。

サダクビアは語った。無情なまでにあっさりと語った。クレアリデルの頑なさを――サダクビアにそれはできないが、嘲笑うがごとくあっさりとした物言いだった。

そして一九九九年七月。

エインデベルはベスティアとベスティアリーダーを相手に死闘を繰り広げた。

リアムローダはついに聖母となることが無かった。

フォルシーニアはまたしてもそのワザを行使した。本来の形に戻ることも無く。

もはやクレアリデルとメルキュールの力をもってしてもどうすることもできなかった。

 

 

そして再び始まった。

望まれて始まった。

またしても繰り返すだけかもしれない。同じ道を辿り、同じ結末へと辿り着くだけかもしれない。

――いいの? クレアさん

――わからない……

静かに青い星は佇む。天界で新生するフォルシーニアは不完全でしかない。彼女を構成する心の中枢――魂とでもいうモノはこの星の上で生命のスープとなってたゆたっているのだ。それはこの星に生まれる命すべてに宿るといってもよい。

――さ、帰りましょ、クレアさん。帰ってフォルを生んであげなくちゃ

――そうね、メル……

音も無く二人は消えた。

 

 


 

 

メル「そして、どうか、あたしたちに幸せな時間を……。

 

最終話『穏やか』」

 

 


 

 

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